第32話 静
「はい」
2人きりになると、結菜はまっすぐキッチンに向かって、ビールジョッキにコーラを注ぐと、俺に差し出した。
「あ、ありがとう」
俺はゴクゴクッとコーラを飲む。結菜に信用されていないのも無理はない。
「一気に全部飲んで」
「こ、これ全部?」
結菜は真顔で頷く。
俺は何度もゲップをしながら、ビールジョッキに入ったコーラを飲み干す。性欲を抑えるというよりも、お腹が膨らんで動くのが苦しくなるという効果がすぐに表れた。
結菜はすぐにコーラを継ぎ足す。
俺が目を点にしていると、
「これ全部、飲んでよね」
と結菜はビールジョッキに注いだ分と、1.5リットルのペットボトルに残っているコーラをまじまじと見てそう言った。
「む、無理に決まっているだろ。そんなの……」
「まったく、だらしないわね」
結菜は俺からビールジョッキを取ると、一気にコーラを飲み干して、また俺に戻した。
「まあ、落合なら心配ないか。ゲポッ」
結菜はコーラのペットボトルを冷蔵庫にしまうと、何事もなかったかのようにソファに座り、テレビをつけた。今の間接キスだよな? 絶対にそうだよな? テレビでは、洋画が放送されていて、男女のムードが高まっているシーンだった。俺は慌ててリモコンを手に取り、テレビを消した。
「バカじゃないの。これくらいで動揺しちゃって」
結菜に呆れられるが、反論する言葉が見当たらない。
「たった20分くらい待つだけじゃない」
結菜はそう言うと、スマホを取り出してゲームを始めた。
「しまったー。充電するの忘れてたー。まあ、大丈夫か……」
俺は冷蔵庫を開けて、空になったビールジョッキに、コーラを継ぎ足そうとするが、
「それ使ったら殺すからね。やるなら、もっと自然にやりなさいよ。バカッ」
と結菜に言われてしまい、渋々シンクで間接キス返しのチャンスを洗い流した。
気まずい。非常に気まずい。結菜と向かい合ってソファーに座っている。それだけで、酸欠になりそうだった。冗談で流されたとはいえ、一度コクっているだけに、この状況は想像していた夢のような時間とは違っていた。1分が物凄く長く感じた。
佐藤がなぜ、先発チームを選んだのか、その理由もわかった。戸締りが嫌いな話も本当かもしれないが、最大の理由は恐らく三上と二人きりになることが怖かったからだろう。
気まずいとはいえ、相手が結菜だから気を遣わないですむが、もし美樹と二人きりになっていたら、美樹を楽しませようとして、つまらないギャグを言ったりして、無残に散っていたことだろう。そして何より、美樹のことを好きになっていたかもしれない。
「落合ってさ……」
俺はダメな男だ。沈黙を破って喋り始めたのは結菜のほうだった。
「何だよ……」
「童貞なの?」
「はあ? ば、お、バカかお前、何を聞いているんだよ」
「ふーん。やっぱ童貞か」
「勝手に決めつけんなよ」
「私が教えてあげてもいいよ……」
俺は石になった。その瞬間、完全に石と化した。
「なんてね。そんなことあるわけないでしょ、バーカ!」
いったい何なんだ、今の会話は? 俺が童貞であることを確認して、バカと言う。先ほどまでの沈黙を破ってまで、この会話をする必要があったのか? あまりに混乱して、危うく『バカと言う奴がバカだ』と小学生のようなことを言いそうになってしまった。危ない、危ない……。
俺はスマホを見て、時間を確認する。後12分ほどで、またタクシーが迎えに来てくれる。それまでに、後何回、結菜にバカと言われることだろう。スマホゲームでもして、積極的に会話をしないといけない状況から逃げ出そうかとも思ったが、俺のスマホも充電が残り僅かになっていたので、やめることにした。
「落合ってさ……」
今度は何だ?
「美樹のこと好きなの?」
「わ、わからない」
またまた、何を突然聞いてくるんだ? しかも、俺は「わからない」と答えてしまった。なぜ、否定しなかったのだ? 俺が好きなのは結菜なのに……。
「そう」
結菜はまたスマホゲームに夢中になる。俺にとんでもない質問をしておいて、たった2文字、「そう」だけで会話を終わらせるとは、何を考えているのかまるで理解できない。
すると、沈黙を解消する助けなのか、突然大雨が降り始めた。結菜は立ち上がって、カーテンを開けると、外の様子を確認する。
「すごい雨……」
俺も立ち上がって、結菜のそばに行く。
「ゲリラ豪雨だろ。すぐ止むよ」
結菜が珍しく不安そうな表情をしていた。俺が男らしく、結菜を安心させるために話しかけようとすると、佐藤から電話がかかってくる。盗聴器でも仕掛けられているのか?
「もしもし、どうした?」
「正、そっちも雨凄いか?」
「ああ、かなり降ってる」
「やっぱりそうか……。あのな、タクシー会社から電話があって、途中の道が冠水してしまって、そこに迎えにいけないらしい」
「でも、すぐ止む……」
俺が喋っている途中に、稲光がピカッと光ると、『ドドーン!』と雷の音が轟く。
「キャッ!」
俺は驚いた。雷の音に驚いた結菜が俺に抱きついていた。
「どうした? 結菜は大丈夫か?」
電話の向こうで佐藤が本気で心配していた。微かに、『何かあったの?』『大丈夫なの?』と美樹と三上の声も聞こえてくる。
「大丈夫。雷が鳴っただけだよ」
俺は佐藤と結菜に向かってそう答えた。結菜が俺から体を離した。せっかく結菜と密着していて、もったいない気もしたが、今は結菜を安心させることが何より先決だ。
「結菜、窓際は危ないから離れよう」
「うん」
俺と結菜はソファーに戻る。ただ、先ほどと違うのは、結菜は俺の隣に座った。
「大丈夫なんだな? とにかく今日はそこに泊まるしかない。迎えに行けないんだ」
俺の考えが甘かったことを佐藤が教えてくれると、また稲光がピカッと光り、『ドドドドーン!』と爆発音のように雷の音が鳴り響く。
「キャアッ!」
結菜が俺に抱きつく。結菜が怯えているのは雷だけではない。今度は停電してしまったのだ。
「正、どうした? 結菜は大丈夫なのか?」
佐藤の声も緊迫している。
「大丈夫だって。雷が落ちたみたいで、停電してしまったけど、ここに居れば安全だよ。建物が壊れるわけでもあるまいし。佐藤、懐中電灯の置き場所わかるか?」
「確か、2階の寝室に置いてあったと思う。おじさんが使っている寝室と、客用の寝室の両方に」
「了解。ちょっと取って来るよ」
「正、本当に大丈夫なの?」
電話の相手が美樹に代わる。
「こんなに立派な建物なんだ。何も心配いらないよ」
「そうだよね。ちょっと結菜に代わってもらえる?」
俺はスマホを結菜に渡す。結菜は俺から体を離すと、
「もしもし……。大丈夫だよ、美樹。停電してびっくりしちゃっただけだから。……うん、うん。わかった。落合もいるし、だいじょう、あっ」
結菜はスマホの画面を確認すると、また電話に戻る。
「……大丈夫、ごめん、ごめん。落合のスマホの充電が残り少なくなってて。……私のスマホもほとんど充電が残っていないから、一回電話を切るね。……うん、何かあったらすぐに電話する。三上さんにも心配ないって伝えて。……わかった。それじゃ、切るね」
結菜は電話を切ると、スマホを俺に返す。暗闇に目が慣れてきて、薄らと見えていた。
「私のこと、見えているよね」
「当たり前だろ。さあ、まずは懐中電灯を取りに行こう。2階の寝室にあるらしいから」
「わかった」
俺は結菜の手を握ると、ソファーから立ち上がって、壁や物にぶつからないように、ゆっくりとリビングから出た。
手すりに掴まって、慎重に階段を上る。
「知らなかったな、結菜が雷、苦手だったなんて。意外すぎ。ハハハッ」
「笑わなくてもいいでしょ! 怖いものは怖いんだから!」
やっぱり誰にでも苦手なものはあるものなんだなあ。俺は結菜の弱い部分を見て、『田中結菜という人物は実在するんだな』と思っていた。結菜は誰もが振り向くほどの美人で、空手も強くて、勉強もそつなくこなして、できすぎた存在だった。だから、俺は結菜と居ると、時々、長い夢でも見ているような不安に襲われることがあった。朝、目覚めたら、結菜が居ない。そんなことが起こるかもしれないと思っていた。
また、雷が鳴り、結菜が俺の手を強く握りしめる。
「イタタッ」
「ご、ごめん」
「スゲー、握力。骨折して、アレができなくなったら、どうしてくれるんだよ」
「バカ! バカ! バカ!」
「イタタタッ!」
「骨折してしまえばいいのよ、こんな汚れた手なんか!」
よかった。結菜はちゃんとここに居る。
たまたまテレビで、『いつか役立つかもしれない』と思いながら見ていた情報が、今、まさにその時を迎えていた。
「キレイ……」
結菜はその優しい光を見て、落ち着きを取り戻していた。
2階の寝室から持って来た懐中電灯をリビングのテーブルに立てて置いて、その上にペットボトルを乗せて、簡易的なランタンを作った。
思っていたよりも部屋が明るくなり、正直言って、俺も少しほっとしていた。2階からもう1個懐中電灯を持って来ていたから、朝まで明りに困ることはないだろう。
「腹減ったな、何か食べる?」
「やめとく。体温上がっちゃうから……」
「そうだな」
クーラーが止まって、室内はひどく蒸していた。
雨はまだ激しく振り続いている。時折、雷も鳴っていたが、結菜が抱きついてくることはなかった。それでよかった。汗でべたついているから、結菜に不快な思いをさせずに済んだ。
「落合ってさ……何で、落合なの? 落合じゃなければいいのにって思うことないの?」
結菜が今、口にした言葉を、そっくりそのまま心の中で3回呟いてみたが、まったく意味が伝わってこない。
「ほら、返事しないじゃない。そういうところ、落合だよね」
結菜は勝手に納得した顔をしている。
「私、言っておくけど、本当はバージンだからね」
「何で今そんなこと言うんだよ」
「言っておきたかったのよ」
「だから、どうして?」
「はあ、これだから、落合は……」
俺の家族まで否定されたのかと思うほど、結菜は大げさに深くため息をついた。
「落合が本当に私のことを好きなら、今すぐ付き合うことにして、やらせてあげてもいいって、言っているのよ私は。まあ、落合がコンドームを持っていればという条件つきだけどね。ちょっとぐらい察しなさいよ。こんなにムードのあるランタンを作れるなら」
先ほどまでの会話のどこに、察するポイントがあったのだろう? それに、結菜は今、とんでもないことを口にしていたが、これが吊り橋効果ってやつなのか? それだと、何だか卑怯ではないか?
「もう一度だけ聞くけど、落合は私のことが本当に好きなの?」
しまった。美樹の顔が、頭をよぎった。
結菜は小さく重たいため息をつくと、
「私も同じなのよ」
とだけ言って、黙り込んでしまった。
一年間も文通して、好きになった茜さんよりも、俺は出会って間もない結菜のことが好きになった。だから、結菜を好きという気持ちが本物なのか自信を持てなくなっていた。茜さんよりも結菜のことが好きになったように、結菜よりも美樹のことを好きになるのかもしれない。本当に結菜のことをずっと好きでいられるのか、俺にはわからなかった。
そして、もう一つわからないことがあった。なぜ結菜は、『私も同じなのよ』と言ったのだろう? 俺のことが好きだけど、他に気になる人がいるということか? でも、どうして結菜が俺のことを好きになるのだ? 佐藤のことが好きだけど、俺のことも少しは気になるという話なら理解できなくもないが……。俺のことが少し気になるとうことだけでも、奇跡的なことなのだから。
とにかく、ラブホテルで吉岡先生に教えられて以来、コンドームを財布の内ポケットに大切に入れていたのだが、俺にはそれを使う資格はない。
結菜は俺にもたれかかって眠っていた。こんなことされたら、俺はもう眠ることはできない。雨はまだ激しく振り続いている。朝まで結菜と一緒に過ごせそうだ。こんなこと、もう二度とないのだろうな……。
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