鬱彼女#5

 翌朝、教室に沙斗子の姿はなかった。放課後。慶介が勅を訪ねてきた。

 「俺、今日帰りに沙斗子の様子見てくるわ」

 「なあ、それ、俺も一緒に言っていい?」

 俺の頼みに慶介は首を横に振る。

「 だめだ。姉貴にはち合わせる可能性がある。またお前と姉貴が騒いだら今度こそ沙斗子はお前を拒絶するぞ。嫌いになるからじゃない。お前を姉貴から守るためだ」

 俺はそれを聞いてぐっと我慢することしかできなかった。

 慶介と別れた後、図書室へ走った。自分はうつについて無知すぎる。もっとよく知らなくては。これからも沙斗子の側にいるために。

 図書室にはクラスメイトの追瀬悟がいた。

 「悟!!」

 「勅……何? 騒がしいな」

 いつもどおりの無表情で悟が顔を上げた。相変わらずのイケメンだ。メガネに細面、長いまつげと二重のまぶた。はやりの感じとは違うが、王道のイケメンだ。

 「このインテリイケメンが!!」

 思わず罵倒する。口をついてでた言葉だが、こいつは成績もいいんだ。口べた天然のくせに!!

 「何でいきなり罵倒から入るんだよ。お前は冬弥か。つか図書室で騒ぐな」

 その言葉で周りを見渡すと冷たい視線が勅に勅さっていた。

 「すみません……」

 「で、何か用事があって図書室に来たんじゃないの」

 冷たい視線にいたたまれなくなった俺は悟を引き連れて図書室の隅へ移動した。

 「あのさー、悟ってうつ病に詳しい?」

 「いや、一般常識程度の知識しかないよ」

 こういうとき深堀せず聞きたいことだけを返してくれるのが悟のいいところだ。

 「そっかー」

 「そっちの本棚に、そういう系の本、置いてあるよ」

 悟はそう言って少し離れた本棚へ誘導してくれる。

 「勅はうつ病をどういう立場から調べたいの? 当人? 直したい人? 立場によって選ぶ本が変わると思うけど」

 「見守りつつ本人の回復のサポートをしたい人」

 「じゃあ…このあたり?」

 悟に良さそうな本を何冊かピックアップしてもらう。分かりやすいし、どういう状態の時に何をしたら相手にとって有効かが具体的に書いてある。

 「悟、おまえいいやつだなあ。悪かったよ。出会い頭に罵倒して。お前はさ、頭良くて、顔も良くて、運動もそこそこできて……なんでそんなに引っ込み思案なんだ?」

 「うるさいよ。褒めるならちゃんと最後まで褒めとけ」

ため息を一つついて悟は再び席に戻った。俺は悟に選んでもらった本を読みつつメモを取る。明日は沙斗子、学校にくるといいな。


 翌日、沙斗子は登校してきた。若干顔色は悪いが、授業を受けられないほどではなさそうだ。昼休みに沙斗子から、俺に声をかけてきた。

 「勅、こないだはごめん。それで、あの、これ……」

 そう言って先日、勅が沙斗子に渡した弁当箱を差し出す。

 「おう」

 受け取ると弁当箱が重たい。これは、もしかして……。

 「沙斗子!!」

 勅が幸せになりかけた瞬間、笹井先輩が現れた。クラスメイトの視線が笹井先輩に集まる。

 「祥子姉……」

 「お昼、一緒に食べよっ」

 無表情なまなざしで俺を一別し、何事もなかったかのような笑顔で笹井先輩は沙斗子を連れて教室から出ていった。

 怖い。

 笹井祥子が怖い。

 このまま間違った選択をしたら俺が笹井先輩に刺されるデッドエンドを迎えそうだ。とりあえず、と勅は首を振って頭を切り替える。沙斗子に返してもらった弁当箱を開けてみた。

 ……やっぱり!!やっぱり中身入ってた!! 沙斗子の不器用な感じが溢れかえっていたがそれはそれでいいのだ。午後いっぱい幸せをかみしめていた。


 しかし、幸せはそうそう続かなかった。毎日、昼休みと放課後になると祥子が沙斗子を連れて行ってしまうのだ。笹井先輩が少しずつ病んでいくのが目に余るようになってきた。


 俺は放課後、慶介に相談に行った。

 「なあ、お前の姉ちゃん大丈夫か?」

 「たぶん大丈夫じゃないと思う」

 慶介は渋い顔で答える。

 「これ以上放置したら沙斗子がやられちまう。昨日も親と相談してさ、母親が明後日の土曜日に姉貴を病院に連れて行くよ」

 「それがいいんだろうな。つってもあの姉ちゃんが素直にカウンセリングとか受けるわけ?」

 俺もつられて渋い顔で尋ねる。

 「無理だろ。だから適当にだまして連れて行くよ。こないだ言ったとおり沙斗子のセカンドオピニオン探し、とか言ってさ」

 「大変だな。何か他人事みたいな言い方しかできなくて悪いんだけどさ。姉ちゃんのためにも慶介のためにも頑張れよ」

 「いんだよ。他人事なんだから」

 慶介は、じゃあまた、と無理な笑顔で手を振り帰っていった。


翌週の放課後、勅のクラスは最後の授業が担任だったこともありいつもよりかなり早くホームルームが終わった。いち早く沙斗子に声をかける。

 「沙斗子!!」

 「あ、、勅……」

 「ちょっと、行くぞ」

 沙斗子の手を強引に引いて教室を飛び出る。良かった。笹井先輩はいない。走って、走って、何とか屋上まで駆け上がる。

 「どうしたの、いきなり……」

 息を切らしていると沙斗子が心配そうにこちらを覗き込んでくる。

 「ったく。「どうしたの」じゃねえよ。心配だったんだよ。沙斗子のことが。毎日毎日、笹井先輩にべったりくっつかれて日に日にやつれてくお前が心配だったの!!」

 沙斗子がびっくりしたような顔をする。そして、泣き出した。あかん!!

 思わず心の中で関西弁になる。助けるはずの彼女を泣かせてしまった。ああー、俺ダメダメ!!

 「あ、あの沙斗子さん?無茶な引っ張り方してゴメンな?その、沙斗子が心配でつい……すみません」

 ふるふると沙斗子が首を横に振った。

 「ち、ちが、違うの。うれ、しくて……。た、勅がっ、私のこと、そんな風に心配…してくれたのが…嬉しくてっ。こ、怖かったの。毎日毎日、祥子姉が怖くなってくの。最初は……優しくて普通に、普通だったのに……。なんか、どんどん私、祥子姉にからめとられていくみたいで、祥子姉が底なし沼みたいで、わっ、わたし……ずるずるはまっていっちゃって。抜け出せなくて。怖くて怖くて、不安で、どうしていいかわからなくて。そしたら、勅が、わたしの手を引っ張って、沼から引きずり出してくれたから嬉しかったんだよ」

 その後しばらく沙斗子は泣きじゃくっていた。俺、全然気が利かなくて。胸でも肩でも貸せればよかったのに、そんな簡単なこともできなくて。ただただ沙斗子が流す涙をタオルでふき取るくらいしかできなかった。

 「ごめんね、せっかく気にかけてくれたのに。私泣いてばっかりで」

 泣き止んだ沙斗子が、申し訳なさげに真っ赤な目で見上げてくる。俺は何でもないように笑ってみせた。

 「沙斗子、誰かに親切にしてもらったら「ごめん」じゃない。「ありがとう。」だ」

 「――そう。そうだね。ありがとう。ありがとう、勅」

 沙斗子が柔らかく微笑む。もうダメ。その笑顔ずるい。かわいすぎて、感情が沸騰する。さっきまで心配とか不安とかでいっぱいだった感情が落ち着いていくのを感じた。

 「沙斗子、つらい時はつらいって言え?俺、一応だけど彼氏候補なんだから」

 「そうする。ありがとう」


 しばらくして、沙斗子が落ち着いてから、前みたいに給水塔へ上がって2人でしゃべった。

 「なあ、笹井先輩がカウンセリング受けるって聞いたんだけど」

 「うん。そうするみたい。ちょうど今日カウンセリング行くみたいだからすこしゆっくりできるよ」

 「そっか。よかった」

 俺は迷っていた。沙斗子に聞いておきたいことがあった。でもそれは、軽々しく聞いていいかどうかわからないことで。でも、それを聞かなくては、俺は沙斗子と前に進めない気がした。

 「沙斗子」

 「何?」

 「沙斗子の家のこと、聞いていい?」

 「……」

 沙斗子は、暗い顔をしてうつむいた。

 「あ、ごめん。その、無理にとかじゃなくていいから。言いたくなかったら全然いいから! ゴメン。無遠慮なこと聞いて」

 「ううん。ここまで巻き込んじゃったから、ちゃんと話す。少し長くなるけどいいかな?」

 「もちろん」

俺は、まじめな顔で沙斗子に向き直った。

 「私の母もね、うつ病だったの。私よりずっと症状が重くてね。私が幼いころから、ずっと臥せってたんだ。すごく調子のいい時だけ、一緒に料理したり、遊んだりしてたの。普段の家事はほとんど父がしていたかな。私が小学生になってからは、私も手伝ってたけど。父はすごく母を大切にしていたの。よく父が母をつれてドライブに行っていたんだ。そういうとき私は連れて行ってもらえなくて、つまらなかった。でも、2人で出かけて帰ってきたときは2人ともすごく笑顔で、私にも優しくしてくれて……だから、私も連れて行ってなんていえなかったな」

 そう語る沙斗子の目はどこまでも優しかった。

 「でもね」

 ふと、彼女の目が曇る。

 「ある日父が帰ってこなくなったの。何の前触れもなく唐突に。母がすごく錯乱して、家中のものを投げて壊してた。そのまま3か月くらいかな。3か月の間、母は泣き叫んでいるかぼんやりしているかのどちらかだったよ。家のことはほとんど私と伯母さん…祥子姉と慶介のお母さんなんだけど、その人と2人でなんとかこなしてた。それで……それで、あの日……」

 沙斗子が言いよどむ。しかし思い切ったように、言葉を続けた。

 「父が死んだの」

 そう言った彼女の瞳には、何も映っていなくて。いつかの暗い目をしていた沙斗子を思い出させて、俺はの背筋が冷えた。

 「父はその3か月間、愛人と一緒にいたらしいのね。で、その愛人と出かけてる途中で交通事故に会ってあっけなく死んじゃった。最初にそれを聞いたときは意味がわからなかったよ。こっちは暴れる母を抑えてなんとか生活してたのに、そっちは愛人と楽しく過ごしてたんだ、とか。父は母を捨てたんだ、とかさ。頭の中がごちゃごちゃのぐるぐるで、何て言っていいかもわからなかった。でさ、それを聞いた母はどうしたと思う? 本当にバカみたい。母も、父を追って死んじゃった。私は父のことはね、なんとなくだけどわかんなくもなかったんだ。病んでろくに家事もしない妻と、娘の世話で手一杯な時に、誰か心を寄せられる人がいたら、そりゃあそっちに傾いちゃうよね。家に帰っても、家事をしなくても良くて、妻の世話をしなくて良くて、娘の世話だっていらない。温かいご飯と笑顔の誰かが迎えてくれる。どうしたって、そっちの方がいいに決まってるもの。でも、母のことだけはわからないんだ。言い方は悪いかもだけどさ、父は家を出て母という重りから解放されたわけじゃない。さらに愛人と一緒に亡くなって、完全に母から解放されたと思うんだよ。それなのに、そこで母が追いかけていったら父は死んでも母の呪縛から逃れられないんだよ。可哀そうだと思わない? 母だってさ。自分を捨てて他の女の元へ走ったあげくに死んでしまった旦那の後なんか追うより、もっと前向きな生き方があったと思うんだよ。ねえ、なんでだろう。なんで母は一番つらい選択肢を選んでしまったんだろう。私には全然わからないんだ。ごめん、続けるね。たしか、両親が亡くなったのが中学になってすぐくらいかな。しばらくはさっきの伯母さんの家で世話になってたの。でも、なんか迷惑かけたくなくてさ。幸い両親の遺産があったからそれを使って独り暮らしを始めたんだ。ただ……気が付いたら私も母と同じ病気になってた。最初はなんでもなかったんだけどね。ある日祥子姉に言われたの。無表情だって。で、意識してたらどんどん表情が作れなくなって、疲れたり忙しかったりすると手や顔が痙攣するようになってね。あ、今は薬飲んでて小康状態をキープしてるから気にしないでね。こないだみたいに感情が異常にぶれたりしなければ普通でいられるから」

 そう言って、沙斗子はゆっくりと俺の方を向いて微笑んだ。その笑顔が無性に痛ましく感じて、何て言っていいかわからない。

 「その…軽々しく聞いてゴメン」

 「嫌だなあ、私が話してもいいと思ったから話したんだよ。こちらこそ重い話してごめんね?いきなりこんな話されても困っちゃうよね」

 「沙斗子はさ、笹井先輩や慶介とまた一緒に住もうとか思わないの?」

 いたたまれなくて話題を変える。

 「祥子姉と?うーん。どうかな。少なくとも、今はそんな気にならないかな。せめて…祥子姉が落ち着いてくれたら……。って、私のせいなのに、祥子姉が悪いみたいな言い方しちゃったね」

 「いやあ、あの調子の笹井先輩とずっと一緒はきついだろ」

 そこでふと気がついた。笹井先輩が沙斗子に近づく男を異常に敵視する理由。それは、沙斗子の父親と重ねているんじゃないか?沙斗子の父親と同じように、沙斗子が体調を崩したら、沙斗子を捨てて他の女に走ることを危惧している。それで、沙斗子が傷つくことを恐れている。

 「祥子姉がちゃんと病院いって、ちゃんと治療を受けてくれるといいんだけど」

 沙斗子が空を仰いだ。たしかにあの笹井先輩が大人しく治療を受けるとは思えない。

 「うまく……いくといいな」

 俺にはありきたりな慰めしか言えなかった。

 「あ、そうだ」

 思いついたように沙斗子が顔を上げた。

 「ね、メアド教えてよ。多分これからもしばらくは祥子姉につきっきりであんまりこうやって面と向かって話すのってできなくなっちゃうからさ」

 「よろこんで!!」

 思わず某居酒屋の店員みたいになってしまった。そうだ。俺も聞こう聞こうと思ってずっと忘れてたんだ。

 「はい、これ私のアドレス」

 沙斗子がそっとスマホを差し出す。かちかちと打ち込んで登録完了!! ついに沙斗子のメアドゲットだぜ!!

 「じゃあ俺からメール送るわ」

 さっそく初メールを沙斗子に送る。――なんて送ればいいんだろう。にやけてしまってろくな文章が思い浮かばない。

 「勅、なんかキモい」

 「嬉しいんだよ!!悪いか。」

 ドンびく沙斗子を尻目に俺はせっせとメールを作成する。

 「よし! 送信!」

 空高くスマホをかざす。

 「きたよー。えーと。

 “田無勅です。初メールで浮かれて変なこと書いてらゴメン。これからもよろしくお願いししまう“

 ……って。メール一つでどれだけ浮かれてるの。ししまう?」

 俺の意味不明なメールを見て沙斗子が爆笑していた。送信履歴を見返すと、アホな文章が並んでいて恥ずかしいことこの上ない。

 「わっ、悪かったな。浮かれてたんだよ!!」

 「あはははは、見ればわかるって。うくくくく、笑いすぎてお腹痛い」

 沙斗子は目じりの涙をぬぐっていた。まあ、恥ずかしいんだけど、沙斗子が笑ってくれたから良しとするか。

 「ちゃんと返事よこせよ」

 「この上をいく笑いは、私には提供できないよ」

 「じゃあデレてくれ」

 「もっと無理」

 そう言って沙斗子はひらりと給水塔から飛び降りる。

 「帰ろう!」

 「ごまかしたな…」

 俺もそれに続いて、屋上を後にした。


 結局その後沙斗子からきたメールは

 “三日月です。また明日”

 という超シンプルメールだけだった。それでも嬉しくてベッドで転げまわってしまった俺は、相当のバカなんだろう。

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