第四章「空白は、キミ」
4-1
僕は夏が大嫌いだ。暑さというものからは、例え全裸になろうとも逃れられないのに、現代人類は服を着なければならないなどと、法律を作ってしまった。不合理ではないかとは思うが、それに抵抗するほどの勇気も権力も僕は持ち合わせていない。
仕方なく、今僕ができる最高級のクールビズ、半そで短パンで扇風機の前にいるのだが、暑いのに変わりない。
全身に滲む小粒の汗が不快感だけを僕の体に植え付けていく。
生憎、自室に冷房が付いているわけはなく、全開の窓から入る微量の風と扇風機が一部的に吐き出す生温い風に僕は頼らざるを得ない。
机の上に置いた、やりかけの課題も暑さにもがくようにぱらぱらと何秒かに一度痙攣をおこす。
「何この部屋、お兄ちゃん私の部屋に来たら?冷房ついているし、こんな部屋にいたら蒸し焼きになっちゃうよ」
扉を開けるや否や、顔を顰める鈴はこの家で唯一僕を労わってくれる存在だ。
「ありがとう鈴。お言葉に甘えさせてもらうよ」
僕は扇風機の電源を切って、戸締りし、課題を持って隣にある彼女の部屋へと向かった。
色が薄くなった可愛らしいうさぎの札は健在で、「すずか」とこれまた場違いなほど綺麗な黄色で書き換えられていた。物持ちいいのは感心するが、これくらい買い替えればいいのにと思ってしまう。
また、バイト始めたらプレゼントしようかな、何て考えながら静かにドアを押した。
冷房は偉大なり。
今の今まで、包み込むように纏っていた暑苦しい大気が一斉に離れていき、代わりに乾いた布のような涼しい空気が僕の体にそっと触れる。
間取りは僕とあまり変わらないが、程よく並んだ縫いぐるみなどの装飾品は鈴の部屋を彼女らしくしていた。整理整頓の行き届いた、統一感ある部屋だ。
僕は「お邪魔します」と、中央の机の傍らに置いてある座布団の上にゆっくりと腰を下ろした。こんなところ義父母に見られれば確実に鈴が怒られるだろうなと思うが、彼らが帰ってくるのは深夜なので、明るいうちは安心してここにいれる。
「お兄ちゃん、携帯鳴ってるよ?」
寛ぎきっていた僕のポッケ越しに地面と何度もぶつかって、同じテンポで鳴ったり止んだりを繰り返していた。「ほんとだ」と、無機質に着信を知らせる、傷だらけの携帯を取り出して誰から来たか確認する。百合からだ。
「ちょっとごめん鈴」
僕は人差し指を鼻の前で立てて、もう一方の手で電話に出た。
「もしもし。匙君?百合だけど今いい?」
「うん、大丈夫だけど」
そして百合は「青木君に――」と前置きをして、「来週、学校近くの神社である夏祭りに三人で行かない?」声のトーンを上げた。
彼女によると、『俺と桃田さんと花濱の三人で夏祭りにいきませんか?』と敬語のメールが届いたらしく、僕が行けるのか確認をするために電話をかけてきたらしい。青木も頑張っているなと感心しそうになったが、僕も中に入れているあたり、大胆さが足りない。
ブーメランでそっくりそのまま僕に帰ってきそうな酷評をつけて、「僕が行かないって言ったら、君はどうするの?」彼女に尋ねる。
「その場合は私も断るわ。青木君とはまだ少ししか話をしていないのに、二人きりなんて気まずいじゃない?それに…」
「それに?」
ごく自然に聞き返すと「なんでもない!」と謎に怒鳴られて、受話器の向こう側の百合に首を傾げた。それを見ていたかのように「ごめん」と謝罪が聞こえた。
もう僕は、青木の気落ちを酌んで行くという選択肢しか残っていないように思えたので、「行くから君も来てくれ」と彼女が来る方向で話を進める事にする。
正直シオンの事があり、心から楽しめそうもないのだけれど、メールの送信ボタンを押したときの青木の顔を想像すると、友人として協力するほかないだろう。
「わかった。匙君が行くなら、私に断る理由はなくなるしね」
「ありがとう。感謝するよ」
彼女は不思議そうに「なんで匙君が感謝するの?」と聞いてくるので、「なんとなくさ」と答え「変なの」彼女はクスっと笑う。
その後、課題の進み具合や「最近熱いね」なんて話で一通り盛り上がったあと、「じゃあ、また来週。楽しみにしてるね」で通話を終了する。
そして待ち受けに戻ると、新着メールの受信を表示していたので、流れで開くと青木からだった。
『俺、夏祭りで桃田さんに告白するよ。だから花濱、手伝って』
あまりにも唐突に彼の決意が固まっていて驚いたが、なんか心が暖かかくなるような気がした。
「お兄ちゃん、なんかうれしそうね」
「恋のキューピットとしてこれ以上ない名誉を、僕は今感じているんだ」
きっと百合も、彼の本心を知ったら喜ぶだろうな。クラス一の人気男子に告白されて、断るはずがないだろう。
「変なの。けど頑張ってね」
僕は頷いてから、鈴が僕に言葉をそのまま青木に送った。
『頑張れよ』って。
「「あなたは……誰?」」
「僕は、君が!」
薄暗い天井に、車のライトが反射して束の間の明かりをもたらす。
いつの間にか荒くなっていた息を整えながら、僕はゆっくりと上半身を起こして時計を確認した。時刻は午前二時。丑三つ時と呼ばれ、昔から妖や幽霊などが跋扈すると云われる時間帯だ。
けれど生憎僕には見えないし見えたこともない。ここに来てすぐの頃は、よくこの時間に外を徘徊して地縛霊を探したものだ。あの時は、ここに何年もいる地縛霊に僕が此処にいていいと認められたら、僕の存在が本当に肯定される気がして。
近所の社、神社、地蔵、すべてを制覇したけれど結局見つからなくて酷く落ち込んだのは今でも忘れられない。
「あなたは誰?か……」
僕は、心に突き刺さったシオンの言葉を何度も往復して精神をすり減らす。怯えた、というより半分慄いた彼女の瞳が瞼の裏に張り付いて取れない。それと同時に彼女が夢で叫んでいた言葉も、同じくらい頭の中でリピートしている。
交わりかけた直線が、ある地点を期に屈折したように交わろうとしない。
メモリーのヒントを一つ一つ、僕とシオンに当てはめていく。
――「記憶の欠片は、心の中に」。
これは、彼女の閉ざされた思いを開き、事故の事を思い出すと何かが起きるという事だろう。
――「テーマは、愛」
僕はいきなり躓いてしまう。これは百合に僕が助けたのはシオンと教えてもらった次の日の朝にもらったヒントだ。そう言えば二度目の夢を見たのも、その日だった。
そもそもテーマってなんだ?愛と云うのもまた、曖昧で僕のなのか、シオンなのかはたまた他の誰かなのか分からない。しかも、事故の記憶と僕らの恋路なんて関係しているのか?
いくら考えても分からないので、一旦後回しする。次は、
――「偽りの、嘘」
これに関しては、もう言葉の意味が分からない。何かを偽ることを「嘘」と云うのだろ?それとも偽りを偽る、結局本当の事ってことか?嘘のようで、本当の事。それが「偽りの嘘」?
彼女に悉く拒否されてから、届いたってことは彼女の言葉はすべてが事実という事か?いや、違う。僕たちはあの日までほぼ毎日、図書室で話をしていた。そうなのに彼女が僕を「知らない」はずがない。
いくら事故の記憶がフラッシュバックしたからと云って、ついさっきまで会話していた僕の事を忘れるほうが難しい。
静寂が支配するこの部屋に、携帯のバイブレーションが場違いに鳴り響いた。誰からは大体予想はついている。
メモリーからだ。
『悩んでいるようだね、キミ。
視野が狭すぎるんだよ。何もかもが、狭すぎるんだよ。
だからキミは浅はかなんだ、人間としても兄としても恋のキューピットとしても。
見てるようで何も見えちゃいない。
キミはキミしか見ちゃいないんだよ。思い込みが激しい。
自惚れも甚だしいってことさ。
他人をもっとみなくちゃいけないよ。病院から退院するとき決意してたじゃないか。変わるって。
きっと、キミなら出来るさ。
臆病なキミは、飛べる鶏だとワタシは期待しているよ』
――そんな……。命を取るとか言っときながら無責任だ。
『ワタシは全知全能の神じゃないから、そんなこと言われても困るよ。
キミが助けようが、カノジョが嘆こうが、キミは死んでいたんだ。
けれど、二人とも助かったんだよ。条件付きでワタシが手を貸したからね。
キミはもっとカノジョを理解しなくちゃ、キミの中のカノジョも正しく理解しなくちゃいけないんだ。
キミにとってカノジョはどういう存在?』
――分からない。
『じゃあもっと悩みなさい。
もうワタシは眠るよ。おやすみなさい』
――待って、
僕は何度も心の中でメモリーを呼んだけれど、返信が来ることはなかった。だから今まで届いたメールをすべて、一語一句見逃さないよう、丹念に見直した。能天気な口調の文章を覚えているうちに、気付くと僕は深い眠りについていた。
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