第3話



 どうしたらいい?

このままでは、あの忌まわしき男から逃げおおすことはできまい。

私が何をしたというのか。

今朝、道に落ちていた財布を交番に届けず見て見ぬふりをしたからか?

それとも母が持たせてくれた弁当を残してしまったからか?

 完璧超人とはいかないが、私なりに精一杯生きてきたつもりだ。

あぁ、今更どれほど悔やんでもう遅い。

私が常識程度の防犯意識を持っていればよかったことだ。



こんなことなら一度ひったくりにでもあっておけばよかった。



 そんなことを言ったなら、母は泣き出すことであろう。

日頃から過保護なまでに注意をしてくれた母を鼻であしらったのは私。

気持ち悪いと怒鳴りつけたのも私だ。

その日母は一晩中泣いていた。


ごめんなさい。これは天罰なのかもしれない。


 「自業自得だ」

どこからともなくそんな声が聞こえてくるようで耳をふさいだ。

触れた耳がベタベタする。気持ちが悪い。

本当なら今頃家でこの汗のべとつきを綺麗サッパリ洗い流し、母の美味しい手料理を頬張っているところなのだ。

一度気になると体のべとつきがどうしようもなく不快に感じ始めた。

シャワーくらい浴びたい。頭から湯気が出るほど汗をかいたのだ。


 それくらい聞いてはくれないだろうか?

いや、監視などされてこの男に裸を見られるくらいなら我慢したほうが断然良い。

それにこの家はあまりにも汚い。きっと風呂場などもっと汚いのだろう。

部屋が汚い家の水回りというものは、決まって更に酷いものなのだ。

部屋をもう一度観察しようと目線を上げると、こちらを睨む男と目があった。



 嫌な目をしている。ねちっこい、この世の不幸をすべて背負っているような目。

お前のせいだ。そう責められているように感じる。

眼球からベタベタとした長い手がこちらに伸びてきて、目をそらすなと両頬を抑えられる。私はしばらく男から顔をそらすことができなかった。


「おい」

低く響く男の声で拘束がとけ、我にかえった。

男はすっくと立ち上がりこちらに向かってくる。



「これ」

こちらに差し出されたその手にはコンビニのおにぎりが握られていた。


「え……?」

思いがけない男の行動に驚いた。


「食え」

「でも……これ」


 結束バンドで巻かれた両手を突き出す。

両手のバンドはきつく締められていて、下の皮膚が赤く擦り剥けている。

手首を少し動かすとピリッとした痛みが走った。

この手でも地べたに這いつくばって犬のように必死になれば、おにぎりくらい食べられないこともないと思うが、私は妙なところでプライドが高い。

そんなことをするなら餓死した方が幾分マシだと思う。

そもそもこの状況で飯を食えだなんて無理な話だ。


 男はしばらくこちらの様子を窺っていたようだが、私の両手首に視線を落とすと

汚れたズボンの尻ポケットからナイフを取り出しバンドを切った。


 2度目の思いがけない行動。

仮にも誘拐犯としてこれは如何なものなのか。

あなたはこれで良かったのかと尋ねたくなるがもう一度拘束されたら堪ったものではない。

複雑な気持ちで男に感謝の言葉を述べた。

 腹のあたりにポンとおにぎりが投げられ、男は元の場所へと戻っていく。

綺麗な三角形の真ん中に、水色の文字で書かれた“おかか”の文字。

美味しそうなのがまた憎らしい。


 男の行動をどうとってよいのか分からずに、私はしばらくそれを持て余していた。


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