第5話




 状況は更に酷いのになっていた。

今度は手首だけでなく、ついに足首まで拘束されてしまったのだ。

今動こうとするには、芋虫のように体をウネウネよじらせる他ない。

それでもせいぜい2,3メートル進めば疲れてしまうだろう。



 もう何もする気になれなかった。考える余裕もなかった。

男に向かって怒鳴ったからか体の震えは止まっているが、圧倒的な不快感は拭えなかったし

何よりこうして抵抗する術を完全に絶たれた今、何をしても無駄だと思った。


 ねかされた畳から少しタバコの匂いがする。全身の力を抜くと1日の疲れがドッと押し寄せてきた。

眠ってしまいたい。目が覚めたら全部夢で、自分の家だったらどれだけいいことか。

夢じゃなくてもいいから、私が眠っている間に殺してくれたらいいのにとすら思う。



「おい。寝るのか」

せっかく現実逃避していたのに。目を開け反対側に座っている男を睨む。


「眠れるわけないでしょ、もう疲れたの。話しかけないで」



男が立ち上がりこちらに向かってくるがもう1度目を瞑る。

刺されようが知ったことか。私はお前のご機嫌とりなんてしたくない。

心のなかで悪態をつく。


 目の前で足音が止まる。

しばらくして急に体が引きずられ驚いて目を開けた。

男は私の手首を掴み、そのままズルズルと引きずりだしたのである。


「ちょっと!」

バタバタと抵抗するが芋虫ごときに何ができるわけもなく、そのままふわりとしたものの上に放り出された。

タバコと汗の混じったような匂いに包まれる。

上から薄いタオルケットがかけられ、どうやら布団の上らしいことに気がついた。



「寝てろ」

ピッ、という電子音と共に明かりが消され部屋は暗闇に包まれた。

言い返してやろうと口を開いたが、もう私には男が何をしたいのか皆目見当もつかず

ただパクパクと金魚の真似事をするばかりだった。 



 こんな状況でも布団にくるまれているのは心地が良い。

知らない男の布団に嫌悪感はあるが、私を纏うこの匂いにどこか懐かしい感じがするのも確かだった。


 男に聞こえないように、すぅっと息を吸い込んだ。

父親の匂い。街頭アンケートでもとったならば、多くがそう答えるだろう。

加齢臭、という言い方のほうが正しいのかもしれない。

それなりの歳の男性の枕を集めたら、大半はこんな匂いがするのだろう。


 幼い頃に引き戻してくれるような匂い。

甘い匂いではないのだけど、どこか甘い脱力するような暖かさ。

布団にそっと顔をうずめてみる。小さい頃パパに抱きしめられて眠った日。


ずっとずっと前のことのはずだけれど、こうして思い出せる。





 静かな部屋。男の呼吸が少し聞こえる。

だんだん瞼が重くなってきた。

このまま布団とくっついて一生離れられそうにない。

睡眠薬でも盛られたのかと思うくらい眠い。


今日はもう寝てしまってもきっと誰も怒らないよね。

言い訳を2,3つ考える頃にはもうすっかり夢の中だった。



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