第4話
冷たいおにぎりと両膝を抱え込み、壁にもたれかかる。
ご飯など食べる気にもなれず男をぼーっと見つめていた。
男はがさがさと袋を漁り、何かを取り出す。
弁当だろうか?男はあぐらをかき大きく背中を丸めている。
テーブルくらい買ったらいいのに、と心配になるほど酷い姿勢だ。
随分腹が減っているようで、割り箸を割る手が追いついていない。
何度も割り箸を落としているので、こっちがもどかしくなってくる。
しばらく男は割り箸と格闘していたが、ようやく成功したようで
ふぅと私は息を漏らす。
「いただきます」
男が両手をぱんと合わせ、頭を下げた。
正直この男がまさか“いただきます”だなんて、そんなことを言うとは思わなかった。
呆気にとられる私に目もくれず男はガツガツと米を口に放り込む。
口元に箸を持って行ったと思えば、もう容器の中に箸を突っ込んでいる。
ぼろぼろと米粒をこぼしながら凄まじい勢いで平らげていく。
汚いなあ。個人的に食べ方が汚いというのは致命的な欠点だと思っている。
母は食べ方が綺麗だ。私はパパに似て食べ方が汚かったから何度も注意された。
だからこそ、目の前の男を見ていると胃の奥からこみ上げてくるような不快感を感じてしまう。
突然男は咳き込み始めた。
嫌な予感に私は少し身構える。
その予感は的中し、しだいにえずくような声が聞こえてくる。
私は慌てて耳を塞ぎ、目を瞑る。
世界で一番嫌いな音。泣き出したい、逃げ出したい気持ちになる。
大丈夫、大丈夫。
耳を塞いでも聞こえてくる嫌な音。
はやく終わって、どうかはやく。
――この声を聞くといつも思い出す。
家族3人でドライブに行った時、車内で昼食をとった。
パパが食べていたおにぎりの種類までハッキリと覚えている。
いつも通りおにぎりを二口程で口に詰め、苦しそうに飲み込みながら2つ目に手を伸ばすパパ。
鼻息を荒くし、フガフガと食らいつく。
パパが人間ではない、欲望を剥きだした動物のように見えるから
食事の時間パパを見るのは極力避けていた。
母が心配そうな顔で水を渡す。
心配されたのが気に食わないのか、パパはその手を振り払い睨みつけた。
でもやっぱりパパは吐いた。
喉につまり飲み込めずボトボトと口から落ちる米粒。
顔を真っ青にし、えずき出す。
消化途中のドロっとしたものが車のシートにボタボタと垂れる。鼻を突くあの匂い。
助手席の母の表情を、いまだに覚えている。
幼かった私は泣いた。私を睨む不機嫌そうなパパの顔。
母が私をあやし、嘔吐物を片付ける。
パパが突然母を怒鳴りつけた。母に浴びせられる罵声。
まるで猛獣の叫び声のようだった。
ハンドルに拳を叩きつけ車を降りるパパ。
地獄絵図のような車内で母は涙をうっすら目に溜め、私の頭を撫でた。
男の咳き込む音が止まった。
涙目になりながら私はそっと目を開ける。
男の足元に私のトラウマは無かった。
安堵する。乱れた呼吸を整えようと深呼吸を繰り返した。
ふと手に持ったままのおにぎりに気づき思わず放り投げた。
男の舌打ちが聞こえる。おにぎりを投げたからだろうか。
別に食べ物に罪がないことくらいわかっている。
もう一度目を瞑り、深呼吸を繰り返す。
やがて、男の“ごちそうさまでした”という声が聞こえ目を開けた。
男はこちらを一瞥すると、投げつけられたおにぎりを拾い私に差し出した。
「……要らない」
さっきまでは美味しそうに見えたその塊も、いまは見たくもない。
おにぎりを克服できたのも最近だというのに。
また呼吸が乱れる。
「そうか」
男はそう呟き私から少し離れた所にそれを置いた。
「…水。飲んだほうが良いよ、ちゃんと」
訳の分からないアドバイスをしてしまった。
また沈黙が続く。部屋はシーンとしていて男の息を吐く音さえ聞こえる。
「腹、減ってるだろ」
男が口を開く。
「減ってない」
男を見上げイライラしながら答える。
向こうは立っているからかなり大きく威圧的に感じた。
「……遅くまで部活やってただろ」
見ていたのか。私のことを調べていたのかもしれない。
計画的な犯行なのか?誘拐のターゲットになるほど裕福な家ではないと思うが。
「知ってるの?」
男の出方を見ようと反応を待ったが返事はない。
「家に帰らせて」
「それはできない」
「……殺すの?私を」
そう言ってから少し後悔した。いまの言い方はマズかったかもしれない
だが男の反応は意外なものだった。頭をかきながら
「分からない」
そう言ったのだ。頭からフケがパラパラと舞う。
私は少し顔をしかめた。
「お前の携帯やら荷物は別の場所に置いた。今は21時くらいとだけ教えておく。
なぁ、お前の母親は何時まで帰りを大人しく待っていられると思う?」
「そんなのわかるわけないじゃない」
男のバカにしたような態度に苛立ちを覚える。
「きっとすぐに警察へ向かうと思うけれど、私の母なら」
少し挑発的な態度で言い放った。
「そうか、良い母親だな」
口の端を少し上げニヤっとした顔で男は見つめてくる。
思わず私は声を荒げた。
「そうしたら、あなたなんてすぐに捕まるでしょうね。いまに警察が来るわ」
少し声が震えていたことに男は気づいているだろうか。
男のボサボサとした手入れのされていない眉がピクリと動く。
次の瞬間、こちらに向けられるナイフ。
やってしまった。
男を挑発したことを激しく後悔する。気づかれないようにジリジリと後退する。
「動くな」
冷たい声が響き、私はその場に固まった。男は私の隣にある箪笥へ手を伸ばす。
そこから取り出した結束バンドによってまた私は拘束される羽目になるのだろう。最悪の展開に目眩さえ覚えた。
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