第4話 フォトグラフ学科 夏合宿-1
6月の終わりになると学期末テストが目前になり皆の眼の色が変わる。
「汐音は勉強してるの?」
「もちろんしてるよ。補修なんて絶対に嫌だから」
「その割には余裕だよね」
「だって私から勉強を取ったら何も残らないじゃない」
少し前までは本当に勉強以外何もなかった。
でも今は違う。少しずつ身体を動かして初めて最近は体育の授業に出ても息切れするような事が少なくなった。
ジョギングなどの長距離走は禁止されているから早起きして砂浜を散歩している。
「汐音は変わったよね。最近は血色も良いし」
「壊れないように自分を磨いているの」
「そっか。前向きになってきたんだね」
こんな風に変われたのも森山先生のお陰だ。
「そう言えば合宿はどうするの?」
「私は行きたいけれど身体がね」
栞が言う合宿はフォトグラフ学科で行われる燕ヶ岳の山小屋で行われる夏の撮影合宿のことだ。全員参加が基本だけど強制ではなく参加希望者を集って開催される。
参加者を募ってと言うのは建前で藤倉高校には修学旅行と言うものがなくその代わりに各学科で夏や冬に合宿が行われている。
心疾患を持つ者にとって登山となれば長距離走以上に過酷だ。気温や気圧の変化があり低酸素の状態で万が一何かあれば命の保証はない。
その為に森山先生や秋川先生も私には強く薦めなかった。
でも、私は可能性があるのなら行きたいと思い、砂浜の散歩を始めた理由もそこにある。
両親に合宿に行きたいと言った時に母は顔面蒼白になったけど父はどうしてもと言うならと主治医に相談してみろと言ってくれた。
母に付き添われ病院に行き主治医に行き先を告げると主治医が険しい顔つきになる。
「最近の汐音さんは身体を動かし始めたので数値も心臓も安定しています。しかし登山となると話は別です」
「私は反対したんです。やはり汐音の身体では無理ですよね」
母が必死になって主治医からノーと言う返事を引き出そうとしている。主治医が無理だと言えば可能性がゼロになった瞬間で半ば諦めかけていた。
「低酸素チャンバーを使って高所に耐えられるかテストしてみましょう」
「「ええっ」」
母と私の言葉が被ったけれど意味合いは正反対だろう。そして最終結果が数日後に分かることになっている。
「汐音はご機嫌だね」
「だって合宿に参加出来る事になったんだよ」
低酸素チャンバーを使ったテストの結果は良好で主治医が参加することを認めてくれた。
それでも体調の変化に気づいた時には直ぐに下山することを約束させられ万が一の時のために山岳保険に入ることを薦められた。
「今度は私が合宿に参加できないかも」
「ええ、どうして?」
栞がお先真っ暗な顔をしているのはテスト結果が悪ければ合宿に参加させないと両親に言われたらしい。
テストが返却され栞はギリギリで参加することを許された。
秋川先生に主治医に絶対に無理をしないことを条件に参加を許されたことを告げると私専用の日程表と念書を渡され両親の署名捺印を貰って来いと言われた。
日程表には一日は早く合宿に入る予定が付け加えられ念書には万が一の時のための覚書が記載されていた。
合宿の前日、森山先生が運転する白いハイエース・バンが長野道を走っている。
この車は先生が撮影に出掛ける時に使う車だと教えられ機材が積まれていて車中泊出来るように簡易ベッドまで組まれていた。
そして何だか落ち着くいい匂いがする。
「娘さんをお預かりしますか。何だか娘さんをくださいみたい」
「あのな、大人を誂うな」
「はーい」
どこか普段の先生とは違う。それは私のような女の子を登山合宿に連れて行かなければならないのだから仕方がないのかもしれない。
「そうだ、森山先生。これでも毎朝砂浜を散歩して体力を付けてきたんですよ。それに父に富士山に連れて行ってもらって頂上までは無理ですけど途中まで登って来たんですから」
「あんまり無理をするなよ」
私はこの合宿に参加するために栞と近場のハイキングコースに行ったりした。
そして富士山で登山もしてきた。富士宮口まで何回も休憩を取りながら5合目まで車で上り凄く時間が掛かったけれど合宿で行く山小屋と同じ高さの新七合目の標高2780メートルまで登ってきた。
この合宿にかける私の思いを伝えたいのに森山先生は素っ気ない。
胸が苦しい訳じゃないのに何かが詰まっている感じがする。
インターを降りてしばらくすると山道に入っていく。
道は狭く対向車とすれ違うのが困難な断崖絶壁の場所があり九十九折の道が永遠と続く。
隣で先生は難なく車を運転しているけれど多分撮影に行く場所が山奥だったりするのだろう。
小一時間してやっと駐車場に着いた。
「瑞樹、行くぞ」
「先生、待ってください」
駐車場から少し歩いた所に今日宿泊する中渕温泉がある。本館は湯治場と言えばと言う感じで質素な作りになっていた。
チェックインを先生が済ませ宿泊する別館の部屋に向かう。
部屋は畳で真ん中にテーブルがあってポットとお茶セットが有るような古い宿を想像していたのに完全に裏切られた。
照明や建具に壁の色は和の雰囲気なのに床はフローリングでベッドの部屋だった。
「一緒の部屋ですまないな。空いている部屋がここだけだったんだ」
「私が参加するから一日早めなんだし。仕方がないことなんじゃないですか」
床に荷物をおいてベッドに身体を投げ出し伸びをする。
「ん~ 明日は頑張るぞ」
「今の瑞樹を見ていると主治医の許可が降りたとは言え合宿の参加を認めた事を後悔しているよ」
「えっ?」
予想もしない森山先生の言葉でベッドから飛び起きた。
先生の顔を見ると今まで見た事もない様な苦渋に満ちた顔をしている。それでも私はそんな事を言う森山先生が許せなかった。
「何でそんな酷い事を言うんですか。私がどんなに頑張って」
「鬼気迫るモノを瑞樹から感じるからだよ」
「当たり前じゃないですか。心臓が悪い私が登山をすると言う事は命懸けなんですよ。走れないから毎日のように砂浜で散歩をして時間があれば栞にハイキングコースに一緒に行ってもらって。富士山まで頑張って登ってきたのに」
悔しくて涙が溢れ出す。
「何も知らない先生に何でそんなことを言われなきゃ、酷いよ」
「こんな合宿に命なんて掛けて欲しくないから言うんだよ」
「ふぇ?」
澄み切った森山先生の声に驚いて顔を上げると先生が前屈みになってベッドに座っている私と同じ目線になり私の頭に手を置いた。
その手から凄く温かいモノが身体に流れ込んでくる。
「これから瑞樹は命懸けの恋をして結婚するかもしれない。そして命懸けで子どもを産み。その愛しい子を命懸けで守るだろう。だからこんな合宿に命なんて懸けちゃ絶対にダメだ。瑞樹は家を出てから一度も笑ってない。それは真剣だからだろう。真剣なのは駄目だと言うんじゃない。あまりにも必死で楽しんでいない瑞樹を山には連れて行きたくない」
「楽しんでない?」
「そう。自分自身が楽しまなければ良い結果は出ないと僕は信じている。最高の機材があり構図が完璧で一番いい光があっても僕等が楽しんでいなければそんな写真は何の感動もないただの紙切れだ。どんなに素晴らしい場所でどんなに仲が良い友だちがいても瑞樹が楽しんでいなければ素敵な思い出には決してならない。ボロボロのカメラでも最高に楽しんで撮れば最高の写真が撮れる。何の変哲もない辺鄙な場所でも皆が楽しめれば最高の思い出になるよね。瑞樹は真面目過ぎるんだ。まずは楽しまなきゃ、ね」
頷くしか出来ないでいると胸の辺りに支えていたモノがスッと消えていき体から力が抜ける。
ふっと水族館で撮られた写真が浮かんできた。あんなに綺麗な写真が撮れたと言うことは森山先生も楽しかったのだろうか。
「森山先生も楽しかったから水族館の写真が撮れたんですか?」
「ん? モデルが綺麗だからじゃやないかな」
「幼気な女子高生を誂わないでください」
先生に誘われて散歩をすることになった。
中渕温泉の敷地は凄く広くて温泉が15も有るらしい。フロントで温泉マップの様な地図を貰う、マップには利用時間などが書かれていてこれが無いとテーマパークみたいに広い敷地で迷子になるだろう。
菩薩の湯に白瀧の湯でしょ、それから月見の湯に一人温泉の根っこ風呂や温泉プールまであり日帰り入浴施設は湯原の湯と言う名だった。
源泉も至る所に湧きだしていて先生の説明では加水せずに空冷式と熱交換式で温度を下げ100%の源泉掛け流しなんだと教えてくれる。
泉質は単純硫黄泉・アルカリ泉でお湯は少しヌルヌルしているんだって、今から温泉が楽しみになってきた。
地熱を利用してお芋なんかをアルミホイルに包んで地面に埋めて調理出来る場所もあるらしい。
らしいと言うのは宿の裏山を15分程登った所にあるけれど今回は温泉を楽しむためではなく、明日の合宿を楽しむために高度順応する前日入りなのだからパスした。
部屋に戻り夕食の時間を待っていると館内放送が流れて食事処に森山先生と向かう。
入り口で作務衣姿のスタッフに部屋番号を言うと席に案内してくれた。
大広間を仕切った部屋には数組のテーブルが用意されテーブルの間には間仕切りがあるけれどかなり広めのスペースなので隣が気になることはなさそうだ。
テーブルに座り最初に目についたのが鱗の唐揚げとバッタだった。
「先生、これは」
「イナゴの佃煮だよ。長野県は昆虫食の本場だからね。山に囲まれ魚などのタンパク源の代わりに昆虫を食べるようになったんだよ。それに調理方法によっては冬場なんかに長期保存が可能だからね」
森山先生が説明してくれている所に仲居さんがやってきた。
「お客さんは随分と詳しんですね」
「まぁ、各地で仕事をしているんで」
「タンパク質だけじゃないんだよ。ビタミン・ミネラルにアミノ酸が豊富な完全食品で難点といえば高カロリー食だからね。食べ過ぎには注意ですよ」
「ん、美味しいかも」
味は佃煮だった。目を閉じて口に入れれば元が何だかなんて分からないくらい。でも、先生が教えてくれた蚕の蛹や蜂の子に水生昆虫の幼虫のザザムシは無理かも。
「お客さんも燕ヶ岳に登山ですか?」
「そうですね。明日から合宿なんで」
「合宿って、もしかして先生と生徒さんですか? 親子には見えなかったけれど」
いくらなんでも森山先生がお父さんなんて有り得ない。そんな森山先生も罰が悪そうにしている。
「私こう見えても身体が弱いので高度順応するために皆より一日早く来たんです」
「身体が弱いのなら尚の事蜂の子を食べないと、飛び切りの栄養食品なんだから。それとカップルにしか見えなかったわ。純愛っていう感じの」
中居さんが森山先生に分からないようにウインクして顔が赤くなるのを感じる。
純愛のカップルなんて昆虫食以上に私には無理かも。
岩魚のお作りに揚げ物、鴨のスモークやメインの猪鍋も凄く美味しかった。それに山菜や手作り蒟蒻に蕎麦がきも。私に丁度良い量だったけれど山登りをする人には少ないかもしれない。
食事も美味しかったけれどお茶目な中居さんとのお喋りが凄く楽しかった。
部屋に戻り温泉マップを見ながらどのお風呂にしようか考える。
「森山先生、大浴場にしよう」
「あのね。僕は教え子と一緒にお風呂に入る趣味は持ち合わせてないから」
「混浴って入ってみたかったんだけどな」
中渕温泉は昔ながらの混浴になっている。そしてマップには女性専用の時間もきちんと書いてあった。
沢山ある露天風呂に入りたいけれど1人で混浴の露天風呂に入る勇気はなく。結局、本館にある男女別の大湯に行くことになった。
外はまだ明るく大湯の露天風呂から茜色に染まった空が見えて気持ち良い。
先生が教えてくれたとおりお湯はトロトロでヌルヌルしているけれど肌がスベスベになった感じがする。
湯船から森山先生を呼んでみたけれど返事がないので先に出たんだと思う。部屋に戻っても森山先生の姿が見当たらない。
「森山先生?」
「ん、どうしたんだ。瑞樹」
後ろから声がして振り返ると森山先生がキュウリとプチトマトを持って立っていた。
「裏に飲泉場があっいてね、温泉と湧き水の両方が飲めるようになっていて湧き水でキュウリとトマトが冷やされているんだよ。よく冷えていて美味しいぞ」
「それじゃ遠慮無く頂きます」
火照った身体を冷たいキュウリとプチトマトがクールダウンさせてくれてとても美味しい。
何もしない時間が過ぎていく。テレビはあるけれどこんな山奥の宿まで来て見る気にはなれない。とても静かでゆっくりだけど凄く心地良い。
明日の事を考えると不安じゃないといえば嘘になる。でも大丈夫だと思えるのは不思議だけど森山先生と一緒なら何とかなるような予感がするから。
もう少しで寝る時間がやってくる。我儘を言えばもう少しだけ温泉を楽しみたかった。
「瑞樹は本当に良い子だね」
「森山先生、あんまり褒められている気がしないんですけど」
「真面目だなと言う事だよ」
「当然じゃないですか。小さい頃から周りに迷惑や心配をかけて育ってきたんですから。今日だって」
何処までも真っ直ぐで吸い込まれそうな森山先生の瞳を見て言葉を飲み込んだ。
「僕が迷惑だと思っている? 僕は楽しそうに見えない? 僕は瑞樹のことを迷惑だなんて思っていないし凄く楽しいけどな」
「本当ですか?」
「教え子に嘘なんてつく訳ないじゃないか。もう少しだけ今日という日を楽しもうか」
「えっ?」
教え子と言う森山先生の言葉に何故だか一瞬だけ息苦しさを感じる。
それでも森山先生が部屋に備え付けてある懐中電灯を持って立ち上がったのを見て慌てて後を追う。
「もう、森山先生は女の子を置いて行かないで下さい」
「ごめん、ごめん。あんまり女の子と出掛けた事がないからね」
「ええ、彼女とかいないんですか?」
「ん、恥ずかしながらかな。写真だけじゃ食べていけなかったから色々なバイトもしていたし。やっと道が出来た時にはユッコに講師をしろと言われてね。内緒だよ」
お喋り好きな女の子に内緒なんて言っても通じないと思う。それでも彼女がいないなんて信じられなかった。
でも、初めて森山先生を見た時の容姿だったら仕方がないのかもしれない。
玄関を出てここが標高1500メートルなんだと肌で感じた。夏なのに夜になると少し肌寒く感じる。
それと懐中電灯の明かりだけじゃ足元がよく見えない。
「大丈夫じゃなさそうだね」
「こんなに真っ暗な場所なんて初めてだから」
「そうだね」
そう言って森山先生が手を差し出している。戸惑いながら先生の手を掴むと優しくけど力強く握ってくれ顔が熱を帯び思わず俯いてしまう。
だけど真っ暗だから先生にはばれないよね。
小さな橋をわたると簾が懐中電灯で浮かび上がる。
散歩していた時にあったような気がするけど見落としていたみたい。手を引かれ簾の中に入ると大きなスノコが2箇所にあり先生が片方にゴザを敷いてくれた。
「うわ、温かい」
「地熱浴場だよ。ゆっくりと横になってごらん」
ゴザに座るとお尻の下が温かくって先生が懐中電灯を消して言われた通りに横になる。
そして真っ暗な空を……
「す、凄い!」
「空気が澄んでいるからね。星が綺麗だろ」
無数の星々が煌めいていて写真でしか見たことのない満天の星が無限のように広がっている。星が集まり雲の帯のように見えるところは天の川かな。
「先生、私にもこんな星空の写真を撮れるようになりますか?」
「きっとなれるよ。合宿で星の撮影に付いても話すからね」
「はい」
ふっと手に何かが触れてそれが森山先生の手だと認識するのに時間なんていらなかった。思い切って森山先生の手に重ねると優しく握ってくれた。
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