第5話 フォトグラフ学科 夏合宿-2


翌朝、6時に起きる。

ぐっすり眠れたのでとても気持ちが良い。

着替えを済ませて森山先生と出発の準備をしていると館内放送が流れた。

「おはようございます。別館ロビーにて猿の腰掛茶と蒸し芋をご用意しています」

あまりにも大きなアナウンスで先生と顔を見合わせて笑ってしまう。

猿の腰掛け茶は少し苦味のあるお茶で身体が指先までポカポカしてくる。なんでも猿の腰掛は癌の民間治療薬なんだって。

ロビーでまったりしていると昨夜の仲居さんが手招きしていて少し早めに朝食を食べさせてくれた。

朝食はこれぞ旅館の朝ごはんと言う感じで温泉卵が絶品で先生が頼んでおいてくれたお弁当を受け取り出発する。

仲居さんの笑顔に見送られて合宿の一日目が始まった。


登山口は中渕温泉の日帰り入浴施設の前にあり森山先生が登山届を書いている。

登山道に入ると登山初心者の入門コースだと聞いていたのにいきなり急な登りから始まった。

それでも安心して登れるのは登山道が綺麗に整備されている事と森山先生が私の荷物を担いでくれているから。

そんな私は森山先生が薦めてくれたキャノンのカメラを入れたバッグだけを担いでいる。

EOS kissシリーズは女性にも扱いやすくコンパクトで私の相棒になり。一眼レフだけあって値段はそれなりにしたけれど貯めていたお金で購入した。

登山は自分のペースで登る事が重要でゆっくりだけど着実に登っていく。そんな私を森山先生は少し先に登って待っていてくれる。

少し休みたいなと思っていると先が開け丸太のベンチが見えた。

綺麗な景色など全く見えない深い森のような中をジグザグに急な登り坂を上がり続ける。

それでも等間隔の様にベンチがあり休憩する事が出来るので思ったほど大変じゃなかった。

登山道には高山植物が咲いていてレンズを向ける余裕さえある。

「うわぁ、凄い」

「ゆっくりで良いから。もう一息で皆と落ち合う休憩小屋だから」

目の前には大きな岩が剥き出しになっている急な坂が見える。先生が手を貸してくれて何とか登り切ると小さな小屋が見えてきた。

売店と食堂があり側の小屋でスイカを切り売りしている。

休憩小屋はまだ閑散としていて私と森山先生のほうが先に到着したみたい。

「スイカでも食べようか」

「はい!」

小学生のように手を上げて満面の笑顔で返事をしてしまった。スイカは良く冷えていて甘みがあって凄く美味しい。

すると聞き覚えのある声が下の方から聞こえてくる。


「ほら! そこ上がれ! グズグズするな!」

まるでジャングルの奥地で過酷な演習をしている鬼軍曹のようで雄大な大自然には不釣り合いの秋川先生の怒号が響き渡る。

「汐音! 大丈夫?」

「うん、平気だよ。凄く気持ちが良いし」

私と森山先生の姿を見つけて栞が駆け寄って来た。

「私も汐音達と先に来ればよかったよ。登山ななんて生易しいものじゃない自衛隊の訓練みたいだった」

「そんなに大変だったんだ。私は凄く楽しいよ。昨日の夜は森山先生と星を見にお風呂に行ったし」

栞が有り得ないものを見たように口をパクパクしている。

嘘は付いてないよ、だって地熱浴場だってお風呂だし。

「何をへたり込んでいる。どんなに腕が良く立派なカメラを持っていたって撮影現場に辿りつけなきゃ問題外だろうが。お前らはただのカメラ小僧か」

「凄いね」

「でしょ、気合が違うんだよね」

フォトグラフ学科の面々の中に見慣れない男の人がいて森山先生に手を振りながら私と栞の方に歩いてきた。

「関口先生、お久しぶりです」

「森山先生も相変わらず元気ですね」

森山先生よりも年上で先生と言っているので写真関係かどこかの学校の先生だと思った。

「こんにちは。君が瑞樹汐音さんだね」

「は、はい」

「関口先生は心臓の専門医だよ。合宿に参加してもらったんだ」

「まぁ、そんな事は良いじゃないか。僕も息抜きができて嬉しいし森山先生に医師として付き添いを頼まれたらね。少し良いかな」

私の為にと思うと申し訳なく思ってしまう。

関口先生がバッグから小さな機器を取り出して私の血圧や脈拍、それに血中酸素濃度を調べてくれた。

今は聴診器で心臓の音を聞いている。

「良好、良好。問題なしだよ。そんな顔をしないで楽しむことが一番だからね」

「有難う御座います。関口先生も写真を撮るんですか?」

「ははは、僕はカメラはやらないよ。山登りは好きだけどね。もしかして森山先生との関係が気になるのかな? 森山先生とはバスケットボールのクラブチームで一緒なんだよ」

「バスケットボールですか?」

スポーツと森山先生が結びつかずに首を傾げてしまう。

「森山先生は自分の事を話すのが得意じゃないからね。身長は高くない方だけど何処のポジションも卒なく熟すオールラウンダーでね」

「そうなんですか」

「そうだ、秋に大会がるから見に来るといいよ。森山先生のシュートは芸術的だよ」

「とっと飯を食え。置いていくぞ」

秋川先生の鬼教官みたいな号令を聞いて関口先生と苦笑いしてしまう。


昼食を済ませ少し休憩した後に休憩小屋を出発するとしばらく急な階段が続く。

栞が声を掛けながら登ってくれて上がり切ると視界が開けてきた。

花崗岩とハイマツの色合いが綺麗な燕ヶ岳の山頂が見えてきて立ち止まりカメラを構える生徒もいる。

視線を上げると山の上に小屋が見え周りの生徒達がドンドン登っていく。鎖が設置されている岩場があるけれど鎖なんて必要ないくらいの登りだった。

山小屋と聞いて思いつくのが小さな小屋での雑魚寝と偏屈なひげ面の親父だけど目の前には赤い屋根に白い壁でこげ茶色の丸太が使われているヨーロッパ風の立派な建物が見えてきた。

時計は登り始めて七時間とちょっとを指している。

「やっと着いた」

「やったね、汐音」

「うん」

栞とハイタッチして笑い合う。

ホテルと言われてもおかしくないような山小屋の前で注意事項を聞いているとイワヒバリがチョロチョロ走り回っていた。


山小屋の中は広くてとても綺麗だった。

右手には受付があり売店と呼ぶのは失礼なくらいのショップが左側にある。驚いたのは女性スタッフが沢山いて親切丁寧に対応していた。

案内されたのは通路を挟んで両側に2段ベッドがある大部屋で右側に男子左側に女子が奥から詰めていく。

ベッドには仕切りがあって私と栞だけが余ってしまう。

「もしかしたら知らない人と一緒になるかもしれないけれどこっちを使ってね。知らない人と言っても女性のお客さんを案内するから」

「はい、有難う御座います」

着替えなどの荷物を置いて筆記用具と貴重品を持って指定された談話室に向かう。

大きな山小屋なので沢山の宿泊客がいて食堂も広く談話室も沢山あるみたい。

スタッフに藤倉高校だと伝えると笑顏で案内してくれた。

談話室で最初に日程の確認が行われ講義が始まる。その中で一番気になったのが星の撮影の仕方だった。

用意するものは赤いセロハンを貼った小さめのライトに三脚とレリーズ。

パーマセルテープはマスキングテープで代用が可能。カメラはマニュアルモードでオートフォーカスと手ぶれ補正はオフにする。

レンズは広角にISOは6400で絞りは一番小さくシャッタースピードは15程度で。明るければ3200か1600に落とす。

撮り方としてはピントを無限遠にして移してみてピントを合わせピントが合ったらテープでズームリングとピントリングを固定して撮るだけだと教えてくれた。

固定撮影と赤道儀を使った追尾撮影の講義に入る。

星が円を描いているように写せるのが固定撮影で星を点で写すのが追尾撮影らしい。

追尾撮影に必要不可欠の赤道儀の使い方が少し難しそう。特に極軸合わせのやり方が慣れないと大変かも知れない。

まずは固定撮影をマスターしたいと思う。

講義の後は夕食時間まで自由行動になっている。 皆がカメラを持って思い思いに山小屋を飛び出した。


明日、燕ヶ岳の山頂に向かう予定なので山小屋の周りを栞と一緒に散策する。

少し雲が掛かっているけれど雄大な山並みを見渡せ来て良かったと思う。

山小屋にはヘリポートもあり大学医学部の夏山診療所まであった。診療所を少しだけ覗いてみると関口先生がいて目が合う。

「瑞樹さん、丁度良いや。調子はどうかな」

「凄く良いですよ」

「それじゃ少しだけ診ておこうか」

「はい」

登ってきた時と同じように検査を受けて先生が笑顔でOKを出してくれた。後ろに居る栞も何だかホッとしている。

夕食は18時からで少し早めに食堂に向かうとお腹が空いたのか皆は既に集まっていた。

テーブルには一緒に寝るグループに分かれていて私と栞は自然と先生達と同じテーブルになる。

『頂きます』皆で挨拶をして夕食に箸を伸ばす。

メインはハンバーグで御飯と味噌汁は各自がよそい、煮しめやお蕎麦にデザートまで付いてきた。

身体を思いっきり動かした後のご飯は格別だ。

「そう言いえば先生達は大部屋じゃないんですか?」

「雑魚寝は勘弁して頂戴。3人で個室だけど監視の目が行き届かないなんて事はないから安心しなさい。他のお客に迷惑を掛けたりすれば粛清するから覚悟しておくこと」

秋川先生は学校と変わらずらしい。

食後に山小屋のオーナーから山の歩き方やマナーの話がありアルプホルンの演奏までしてくれた。

夕食後も自由行動になっていて山小屋の外で日が沈むのをカメラを持って待っている。

周りには大勢の人が私達と同じように立っていて時間を共有していた。山々が茜色に包まれて太陽が沈んでいく。

シャッターを切る音が木魂のように聞こえてくる。

オレンジ色が灰色がかりやがて紫色になり夜の帳が降りていく。

消灯時間は21時で山小屋なので当然お風呂はない。標高が高く真夏なのに気温は低く最低で10度・最高でも18度くらいだと山小屋のスタッフが教えてくれた。

外に出る時は長袖のシャツで調度良く汗も殆どかかない、その為にお風呂はなくても気にはならない。

気になる子は寝る前にベッドのカーテンを閉めてタオルで身体を拭きながら騒いでいたけどちょっと男の子が可哀想な気がした。

皆は肩を寄せあって寝るのに私と栞は2人だけだった。


消灯時間が来て電気が消えて皆がお喋りを止めたのに中高年の声が大部屋に響いている。

しばらくすると誰かが歩いてきて注意したのか静かになったと思ったら私と栞が横になっているカーテンが開いて誰かが覗いた。

「だ、誰ですか? えっ、モーリ?」

栞が懐中電灯で照らすと森山先生の顔が浮かび上がっていて先生が口に人差し指を当てている。

「ここで休ませてくれないかな。ユッコが酒を飲ますしゆっくり出来ないんだ」

「良いんですか、先生が女生徒と一緒に寝て」

「ん、昨日の夜は瑞樹と二人っきりだったし何も問題ないよ。有るとすれば2人が駄目だといえば修羅が待ち構える部屋に戻るしか無い事かな」

「仕方がないか」

栞が同意を求めたので軽く頷いた。理由は先生が側に居てくれると何だか安心できるから。

しばらくすると森山先生の寝息が聞こえてきて思わず栞と顔を覗きこんでしまう。

「可愛い寝顔をしてるね。撮っちゃおうか」

「駄目だよ、栞。そんな事をしたら。私の荷物までもって登ってきたから凄く疲れてるんだよ」

「そうなんだ。それじゃお休みだね」

「うん、お休み」


熟睡していた所為か自然と目が醒めて腕時計を見るとまだ3時過ぎだった。

山小屋の朝は早いとは聞いていたけれど物音が耳に付く。多分、森山先生が昨夜に注意していた人達だと思う。

喋り声とともにビニール袋をガサガサする音が聞こえ、私達が寝ている反対側の男子のベッドのカーテンが開く音がして気になりカーテンの隙間から覗くと一人の男子が起きてきた。

フォトグラフ学科の中で一番ヲタクぽいがっしりとした体格の男子だった。黒いカバンを肩から掛けて歩いて行く。

「おじさんたち。もう少し静かに出来ないかな。山の朝は早いけれど周りに迷惑を掛けないでよ。昨日の夜も注意されたばかりでしょ」

小さな声だけど周りは静かなのでよく聞こえた。

注意された中高年はぐうの音も出ないのか直ぐに大人しくなった。

教室ではどことなくオドオドしている男子が大人に注意しているのを聞いて少し驚いてしまう。でも、こんな時間に何処にくのだろう。

枕元に有る窓から外を見るとまだ真っ暗で森山先生と見た星空を思い出した。

完全に目が醒めてしまいゴロゴロしていると窓の外が白み始めてきて慌てて栞を起こす。

「栞、起きて。楽しみにしていたご来光だよ」

「う、うん。まだ眠いよ」

仕方がなくいきなりだけど最終手段に出ると栞が起きて声を上げそうになり口に手を当てて必死に堪えている。

横では森山先生がまだ寝息を立てていて静かに動き出す。

フリースを着て表に出ると朝の冷たい空気が気持いい。周りには夕日と同じように三脚を立てて構えている人やカメラを首からぶら下げている人が沢山いる。

雲の上の山並みから朝焼けが漏れ太陽が顔を出し始めると暖かさを感じる。

そして燕ヶ岳が朝日に包まれた。

何だか涙が零れそうになってしまい目を擦る。

「まだ、眠たいの?」

「栞と一緒にしないでほしいな。感動してるの」

「よし! 朝ごはんにしよう!」

本当に栞と一緒だと退屈しない。朝食は各々でと言われていたので食堂に向かう。

和食が中心のシンプルなご飯だけどとても美味しく感じる。

「栞、まだ食べるつもりなの?」

「育ち盛りだから良いの」

何処が育つんだか聞いたら胸とか胸とかと言われた。胸だけは育たないと思うけれど。

「お腹が苦しい」

「栞が調子に乗って食べるからでしょ。はい、カロリーを消費する」


7時半に山小屋の前にカメラと飲み物だけをバッグに入れて集合し燕ヶ岳山頂を目指している。

這松の道を進むと花崗岩が砕けて出来た砂礫の道になった。イルカに似ているイルカ岩の向こうに鏃の先の様な錐ヶ岳が綺麗に見える。

登山道の脇には登山道から外れないで下さいと看板が出ていた。

足跡を付けるだけで侵食が起きて元に戻すのに数十年掛かるか存在しなくなるくらい繊細な環境の上に成り立っているみたい。

そんな砂礫の上にピンクの花を咲かせた高山植物が張り付いて生きている。

しばらくすると不思議な感じの岩の間を縫うように登っていく。

2つの穴が開いたメガネ岩には落書きのような物が刻まれていて辺りを見るとそんな落書きがあちらこちらにあるのに気づいた。心無い登山者の仕業だろう。

山頂は意外に狭く順番を待って登ると山小屋が山の稜線にポツンと建っているのがよく分かる。

360度の大パノラマは圧巻だった。

待っている人がいるので撮影もそこそこに下に降りて山小屋に戻り帰り支度をして登ってきた道を戻る。

「花崗岩は滑りやすいからゆっくりとつま先から降りること」

「はーい」

登る時はあんなに大変だったのに降りる時は楽に感じる。それでも気を抜けば怪我をしてしまうので慎重に下っていく。

ベンチで小休憩を挟みながら山の下の方に来ると温泉特有の硫黄の匂いがする。

「ユッコ先生、温泉で汗を流したい。お風呂」

「大勢で行くと時間が掛かるから却下だ。それとも美味しい信州そばを食べるのをやめて風呂にするか」

「うっ、お蕎麦が良いです」

栞が見事に撃沈させられている。まだ色気より食い気のほうが勝るらしい。

そんな事を栞に言えば恋もしたこと無いくせにと即座に切り返されるに違いない。


登山口まで降りてくると藤倉高校御一行様と書かれたバスが既に待っていて楽しそうに皆が乗り込んでいく。

すると人数を確認してバスに乗り込もうとした秋川先生が私に声をかけてきた。

「瑞樹はどうするんだ?」

「バスが苦手なので出来れば」

「分かった。啓祐、手なんか出すなよ。昨夜は未遂まで起こしているんだからな」

バスの後部座席の窓から栞が笑っているのが見える。他に寝る場所が無いのだからバレバレなのだろう。

バスが走り出すのを森山先生と見送り駐車場に向かおうとすると何故だか森山先生は日帰り入浴施設の方に歩き出した。

「さっぱりして帰ろうか」

「はい!」

満面の笑顔で答えてしまう。

中渕温泉の日帰り入浴施設は湯船が2つあり狭いほうは温度が高く広いほうは少し温度が低くなっている。湧き出している源泉の違いだと教えてもらった。

時間が早い為か貸切状態だ。周りは緑の山々に囲まれ岩で組まれた野天風呂はとても気持ち良く思わず叫んでしまう。

「野天風呂、最高!」

「ふふふ、それだけ元気があれば大丈夫だな。帰りがけに信州そばでも食べよう」

「はーい!」

隣からの森山先生の提案に思わずガッツポーズしてしまう。

日帰り入浴施設のスタッフが薦めるお店でお蕎麦を頂く。腰があって喉越しが良く今まで食べた蕎麦が何なのか分からなくなってしまうくらいに美味しかった。

温泉でさっぱりしてお腹が満たされると睡魔が襲って来る。

森山先生は後ろで寝ていなさいって言ってくれるけれど助手席のシートを倒して寝させて貰うことにした。

先生がタオルケットを貸してくれていい匂いに包まれて眠りに落ちる。

目が覚めた時には藤倉の海が車窓から見えていた。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る