第40話 ただいま
不思議なほどぐっすり眠ることができた。夢ではなかった。起きて、2秒後の距離に結菜の寝顔があった。キスしようとして、ビンタをされて、完璧に目覚めた。
スーツに着替えると、『実家に帰ってから学校に行きます』と書いたメモを残して、結菜と一緒に暮らすことになった部屋を出た。他の鍵と違って、結菜からもらった合鍵は温かかった。
実家に帰ると、父さんと母さんが朝食を食べていた。楓はまだ部屋で寝ているようだった。随分、遅くまで俺の帰りを待っていたらしい。
「ただいま」
「なんだ、まだ卒業してないのか」
「もう、変に期待させないでよね」
「期待って、何が?」
「正もついに男になる日が来たんだと、母さんと喜んでいたんだよ。それなのに、お前、何も変わっていないじゃないか」
「本当、がっかりだわ」
俺がダイニングテーブルの席につくと、母さんが朝食を用意してくれる。
「悪かったな、がっかりさせて。俺たちには俺たちの順番があるんだよ」
「俺達って、正、彼女はいるのか?」
「いないよ。でも、昨日、婚約した。そして、同棲することになったから。今日、学校が終わったら、荷物取りに来る」
父さんと母さんの目がキラキラする。特に母さんは100カラットのダイヤでも見ているかのようだった。バシッと俺の背中を叩き、
「さすが私の息子だわ。やる時はやるんだから! キャーー! お父さん、正が同棲ですって! キャーー!」
「えっ、お兄ちゃん、同棲するの? 相手は結菜さん?」
楓が転がるように階段を下りて来て、俺の隣に座る。
「お前には関係ない」
「関係あるよ! 私のお義姉さんになるかもしれないんだよ。お父さんとお母さんはいいの? 結菜さんってすっごい美人だから、お兄ちゃん結菜さんのことばかり見て、私たちのこと忘れちゃうかもよ? ねえ、いいの?」
「ハハハッ。恋は盲目っていうからなあ。いいじゃないか。大いに結構」
「違うよ。俺、結菜のことちゃんと見えているよ。こんなにはっきりと見える人に会ったのは初めてかも。いや、初めてだ」
「正、母さん、結菜さんには、今は会えないわ」
「何だよ急に」
「嫉妬を抑える自信がないの。楓も結菜さんに会ったらダメだからね。わかったわね?」
「はーい……」
なるべくそっけなくした。こうして家族揃って食事する機会を少なくしてしまったから、本当は寂しかった。そんな中で、結菜との同棲を許してくれた父さんと母さんに深く感謝した。さよなら、味噌汁。ありがとう、味噌汁。忘れないよ、味噌汁。
学校に行くと、結菜の席の周りに、佐藤と美樹と三上が集まっていた。
「正、ゆいぴーから聞いたぞ。お前、一生分の運を使いきったな」
「それでも足りないかも」
俺がそう言うと、佐藤がヘッドロックしてくる。
「正、婚約おめでとう。結婚式の写真は、星野さんにお願いしてあげるね」
美樹が他のクラスメイトに聞こえないように小さな声で言う。多分、今、八坂のことをチラ見した。
「ありがとう」
「落合君、婚約者でも田中さんの下着を盗んだり、撮影したらりっぱな犯罪だからね」
三上が真面目に注意する。
「そんなことしないって。一緒に居られるだけでお腹いっぱいなんだから」
本心だった。できる限り邪心を追い払って、結菜と向き合いたかった。
「でも、正とゆいぴーは付き合っているわけではないんだろ? だったら、結婚する前に、俺がゆいぴーと付き合う可能性もあるんだぜ。なあ、ゆいぴーそうだろ?」
佐藤はそう言うと、やっとヘッドロックを外す。
「確かに、落合と結婚をする前に、他の人と付き合うことになるかもしれないけど、佐藤とはないかな」
結菜が一刀両断すると、佐藤はしゃがんでいじける。
その様子を見て、三上と美樹が笑っている。
「おはよう」
「おはよう」
ようやく結菜と目を合わせることができた。挨拶することができた。なんだか、学校で会うのがくすぐったかった。
「学校、終わったら、実家で荷物とって、そのままバイト行くから、帰り遅くなる。先、寝てていいから」
「わかった」
今日の結菜は奥ゆかしい雰囲気がした。
「すっかり新婚さんみたいな会話だね」
美樹がそう言うと、佐藤が俺と結菜の間に割って入って、
「そういや、夏休み中に渚町で映画の撮影があるらしいぜ。なんでも、地球人の作ったSF映画を見た宇宙連合軍が、好戦的で危険な存在として地球に攻めてきたところを、偶然合宿をしていた合唱部の連中が歌で追い返してしまうストーリーらしい」
と話題を変えた。
「つまらなそう……」
結菜は凍えるような声でそう言った。
美樹が固まったのはそのせいかと思ったが、視線を追うと理由がわかった。八坂が俺たちのほうを見ていたのだ。
杉山が教室に入って来たので、俺たちは自分の席につく。
「おはよう」
「おはようございます」
「暑い日が続いているが、高3の夏に、夏バテなどするなよ。しっかり、栄養を摂って、やるべきことをやるように」
「はい」
「もし、体調が優れない者がいたら先生に言うように。元気の出る特効薬を教えてやる」
どうやら教頭と相変わらずヤリまくっているらしい。仲人は杉山に頼むことにしよう。
美樹は八坂をチラ見すると顔を少し赤くしていた。
夏季講習が終わると、結菜たちと別れて、実家に帰った。
机の上に、3種類のコンドームと得体の知れない漢方薬、『10代でセックスをマスターする999のテクニック』と題された本が置かれてあった。
ありがたく鞄に詰める。もちろん使用する気はない。結婚をするまでは貞操を守るのだ。
一通り生活に必要な物を鞄に詰めると、思っていたよりも早くこの部屋を出ることになったので、15分ばかりベッドで横になった。眠くはなかったが、そうしたかった。つい最近まで、父さんと母さんと楓と手をつないで歩いていた気がした。
『渚四川飯店』に出勤すると、野村店長と川上さんと貴子さんが待ち構えていた。川上さんはこの日、休みだったのに姿を見せていた。
「オッチー、昨日のプロポーズ、マジだよな?」
「はい」
「あんなにかわいい子と婚約しちゃうなんて、オッチーやるじゃない!」
「デヘヘヘッ」
「お前、一生分の運を使ったな」
「それ、クラスメイトにも言われました。不釣り合いなのは重々承知しています」
「そんなことないですよ。お似合いのカップルです」
野村店長の言葉はお世辞には聞こえなかった。
「店長、こんな感じでいいですか?」
料理長が『渚四川飯店』のメニューにない料理を持って来た。
「フィレ肉のあんかけご飯で、『フィアンセ丼』です。うちの新しい名物料理にします」
「いいですね。食べたら幸せになれそう」
野村店長の考えたダジャレありきの新メニューを、貴子さんが称賛する。
「あっ、オッチー忘れないうちにこれやるよ」
川上さんが俺にコンドームをくれる。
「オッチー、私も持って来てあげたわよ。まだ買うの恥ずかしいでしょ。後であげるね」
と貴子さんが言うと、
「実は私も用意していたんですけど、オッチーもそんなにたくさん持って帰れませんよね。私が自分で使うことにしましょう」
と野村店長が何気に爆弾発言をする。今、貴子さんと目が合っていたぞ。
「あのですね、昨日も言いましたけど、俺と結菜は結婚をするまで、セックスはしないんです。そう誓ったんです。だから、受け取れません」
俺は川上さんにコンドームを返す。
「オッチー、お前……出会ったんだな」
「何がですか?」
「俺にもよくわからないことだが、お前にとって結菜ちゃんはきっと運命の人だ。そうとしか考えられない。思春期真っ只中のお前が、セックスよりも二人の将来のことを優先するなんて極めて異常だ。それを真面目に言い切るとは、結菜ちゃんが運命の人だからに違いない。オッチー、この出会いを大切にするんだぞ」
「川上さん、結菜は運命の人ではないですよ。俺の妻になってくれる人です。それ以上でも、それ以下でもありません。愛する妻になる人です」
「暑いわね。クーラーの温度、下げましょう……」
「そうですね」
貴子さんも、野村店長も、川上さんも、料理長も手で顔をあおいでいた。
確かに今年の夏は、例年以上に暑く感じた。
「ただいま」
バイトが終わって帰宅すると、結菜はまだ起きていた。
「お帰りなさい。ご飯にする? お風呂にする? それとも、わ・た・し? もうやだー!」
結菜はそう言うと、やや強めに俺の肩を叩く。
「一回、こういうベタなこと言ってみたかったのよね。落合が相手だと、平気で言えちゃうから不思議だわ」
「結菜、それ……」
焦った。ノースリーブのシャツとショートパンツの上からエプロンをかけていたので、一瞬伝説の裸にエプロンをしているように見えた。
「私のキャラには合わないかな?」
「そ、そんなことないよ。すごく似合っている。かわいいよ」
「本当? 良かった」
結菜がほっとした表情を見せた。こんなに美人なのに怯えることもあるんだ。
「で、どっちにする?」
「えっ?」
「ご飯かお風呂」
「結菜がいいかな」
包丁の裏側で股間をコツンと叩かれる。冗談で言ったとはいえ、膨らみかけていたアレがすぐに委縮した。
「お風呂入ろうかな」
「あっ、そうだ。昨日の分は私が洗濯したけど、明日からは落合が洗濯係ね。私は家政婦さんじゃないんだから」
八畳間に俺の下着がたたまれていた。
「でも、それって、俺が結菜の下着を……」
「あのね、同棲するのに洗濯物の下着でいちいち恥ずかしがっていられないでしょ。落合も変に興奮したりしないでよね。自然にやればいいのよ。わかった?」
俺は返事の代わりに生唾を飲んでしまった。
「いや、違うんだ。そのオムライスがおいしそうで……」
こんな言い訳では殴られると思って、目を閉じたが、
「まあ、落合だから、こんな感じになると思っていたわ」
と言って、結菜は手を出さなかった。
「早くお風呂入ったら。パジャマはバスルームに置いてあるから」
「あ、ああ」
俺は鞄から下着を取り出すと、バスルームに入った。
良い匂いがした。結菜がシャワーを浴びてから、まだ時間が経っていないようだった。
「落合、バスルームで変なことをしたら、叩き切るからね」
結菜の声と、包丁できゅうりを切る音が聞こえてきた。
俺は刺激を与えないように、大切な部分をゆっくりと洗った。
シャワーを浴びて出てくると、テーブルの上にオムライスとサラダが用意されていた。これだけでも、ヨダレが垂れてきそうなのに、色とりどりの結菜のブラジャーとパンツが、部屋いっぱいに並べられていた。童貞の俺には刺激が強すぎる光景だった。
「これから毎日目にする物だから、さっさと慣れてちょうだい」
結菜はそう言うと、平然とオムライスを食べ始めた。
「おいしい! 落合も早く食べてよ! 支配人に教えてもらったレシピで作ってみたの!」
今はオムライスの匂いを感じない。多分、食べても味もわからない。
夜空に輝く星々よりも、何倍も目を奪われる光景が広がっているのだ。
「落合、さっさと食べないと、今つけているブラも外して見せてやるわよ」
「い、いただきます!」
俺は慌ててオムライスを頬張る。今、そんなことされたら、バスルームに非難したのち、結菜に去勢されてしまう。
「おいしい!」
「でしょう、大成功だわ」
食べることに集中するんだ。うわっ、今度は結菜の唇に目がいってしまう。エプロンをかけたままでセクシー過ぎる。
「ねえ、本当に、落合のご両親に挨拶に行かなくていいのかな? 同棲するのに失礼過ぎない?」
「いいって。まだ付き合っているわけじゃないんだし」
まさか、結菜がこんなに大胆な行動に出るとは思ってもいなかった。俺は父さんと母さんに紹介できるほど結菜のことをまだ知っていない。
「また手が止まっているよ。あーん」
結菜はオムライスをスプーンで取ると、俺に食べさせる。この状況で間接キスだと!
俺は吉岡先生に遊ばれているあの社会人のことを思い出した。きっと俺も今、結菜に遊ばれている。同棲がうまくいくようにという気持ちもあるだろうが、結菜は俺のリアクションを見て楽しんでいるに違いない。サディストの血が騒ぐのか、目がキラキラしている。
「あーん」
「じ、自分で食べるよ」
「つまんないの」
こんなことで負けていられるか。あの白と青のコントラストが素敵なチャペルで、結菜と挙式するんだ。金子さんにブライダルプランを立ててもらうんだ。
俺は味を感じないオムライスを黙々と食べ続けた。そしてやはり、ムラムラを抑えるために、ファンキーなおばあちゃんのことを思い出していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます