第18話 月の沙漠

「本当にここなんですか?」

夏合宿初日に宿泊先に到着しての第一声がこれだった。

ここは千葉の御宿で御宿といえば大人気の海水浴場で民宿が沢山ある。それも老舗と歌っている古い民宿から真新しい民宿まで。

でも目の前には……綺麗なホテルが。

ナチュラルなインテリアで纏められたガラス張りのロビーからは御宿の海が見え秋川先生がフロントでチェックインをしている。

「これが部屋割りだ。部屋に荷物を置いて2階の多目的ホールに集合。集合時間は10分後。散りやがれ」

「もう、鬼畜! 鬼教官の馬鹿!」

ドサクサに紛れて栞が暴言を吐いている。

鬼教官が持つ部屋割りを見て一斉に移動開始する様は蜘蛛の子を散らすを絵にしたようだ。

「凄い。オーシャンビューの部屋だ」

「汐音、そんな事より急いで2階に行くよ」

「う、うん」

リゾート感満載のツインルームを楽しむ余裕もなく2階に降りる。

多目的ホールには藤倉高校ご一行様の張り紙があり皆は既に座っていた。

多分、部屋に荷物を放り込んで来たのだろう、栞と椅子に座ると鬼教官が点呼を始めた。

「よし、揃ったな」

「あの、先生。一つ質問して良いですか?」

「なんだ」

「こんな豪華な合宿なんて聞いたこと無いんですけど」

鬼教官こと秋山先生は腕を組んだまま質問した生徒を凝視していて今にも泣き出しそうな顔をして質問した子が座ってしまった。

「実に良い質問だ。今回の合宿は特別で瑞樹がフォトコンでグランプリではないが大賞を取ったと言う事でフォトグラフ学科の評価が上がってな。学校側から特別に許された褒美の様なものだ」

「それじゃ遠泳は」

「褒美だと言ったはずだ。盛大に羽根を伸ばすぞ!」

鬼教官が拳を突き上げ地鳴りの様な雄叫びが上がり栞には抱きつかれてしまう。

常任講師自ら羽を伸ばすって……良いのかな?

ここは流されて置くべきなのだろうがフォトグラフ学科のクラスメイトからは盛大に感謝されてしまい冷や汗しか出てこない。

「貴博もフォトコンで入賞しているけれどあいつはセミプロだからね」

「えっ、徳丸君も賞を取ったの?」

「だからあいつはセミプロだからさ、気にしなくて良いの。学校側にしてみれば1年の時に初めて一眼レフを手に取った女の子が3年生の時にフォトコンで入賞してそれも大賞なんて、喉から手が出るほどの快挙だと思うよ。学校のパンフに大々的に載ってさ、凄い宣伝効果になるはずだもん」

「そのご褒美か。でもやっぱり恥ずかしいよ」

栞には気にしないで楽しもうと肩を叩かれてしまった。

そして徳丸君にも凄いことなんだよ胸を張りなよと言われるけれど余計に萎縮してしまう。


「やっほーぃ!」

スポーティーなタンキニを着た栞がサーフパンツ姿の徳丸君と一緒に海に駆け出していく。

そんな姿を私は水着の上にTシャツを着て見送る。

「汐音は泳がないのか?」

「秋川先生、素敵な水着ですね。私はちょっと」

「まぁ、無理にとは言わないよ。女の子にとって大きな傷を人前で晒すには抵抗あると思うしな。でも楽しみなさい」

「はい!」

秋川先生に笑顔で言われ何かが吹っ切れた気がする。

そんな秋川先生の水着は薄いブルーから濃紺のグラデーションが綺麗なフォルターネックのビキニで同じ柄のパレオを腰に巻いている。

長い黒髪を靡かせ歩く姿は水着とパレオのオリエンタルな花柄と相まって注目を集めていた。

あの体型で子どもがいるなんて知っている私でさえ信じられない。

森山先生はと言うと。パラソルの下でサマーベッドに座り込みTシャツにキャップを被りまるで監視員のようだ。

白い砂浜には沢山の人がパラソルやレジャーシートを広げていて遊泳区域外ではマリンジェットやウィンドーサーフィンを楽しんでいる。

Tシャツのままで海に入り栞達と海を楽しむ。

ビーチボールで遊んでいると栞が森山先生を呼んできてしまった。

「ほら、汐音。勇気を出してTシャツを脱ぐ」

「もう!」

栞に言われて渋々Tシャツを脱ぐけれどやっぱり気になり胸元を両腕で隠してしまう。

恐る恐る森山先生を見ると視線を逸らされてしまい涙が出そうだ。

「モーリ、勇気を出して水着になった女の子にその態度は無いんじゃないの? ただでさえ汐音は」

「僕は瑞樹の傷跡なんて何とも思わないよ。それにフリルで隠れているじゃないか」

確かに私が着ているビキニはフリルが沢山付いて傷跡はそんなに目立たないはず。

それは栞と水着を買いに行った時に栞からアドバイスを受けてこの水着を買ったから。

「じゃ、何で汐音から目を逸らしたの?」

「その、何だ」

「モーリ、煮え切らない男の人は嫌われるよ」

「はぁ~ スカイブルーのビキニは汐音によく似合っているよ。でも僕の知らない間にそんなに成長した姿なんて凝視出来ないよ」

頭を掻きながら私の事を瑞樹じゃなくて汐音と言う時点で森山先生が動揺しているのが分かる。

成長した姿って…… 頭から湯気が噴出す音がして真っ赤になり胸を隠したまま波打ち際にしゃがみ込んでしまう。

「そうなんだよね。昔の汐音は痩せていて貧相な体をしてたけど今はね」

「栞まで酷いよ」

「でもさ親友に胸の大きさで負けたら悔しいじゃん」

栞の言うとおり手術してから栄養状態が改善され体重も少し増え身体の肉付きも良くなったけれど一番増えたのは胸で。

それはブラがキツくなり始めて気付いたけれど誰にも言わないでブラを少し大きめにしていたけれど栞と水着を買いに行った時に栞にはバレて落ち込ませてしまった。

だからTシャツを脱ぐのが嫌だったのに。

「ほら、瑞樹。楽しい事が一番なんだよ。でも人生は楽しい事ばかりじゃないのは汐音が一番知っているよね。だからこそ僕は汐音に楽しい事を見つける達人になって欲しいな」

「うん」

「モーリは大人だね。私もって……何でそこ逃げるかな」

徳丸君が気まずい空気を感じ取り足早に離脱しようとして栞に追い掛けられている。

森山先生も公私のケジメを付けようとしているけれど大変なんだと思う。私だけじゃ無い事が分かって何だか嬉しい。

海で遊ぶのは流石に疲れお風呂に入り皆と食事して部屋に戻ると知らない間に眠っていた。


「おはよ! 汐音」

「う、うん。おあよ。栞は元気だな」

「元気だけがとりえだし。合宿中は勉強の事を考えなくて良いからね」

翌朝、栞に起こされてしまう。もう少し寝て居たかったのに無理やり朝食ビュッフェに連れて行かれて。

「おはよう。汐音に栞」

「お、おはようございます。森山先生」

いきなり森山先生に皆が居るレストランで下の名前で呼ばれ眠気が吹き飛んでしまう。

そんな事以上に日に焼けほんのり赤みを帯びている先生の顔に見惚れそうになり栞に背中を小突かれてしまった。

どうやら皆の事を下の名前で呼ぶように修正したみたい。危うく啓祐さんと言ってしまうところだった。

今日は一日中フリータイムになっていて夕食はBBQの予定になっている。

午前中は遊んでいる生徒なんて殆ど居なくって。軽装でカメラを持ってビーチを縦横無尽に動きまわっている姿は流石フォトグラフ学科と言うべきだろう。

そんな私と栞も風景や御宿と言えばやはり月の沙漠で駱駝に乗った王子様とお姫様のブロンズ像を思うがままにカメラに収めた。

昼食は何故海で食べると美味しいのか分からない海の家の定番である焼きそばやカレーにラーメンを食べて午後に備える。


「ホテルが見える範囲で遊べ。トラブルを起こした奴は粛清するからそのつもりでいろ」

教官の注意事項を聞いて皆が散らばっていく。

フォトグラフ学科の面々が使えるパラソルも先生がホテルの前に数本用意してくれた。

そんなパラソルの下でゆっくり過ごそうと思ったのに栞に連れ出されてしまう。

「もう、少しゆっくりしようよ」

「ちょっとだけ、ね」

何が『ね』なのだろう。徳丸君との事は公認の仲なのだから遠慮せずに遊べばいいのに。

まぁ、仕方がないか私も森山先生と遊びたいけれど出来ないものは出来ないのだし。御宿の海に入ると冷たく感じ遠浅だけど波もあるから綺麗なんだと思う。

そんな海で遊んでいると身体が冷えてきて……

「栞、ちょっとトイレに行ってくるね」

「うん、行っトイレなんて」

栞のオヤジギャグを初めて聞いてホテルのトイレに向かう。

ホテルを出て海に向かおうとして嫌な予感がした。確か初詣の時にも。

「ねぇ、彼女。1人な訳ないよね。友達と一緒かな」

「はい、そうです」

「俺、一応有名大学に通っているんだけど」

「そうなんですか。凄いですね」

両肩が地面に落ちそうだ。それでも今はあの時の私と違うのではっきり返事をする。

「強気な女の子って嫌いじゃないな」

「おっ、可愛いじゃん」

まるで何かのコントを見ているようにナンパしてきた自称・有名大学生の男の友達が現れた。

これ以上話しかけられるのが嫌で無視して歩き始める。すると追いかける様に後を付いて来た男に腕を掴まれてしまった。

「離して下さい」

「言ったはずだけど。強気な女の子が好みだって」

「ほぉ、強気な女が好みなのか。それは丁度良い相手をしてもらおうか」

背後から秋川先生の声がして思わず身震いしてしまう。

振り返ると秋川先生は昨日と同じ格好で腰に手を当て真夏なのに盛大に冷気を放っていた。

大学生風の2人が身動ぎもせずに秋川先生を見ている。

「な、何なんだ。あんた」

「保護者だと言ったらどうする」

「それじゃあんたが俺等の相手をしてくれよ」

「構わないが一つだけ条件がある。ビーチバレーで勝負しろ。勝てたら何でも言うことを聞いてやる」

2人の男の口元が緩み余程の自信があるのか相手が女だからと甘く見ているのか分からない。

秋川先生には勝算があるのだろうか?

今まで一度も秋川先生がスポーツをしている姿なんて見たことがないしスポーツをしていたなんて聞いたこともない。

「秋川先生、大丈夫なんですか?」

「心配するな。啓祐がいるじゃないか」

困ったときの森山先生頼みの様で気が引けてしまう。それでも後ろの大学生はやる気満々のようだ。

「啓祐、手伝え」

「何でユッコは面倒事ばかり起こすんだ。いい加減にしろ」

「森山先生、ごめんなさい。私がナンパされて」

そこまで声に出すと森山先生の手が頭に伸びてきてクシャとされて何も言えなくなってしまう。


ビーチバレーのコートの周りにはフォトグラフ学科の仲間以外にもギャラリーが沢山集まってしまった。

ギャラリーの中には男達に対する声援もあり仲間が紛れて居るようだ。

森山先生が脱いだTシャツを私に預けてコートに入っていくとギャラリーから歓声が上がり自分の鼓動が跳ね上がるのを感じる。

初めて森山先生の裸を見てしまった。

運動神経が良いのは知っていたけれど筋肉質でこんなに締まった身体つきだとは思っても見なかった。

まるでミケランジェロのダビデ像を見ているようだ。

対する2人の大学生も均整の取れた体をしていて身体を鍛えているかスポーツをしているのだろう。

コイントスが行われて試合が始まる。

「ビーチバレーの試合は1セット21点の2セット先取で行われて3セット目は15点なの。それで両チームの得点が7の倍数でコートチェンジが行われ3セット目は5の倍数で行われるんだよ。デュースの時は2点差ね」

スポーツ写真を専攻している神木 咲ちゃんが教えてくれてその手にはしっかりとカメラが握られていた。

急いでホテルまで戻りカメラを取ってきたのだろう。

審判は相手の大学生の仲間がしているけれど衆人環視のこの状況では不正は出来ない。

相手からのサーブを秋川先生が拾って森山先生がトスし秋川先生が返す。

直ぐに試合のスピードが早くなり相手の攻撃がシビアになってきた。森山先生が横に飛ぶようにしてボールを何とか返している。

1セット目を相手に取られてしまい2セット目も均衡していた。

コートチェンジが行われ私達の目の前でプレーが再開されようとした時に秋川先生が腕を腰に回し中指を立てて森山先生に何かのサインを送っている。

圧巻だった。

バスケットボールの試合の様に森山先生はジャンプだけでフェイントを取り相手コートにボールを打ち込み。

秋川先生は華麗にボールを拾っている。

『毎日のように砂浜で走り回っていた』関口先生の言葉が頭に浮かぶ。多分そこには秋川先生も居たのだろう。

幼い頃に森山先生は両親を亡くし秋川先生の家に引き取られて一緒に遊んでいたはずだから。

2セット目を先生達が取り3セット目に入ると殆ど相手のボールは砂浜に落ちる事はなかった。

秋川先生も森山先生もまるで砂浜の上を飛んでいるかのようだ。

「参りました。完敗です」

「で、どう落とし前を付けるつもりなんだ」

「好きなようにして下さい」

大学生の2人が砂浜に四つん這いになり疲弊し切っている。

すると秋川先生が右手を徐ろに上げると何処からとも無く水着姿のフォトグラフ学科の生徒達がスマホを取り出した。

「な、何をする気なんだ」

「あら、好きにして下さいと懇願したのは何処のどなたかしら。前にあなた方がナンパした女の子を落とせるか掛けをした馬鹿が居て。そいつは素性も悪行も未来永劫ネット上で晒し者よ」

カシャカシャとシャッター音が真っ白な砂浜で響き。奥歯をガタガタ言わせたまま大学生も周りにいただろう仲間も消えてしまった。

もちろんそんな画像は直ぐに消去され私達の記憶には未来永劫残らない。

「秋川先生って運動神経良いんですね」

「ユッコは高校でインターハイ優勝経験者だよ。散々練習に付き合わされてあのサインは反撃の狼煙。本当に情け容赦無いんだから」

森山先生は口ではそう言っているけれど私には何だか嬉しそうに見える。

「それじゃ啓祐は可愛い可愛い教え子が魔の手に落ちても構わないのだな」

「教え子に手を出すような輩は絶対に許さないよ」

「へぇ、教え子に手を出したのは誰だったかな」

「何もしてないだろ。ユッコは変な事を言うな」

確かに私と森山先生は非公開だけど付き合っていて言わば恋人同士のはずだ。それなのに森山先生の言葉通り2人の間には何もない。

少しだけ自信を無くしてしまう。


「肉! 肉! 肉!」

バーベキューテラスに肉の大合唱が響いている。

海水浴場ではどこもバーベキューは禁止されていて宿泊先のホテルから程近いテラスを貸しきっての夕食だが、目の前にはテーブルに埋め込まれているグリルでは炭が赤くなり皆と同じ様に肉を待ちわびている。

するとテラスの横にある海へと続く道に白いワゴンが停まった。

「あれって、モーリの車じゃない?」

「おまたせ!」

運転席のドアが開いて降りてきたのは大月先生だった。

「遅いぞ、亜希」

「相変わらすユッコさんは気が短いんだから。男子は食材を下ろすのを手伝って」

腹ペコの男子が食材と聞いて目の色を変えてワゴンの後ろから次々に発泡スチロールに入っている食材を降ろし女子が各テーブルに振り分けていく。

そして大きなクーラーボックスには色々な飲み物が入っていて。

「「「「乾杯!」」」」

各々が飲みたい飲み物を手に取り秋川先生の音頭とともに宙に翳しバーベキューが始まった。

焼けた炭に肉の油が落ちて煙とともに香ばしい香りと音を立てている。

「そうだ、大月先生はどうして」

「ある人に強請られてね、食材を調達して来いと簡単なメモ書きを渡されたんだ」

大月先生が差し出したA4の用紙には細かく食材が書かれているのに地図だけが子どもが描いたような絵だった。

「これでここがよく分かりましたね」

「合宿先が御宿と言う事とBBQの食材だと言うことで検討をつけて来たんだよ」

「まぁ、この絵じゃ仕方がないか」

小学生低学年レベルが描いた様な地図に『ここ』と字だけが達筆で書かれている。せめて住所ぐらい書いてあっても良さそうだがそれすら無かった。

「もしかしてこの地図ってユッコ先生が」

「完璧主義のユッコさんの唯一の汚点と言うべきか」

そこまで口にしてしまった大月先生が背後に気配を感じ油の切れたロボットのようにギリギリと音を立てて後ろを見た。

「良い度胸してるじゃねえか、亜希。読者モデルを無理やり口説き落として結婚しようなんて企んでいる奴は言うことが違うな」

「そんな事をここで公表してどうするんですか。言わない約束で食材を運んできたのに」

椅子にへたり込む大月先生と裏腹にフォトグラフ学科の皆はどよめきに似た声を上げて盛り上がっている。

「結婚するんですね。おめでとうございます」

「これも僕に写真を撮る楽しさを教えてくれた瑞樹さんのお陰なんだよ。あれから1人の読者モデルの笑顔に惹かれてね。楽しさを分かち合える相手に巡り会えたんだ」

「私は何もしてませんよ。撮影に誘うように仕向けた森山先生が私と大月先生の為を思ってしたことじゃないかって」

「そうだね。あの人のやりそうな事だね」

ワイワイとテーブルを回りながお喋りに花を咲かせていると日が傾きオレンジ色の光が世界を包み込んでいく。

すると一斉に皆がカメラを取り出し思い思いの場所に散って行った。

海がオレンジ色の光を反射し白い砂浜がオレンジ色に染まっていく。

空が一瞬だけ輝きを増したかと思うと徐々に光が弱くなり色が薄まり徐々に薄紫へと変化していき水平線に太陽が隠れた。

「撤収!」

「アイ、ショーティ!」 

見事なチームワークで片付けが始まる。

女子がゴミを片付けている間に男子がクーラーボックスや残った食材を発泡スチロールに詰めて車に運びあっという間に撤収が完了する。

「よし、終わったな。ホテルまで競争だ!」

「先生、ずるい!」

秋川先生がまるで子どもの様にテラスの手摺を飛び越えて砂浜を駆け出していく。

その後を生徒がカメラを手にして追いかけていった。

「それじゃ、僕はここで」

「え、大月先生は帰るんですか?」

「うん、明日撮影があるからね。それじゃ、またね」

「ありがとうございました」

大月先生もこれから合宿に参加するものだと思っていたのに森山先生の車に乗り込み帰ってしまった。

辺りは薄暗くなり空には金星が一番星となって現れ気が付くと森山先生と二人っきりに。

「宵の明星、黄昏星だね」

「誰そ彼ですね」

「逢魔が時とも言ってね。魑魅魍魎が実体化する時間でもあるんだよ」

「もう、怖い話をしないで下さい。大好きな時間を楽しんでいるのに」

森山先生はあんなに綺麗な写真を撮るのに何で変な事を言い出すのだろう。

唯でさえ進展しない近くて遠い距離なのに。

「帰ろうか」

「は、はい」

優しい瞳で森山先生が手を差し出してくれて思わず飛びついてしまう。その手はいつもと同じとっても温かい手だった。


秋川先生は授業の一環だと言っていた合宿には門限も就寝時間も決められていない。

自己管理をしろと言うのか生徒を信用しているからだろうか。

「本当に汐音って真面目だよね。集合時間さえ決まっていればそれに遅れるなって事でしょ。それに秋川先生にあれだけ言われたら誰だって自分で考えて動くよ」

「まぁ、その御蔭でこうしてお喋りが出来るんだけどね」

私と栞の部屋に咲ちゃんが遊びに来ている。

咲ちゃん情報では男子は海が見えない和室で女子はオーシャンビューの和室にそれぞれ5~6名に振り分けられていると教えてくれた。

それじゃ私と栞だけが特別ということになってしまう。

「まぁ、1年の時の燕ヶ岳での合宿でもそうだったし。割り振ると丁度余っちゃうんじゃないかな。それにこんなホテルに泊まれるのも汐音のお陰だしさ。誰も何とも思ってないよ」

「そうかな、フォトコンは私が応募したんじゃないから」

「で、森山先生とはどうなってるの?」

咲ちゃんが爛々と目を輝かせて私の方に詰め寄ってきた。

そんな興味津々の顔をされても言えない事だらけなのに言葉に詰まってしまう。

「森山先生と付き合っているんでしょ」

「え、な、何でそう思うの?」

「バレバレだよ。いろんな事が有ったけれどハッキリしたのは汐音が手術して2学期に戻ってきた時かな。物凄く落ち込んで元気が無くて、その後で森山先生が事故に遭った時の動揺の仕方は凄かったじゃん」

咲ちゃんの話ではフォトグラフ学科の殆どの女子が私と森山先生との事を知っているらしい。

女の勘なのか本質を見抜くフォトグラファーとしての技量なのかは分からない。私と森山先生の見方だよと言ってくれた。それだけで嬉しい。

「そうだ、汐音。これ」

「栞、何なのこれ?」

いきなり栞が小さく折りたたんだメモの様な物を私に渡した。開けて見て心臓が止まりそうになり時計とメモを視線が行ったり来たりしている。

メモには森山先生の字で10時にBBQテラスとだけ書かれていて。時計は9時55分を指している。

「栞のバカぁ!」

「「イェーイ」」

栞と咲ちゃんが満面の笑顔でハイタッチ!を交わすのを見て部屋を飛び出した。


ロビーに駆け下りて息を潜め辺りを見渡す。

確かテラスからビーチに出られたはずだと思いテラスのドアに手を掛けると秋川先生の声が背後から聞こえた。

「汐音はこんな時間に何処に行く気だ」

「…………」

口が裂けても森山先生に呼び出されたなんて言えないけれど秋川先生はお見通しなんだと思う。

「慌てると怪我をするぞ。暗いから気をつけて行って来い」

「へぇ?」

「ただし高校生であることを忘れるな。清く正しくだぞ」

「は、はい」

秋川先生に見送られるようにしてBBQをしたテラスに向かう。


ビーチに出るといつの間にか満月が顔を出して月明かりに照らされながら歩き出す。不思議と怖いと思わない。

良い匂いに導かれるミツバチのようにBBQテラスに足が自然と進む。

足元は暗くて覚束ないのに時間の事ばかりが気になり早足になってしまう。

朧気にテラスの所に人影が見えて急ごうとして砂浜に足を取られてしまった。

「キャッ」

「仕方がない奴だな」

「キャ!」

優しい声がして良い匂いに包まれたと思ったら森山先生に抱き抱えられるように立ち上がり手の砂を払い落とす。

見上げると淡い光りに照らされた森山先生の顔が見える。

「少し歩こうか」

「はい」

優しく手を握られ宿泊先のホテルとは逆の方に歩き出す。

「うふふ、王子様とお姫様みたい」

「駱駝には乗ってないけどね」

何処からとも無く月の沙漠が聞こえるような錯覚に陥ってしまう。

「はるばるとか、汐音は僕と何処に行きたい?」

「こうして結ばれて居るのなら何処でもいいです」

「そっか」

しばらく歩くと左手に防風林らしき木々の影が見え。周りには人影が無くなっていた。

少し先には花火の光が小さく見え楽しそうな声だけが微かに聞こえる。

「汐音は真面目だね」

「また、そんな事を言う。啓祐さんに言われると褒められている気がしません」

「不安なら不安だと伝えてほしいな」

「でも迷惑が掛かるといけないから」

啓祐さんのため息にも似た息を吐く音が聞こえ静寂が訪れる。でも決して嫌な感じがする静けさじゃなく寧ろ心地良いと言うか。

「汐音に告白された時に言ったよね」

「普通のカップルのような訳にはいかないってですか?」

「本当に真面目なんだから。汐音が側にいたら落ち着いて撮影なんてしてられないよ。今でも抱きしめたい衝動に駆られているのにの方だよ」

啓祐さんに改めて言われ、啓祐さんも私と同じ様に不安を感じ同じ事を考えていたのかもしれない。

そう思っただけで体温が急上昇するのが分かる。

ゆっくりと啓祐さんの顔を見上げると月明かりに照らされた優しい瞳に撃ち抜かれてしまった。

目を閉じると柔らかいものを唇に感じ離れていく。

「もう少しだけ」

自分でも信じられないくらい自然に言葉が紡ぎだされ再び柔らかいものを感じる。

「これ以上はごめんね」

「啓祐さんが謝ることは」

「僕自信がこれ以上は抑えられそうにないから」

「清く正しくですね」

おでこをくっけたまま笑い合う。言葉を発しないのに分かりあえる心地良さ。そばに居てくれるだけで安心できる。

今はそれだけで満足だった。

再び手を繋ぎ月の沙漠の歌のように歩き出す。

高校生活最後の合宿は少しだけ進んで幕を閉じた。

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