第14話 ナミダノコエ


留学先での勉強もステイ先での生活も何もかもが大変だったが得る物はそれ以上だった。

日本を飛び出して視野が広がり留学して良かったと思う。

ただ一つの心残り以外は。1年ぶりの日本だがおまけがついていた。

「久しぶりの日本だね。涙が出そう?」

「そんなもの出るか、バーカ」

「シュンが馬鹿って言った」

留学先にまで遊びに来た綾羽が一緒でご丁寧に帰りの便まで合わせていた。

手続きも滞りなく終わり成田空港の到着ロビーに出る。

「シュンが手続きに困ると思って」

「困らないよ。子どもじゃ無いんだから」

綾羽を笑い飛ばしてスーツケースを持つ手に力を込めて前を見て足が止まる。

俺の視線の先には車椅子に乗っている椎奈先輩の姿が見え錯覚かと思いもう瞬きをしてみたが見間違えじゃなかった。

「椎奈先輩、どうして」

「…………」

俺の問いに返事はなく一筋の光るものが椎名先輩の頬を伝って落ち、動く事が出来ないでいると車椅子が遠ざかっていく。

「シュン、早く追いかけて」

「駄目なんだよ、俺じゃ」

「馬鹿! 椎奈先輩の涙の意味が解らないの? 椎奈先輩は私とシュンが」

綾羽の言う事は頭では分かっている。

それでも心残りと言う鋭い杭が足を貫き地中深く突き刺さり動かすことが出来なかった。


日が傾きかけた実家に荷物を放り込んで取り敢えず母の勤め先に向かう。

理由は至極簡単で帰り次第顔を見せる事と大事なお客との打ち合わせで何時に帰れるか分らないと連絡を受けていたからだ。

母の勤務先で名前を告げると直ぐに取り次いでくれた。

「おお、愚息。帰ったか」

「取り敢えず足があるから生きているみたいだけどな」

「これからの予定は?」

「ん、久しぶりだから適当にぶらついて帰るよ。飯は適当に済ませるから」

俺の顔を見て安心したのか何処となく母の顔が緩んでいる。言葉にした通りぶらついてから帰る事にする。

しばらく歩いていると隅田川に出て橋を渡り遊歩道に降りて歩き出す。

あの時は冬の冷たい風が吹き抜けていたのに今は春の心地よい風が吹いている。

それなのにあの時より冷たく感じるのは気のせいだろうか。

少しするとスマホが着信を告げた。

「もう恋しくなったのか」

「シュンは今どこに居る。忙しいのだから2秒で答えろ」

「隅田川の遊歩道だよ。もうすぐ我妻橋だ」

「そこを動くなよ。もし動いたら親子の縁を切るからな」

応戦しようとしたのに母は言い切って電話を切ったらしい。意味が解らないので掛け直そうかと思ったが止めた。

緊急の用事でない限り職場には電話しない事になっている。そんな事を踏まえたうえでのことなのだろう。

仕方なく手摺りに体を預けてライトアップされたスカイツリーを眺めため息をついた。


どれだけ時間が過ぎたのだろう。気付くと周りはカップルだらけになっていた。

暖かくなって活動的になったのか年中ポカポカのカップルには季節なんて全く関係ないと思うが。

そろそろ事情を知っていそうな綾羽にでも電話して聞いてみようかと思いスマホを取り出すと橋の上で金属同士が激しく当たったような甲高い音がした。

スロープを見上げると暗くて良く分からないが誰かがスロープの手摺りにしがみ付いているのが見える。

アルミ製のロフトランドクラッチと言う杖を使いながら覚束ない足取りでスロープを降りてくるようだ。

手助けに行こうと思ったが足が再び凍り付いたように動かなくなった。

歯を食いしばりながらその瞳は何処までもまっすぐで。

必死に足を出そうとしているが何度も転びそうになり手摺りにしがみ付くたびに甲高い金属音がする。

それでもその歩みは確実に俺に向かってきていた。

スロープと遊歩道の境で躓き体がバランスを失い。

何かにはじき出される様に抱きしめていた。

「椎奈先輩、リハビリ頑張って立って歩けるようになったんですね」

「シュン……」

椎奈先輩の言葉はあふれ出した感情に呑み込まれ。

隅田川には桜の花びらと共に椎奈先輩の泣き声が流れ出した。


今日、シュン君が留学先から帰ってくることを知って。

成田空港で向き合って話そうと思っていたのに。私の事なんか忘れたかのようにシュン君は楽しそうに笑いながら綾羽ちゃんと到着ロビーに現れ。

そんな2人を見た瞬間に頬を伝うものを感じ逃げ出してしまった。

未希が待つ駐車場に向かうと1人の私を見て未希が肩を落として運転席から降りてきてくれる。

「なんで泣いているのかしら。もう泣き言は言わないんじゃないの」

「シュン君は綾羽ちゃんと楽しそうに」

「ちゃんと話をしたの?」

ただ首を横に振る事しかできない。

「呆れた」

「ごめんね」

未希の顔を見る事が出来ずに視線を落とすと未希がいきなりフロントガラスを叩いた。

「真琴は何のために必死にリハビリをしてきたの? 誰に立って歩く姿を見て欲しかったの? 和希さんなの?」

「違う」

「覚悟を決めて成田まで来たのに一緒に帰ってきた理由も聞かずに逃げ出すようならシュンを諦めなさい。今のあなたにシュンの横に立つ資格はないわ」

未希に核心を突かれ歯を食いしばる事しかできないでいると未希が車のドアを開けてくれた。


成田から都内に向かう車内は凍てつく空気に包み込まれ春だと言うのに凍えそうだ。

車窓の外は私の心模様の様に暗く落ち込んで見える。


「着いたわよ」

「えっ?」

未希に言われ周りを見ると見た事のない住宅地だった。そして車は一件の家の前で止まっている。

「未希、ここは何処なの?」

「シュンの自宅よ。電気が点いていない所を見ると綾羽ちゃんと食事かしら」

「もう、帰ろうよ」

「それ本心なの? 今泣いたら絶対に許さないからね」

今にも零れ出しそうな涙を必死に堪えると未希がどこかに電話をし始めた。

「お仕事中にすいません。眞鍋ですが。はい。はい。そうですか分りました。お願いします」

「…………」

何も言えず未希の顔を見る事も出来ないでいると着信音が聞こえ未希が電話に出ると直ぐに車を走らせた。

しばらく車は走り700キロある提灯がランドマークになっている雷門の前を過ぎて車が止まった。

「ここから先は自分の足で進みなさい。私が出来るのはここまでよ」

「えっ?」

未希の視線の先には我妻橋が見えた。

あの橋の下には隅田川が流れその川沿いにはシュン君と最後に分かれた遊歩道がある。

私は車のドアを開けてロフトランドクラッチと言う杖を両手にはめて覚束ない足取りで歩き始めるとあの時の事が鮮明に蘇ってきた。


「シュン君、待って!」

スロープを駆け上がるシュン君には私の声は届かなかった。

「なんで和希はシュン君にあんなひどい事を言うの」

「俺は椎奈の事を思って」

「違う。違う。違う」

全身を使って和希の言葉を否定する。

「和希は私の事を可哀想な女の子としか見ていない。でも、シュン君は違う。私を可哀想だなんて思っていない。車椅子だって目が悪い人が掛ける眼鏡と同じだって言ってくれた。和希には本当に感謝している。でも和希は昔から何も変わっていない。守ってくれているようで本当はどういう風に見ていたの? 可哀想にって上から見てたんじゃないの? 違う?」

「椎奈がそう感じていたのならならそうかもしれないな。だから椎奈は彼を選んだんだな。悪かった」

「許してくれるかは分らないけれど、大学で謝ってみるから」

でも、謝る事は叶わなかった。

シュン君は週明けに留学の最終確認をしに大学に来て直ぐに留学先に発ってしまていた。

あの時、歩ければシュン君を追いかける事が出来たのに。

そう思って必死にリハビリをして立てる様になって……


今はスロープを降りる事に集中しないとそう思っても気ばかりが焦ってしまう。

バランスを崩して手摺りにしがみ付くとシュン君がこっちを見ているのに気付き歯を食いしばる。

あと一歩でスロープも終わりだと思ったら気が抜けて躓いてしまい目を瞑ってしまう。

すると抱きしめられ暖かいものに包み込まれた瞬間に今まで心の奥底に押し込んでいたものが声にならずに一気に溢れだしてしまった。

「椎奈先輩?」


まだしゃくり上げている椎奈先輩に声をかけると堰を切った様に話し始めた。

和希さんはこの春に結婚する事。必死にリハビリで歩行訓練をしてきた事。

そして真っ直ぐな潤んだ瞳が何かを言おうとしているけど何も言わなくても今ならわかる。

先輩を助けてぼこぼこにされた時にも泣いてくれた。

あのクリスマスの涙の意味も。

俺が再び走りだすきっかけになった涙のわけも。

上野動物園では俺の身を案じて。

海で指輪を贈り合った時にも拭っていたね。

桜の前で俺が怪我した時にも。

初めて口喧嘩した時に流した涙。

駅伝でも泣いてくれた。

そして成田で。

椎奈先輩のナミダノコエが溢れだす。

「俺、椎奈先輩が歩けるようになって欲しかった。でも今の俺じゃ何もできない。だから留学して必死に勉強してきたんだ。ハンディキャップがある人の力になる為に」

「それじゃ、シュン君は私の為に」

「あの時の続きを今言わせてください。留学から戻ってくるまで待っていてください。大好きです」

あの冬、ここで言えなかった事を伝えると椎奈先輩はまた泣き出してしまった。

でも、それは哀しい涙じゃないだろう。

「私も。シュン。君が。好き。大好き。なの。だから」

「何処にも行かないよ。約束する。だから泣いて良いよ。椎奈のナミダノウタを聞かせて」

椎奈先輩が俺のシャツを攫むと心のすべてが涙になり溢れ出した。

隅田川の遊歩道に静けさが訪れた。

「椎奈?」

声をかけても返事もなく可愛らしい寝息だけが聞こえてくる。緊張から解き放たれ泣き疲れて寝てしまったようだ。

眞鍋先輩にメールをすると何とか歩けるようになったばかりで相当疲れている筈だからと言われてしまった。

何かあったら連絡をする事と少し様子を見る事を返信した。


春とはいえ夜はさすがに冷える。

このままでいれば風邪をひきかねないが椎奈先輩が起きる気配はなかった。

「母ちゃん、ごめん」

「何処に居るの? 一緒なのね」

「うん、我妻橋。椎奈先輩が疲れて寝ちゃって」

「迎えをよこすから」

仕方なく助けを求めると直ぐに動いてくれた。

椎奈先輩を抱きかかえて我妻橋の袂で待っているとホテルのワゴンが止まり乗り込んだ。

母の職場であるホテルに着き再び椎奈先輩を抱きかかえ母の後を歩く。

用意してくれた部屋に着くまでに結果だけを簡潔に伝える。

椎奈先輩をベッドに静かに寝かせると後は母に任せ一端俺は部屋から出た。少ししてドアが開き母が部屋から出てきた。

「上着を脱がせて化粧も軽く落としたから。後は任せるわよ。まだ孫の顔は見たくないから良いわね」

「するか!」

母から紙袋を受け取り小声で猛烈に抗議するが完璧にスルーされた。

留学から戻ったばかりなのに怒涛の展開で。

フラフラとバスルームに向かい体を温めてベッドに潜り込むと一瞬で堕ちた。





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