第39話 ちょっと寄って行かない?

 『渚四川飯店』で食事をした後は、結菜を自宅まで送った。『南かぜ風』の近くにあるマンションだったが、大きな疑問が生じた。どこからどう見ても、単身者用のマンションだった。

「ちょっと寄って行かない?」

「結菜、もしかして……一人暮らししているの?」

「そうよ。鈍感だから落合なんだもんね、まったく。どうして私が、毎朝『南かぜ風』でパンを買って食べていたと思っていたのよ」

「食いしん坊だから。……痛ッ」

「朝ご飯を作ってくれる人がいないからでしょ。私、早起きするのが苦手だから、自分で作るのもしんどいし……。美樹も佐藤も、私が転校して来て、すぐに気づいてくれたわよ。三上さんだって、もう気づいているはずよ」

 てっきり父親の仕事の都合とやらで、転入してきたものとばかり思っていた。

「……結菜は、どうして、渚町に来たの?」

「……もう忘れたわ」

 結菜は笑顔でそう言った。

「さあ、早く中に入ろう。男子が家に来るのは初めてだから、光栄に思いなさいよね」

「う、うん」

 俺は女子の部屋に入るのも初めてだった。それが、いきなり一人暮らしの結菜の部屋に入ることになるなんて……。今日できるだけ落ち着いて行動できるように、昨晩のうちにしっかりと処理していてよかった。


 8畳ほどの部屋と、3畳ほどのキッチンがついた1Kの間取りだった。8畳ほどの部屋には、シングルベッド、小さなタンス、丸いテーブル、テレビがあるくらいでモノが少なく、キレイに片付けられていた。

「今日、泊まっていくでしょ? 私、ゆっくりしたいから、先にお風呂、入っちゃうね。冷蔵庫にある飲み物好きに飲んでいいから」

 結菜は、俺からスーツの上着を脱がしてハンガーにかけると、小さなタンスから着替えを取り出して、バスルームに消えて行った。

 今、着替えの下着がチラッと見えたぞ。というか、いつの間に泊まることになったんだ? 「ちょっと寄って行かない?」とは世の中ではそういう意味なのか? 大丈夫、コンドームは今日もちゃんと持っている。


 俺は少しでも落ちつこうと思い、飲み物を入れるためにキッチンに行くが、結菜がシャワーを浴びる音がもろに聞こえてヤバい。そそくさと部屋に戻る。

 なぜだか、俺は正座をしていた。

 テレビをつけて、クイズ番組を見る。これなら安全だ。キスシーンなど、危ない場面に遭遇することはないだろう。


「ああ、さっぱりした」

 薄手のパジャマに着替えた、お風呂上がりの結菜は草食のライオンのようだった。柔らかすぎる雰囲気で、空間を支配していた。

「あのさ、俺、やっぱり帰る」

「なんでよ!」

「だって、お前……痛ッ。なんで殴るんだよ」

「婚約したからって、お前って言わないで。殴られて当然でしょ」

「……悪かったな。とにかく、俺も男なんだ。結菜に手を出すかもしれないんだぞ」

「だって、約束したじゃない。さっき婚約した時に、結婚するまで貞操を守るって。だから、落合は私に手を出せないし、私だって落合に手を出せないから、大丈夫よ」

 草食のライオンではなかったらしい。

 それにしても、うっかり大変な約束をしてしまった。ということは、結菜と付き合うことになっても、俺は結菜とセックスできないということではないか……。

「わかったら、落合もさっさとシャワー浴びて来なさいよ。私、眠くなってきちゃった。ファー」

 結菜は大きなあくびをする。無防備だ。俺に対してまるで警戒心がない。良くも悪くも俺のことを信じてくれているのだ。

「わかった。それじゃ、コンビニで着替えの下着、買ってくる」

「うちにあるから大丈夫よ。いつ、落合が泊まりに来ても困らないように、買っておいたのよ」

「えっ?」

 俺が泊まりに来る準備をしていた?

「多分、サイズも大丈夫だと思うわ。『アツアツ』でチェックしていたから。はい、これ使って」

 結菜はそう言ってタンスから男性用のパジャマと下着を取り出すと、俺に渡した。パジャマは結菜と色違いのものだった。

「ファー。私、先に寝ていたらごめんね」

 結菜はまた大きなあくびをする。

「いいよ、先に寝ていても。これ、ありがとう」

 俺は結菜に礼を告げると、部屋から出て、バスルームに入った。


 バスルームにはまだ熱気が残っていた。たった今、結菜が使ったバスルームでシャワーを浴びることになるとは……。幸せすぎる状況だが、こんなに困ってしまうこともない。

 結菜に先に眠ってもらったほうが安全だ。これ以上、刺激的なことが起こると、体が爆発してしまう。俺は、長めにシャワーを浴びた。


 残念ながら結菜は起きていた。しかも、目をキラキラさせていた。部屋の中央で、正座して座っていた。

「落合、こっちに座って。私、とっても良いこと思いついちゃった」

 結菜は自分の正面に俺を座らせる。結菜が正座をしていたので、俺も正座をした。テレビは消されていた。

 結菜は少し間をとると、

「落合、私たち同棲しよう!」

と笑みを浮かべて、それでいて真剣なことがわかる表情で俺に言ってきた。


「ど、同棲って、お前、何を……痛ッ」

「同棲するんだから、お前って呼ぶの早くやめなさいよね。いちいち、こんなことでケンカをしていられないわ」

 同棲することはもう決定事項なのか? ちょっと寄って行くはずが泊まることになって、どうして同棲にまで発展してしまったんだ?

「私、正直言うと、ちょっとだけ寂しくて……。私が、渚町にもう少し慣れるまで、夏休みの間だけでもいいから、同棲してよ。お願い」

 結菜は俺の両手を握って、すがるように見つめてくる。こんなことされたら、嫌とは言えないではないか……。

「わかったよ。夏休みの間だけだからな」

 そりゃそうだ。9月から俺は沖縄に行くのだから。

 結菜は俺の返事を聞くと、サッと手を離して、

「やったー! ありがとう、落合! これ、合鍵あげるね。おやすみなさい!」

と言って合鍵を渡すと、そそくさとベッドに入る。

 転校のことはなるべく早く、結菜に話さなければいけないと思っていたが、しんみりとしてしまうのが嫌なので先延ばしにしていた。

 ベッドに入って数十秒で、結菜は眠っていた。結菜の寝顔をまた見られるとは夢にも思っていなかったなあ。

 俺がそっとキスをしようとすると、結菜は気配を感じてハッと目を覚まし、俺にビンタをする。そして、何も言わずに、また眠る。

 これなら大丈夫だ。俺が変な気を起しても、間違いは起こらない。どうにか同棲をやっていけそうだ。


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