第31話 動
フラフラになりながらも、笑みを忘れることなく、夕食と夜食の時間も、大きなミスをすることなく務めを果たすことができた。決して、作り笑顔ではなく、お客様をもてなすことが楽しかった。お客様に喜んでもらえることが嬉しかった。
ただ一つ、俺から笑顔を奪おうとしたのは、木村様たちはもちろん、望月様と工藤様の食べっぷりを見られるのも、明日の朝食時が最後かと思った時に感じた寂しさだった。
望月様と工藤様はケンカでもしたのか、夕食後にロビーに残ったのは工藤様だけで、望月様は部屋に戻って行った。
工藤様はお一人の場合は、さほどわがままを言ってはこなかった。テレビのチャンネルも自分で変えていた。
22時過ぎに、望月様がお風呂に入るために部屋から降りてくると、工藤様は入れ違いで部屋に戻って行った。
「男性風呂も使えるの?」
望月様はフロントに立ち寄ると、俺にそう尋ねた。今日は、俺がまかないを後で食べるハズレくじを引いていたのだ。
「はい。私たち従業員が後で使わせていただきますので、ご入浴できるようにはなっております」
「なら、私が今、使っても問題ないわよね? 他に男性客はいないんだから」
「そうでございますね……」
「ゆっくりお風呂に浸かりたいのよ」
威圧感よりも、心情のほうが強く出ていた。
「かしこまりました。どうぞご利用くださいませ」
「ありがとう」
望月様はそう礼を告げると、自動販売機でミネラルウォーターを買ってから、お風呂場へと向かって行った。
そして、午前0時過ぎ。明日の朝食の準備が終わると、ハードだった2日目も無事終業となった。
この日は佐藤のおじさんが『アツアツ』まで、アウディの3列シートのSUVで迎えに来てくれた。昨日と同様に、テレビゲームをしていたところ、何度もゲームオーバーになってしまい、思わずゲーム機を壊してしまったそうだった。それで、約40km離れた伊東まで行って、新しいゲーム機とソフトを買って来たところだと言う。しかも、予備用に2台買ったそうだった。
「さっきから、キョロキョロしておるが、乗り心地でも悪いかね?」
佐藤のおじさんにそう言われ、
「いえ。快適です。ただ、こういう高級車に慣れていなくて……」
と俺は答えた。
せっかく迎えに来てくれた佐藤のおじさんの失礼なのだが、俺たちはシートに変なシミがあったりしないだろうか気になって仕方なかった。
どうしてこんなに動かないではいられないのだろう。皆、ヘトヘトに疲れているはずなのに、誰一人『アツアツ』で休もうとはしなかった。体が、心が、友情が動きたがっていた。それから、恋も。じっとしていられるわけがない。
三上は懸命に練習を続けて、15mほどのプールの端から端まで泳ぐことに成功する。
「オッシャー! スゲーよ友里!」
佐藤の喜ぶ声が大きすぎて、三上が何を言って喜んだのか聞こえてこなかった。まあ、三上の嬉しそうな顔を見たら、その必要はないが。
「友里、やったね!」
「私、有言実行する人、大好き!」
美樹と結菜も、三上を褒め称え、自分のことのように喜んでいる。
「あとはスムーズに息継ぎができるようになれば完璧だな」
俺も三上の努力を褒めたつもりだったのだが、
「何よ! 立派に泳げているじゃない! 落合のくせに『完璧』なんて言葉使わないで!」
と結菜に怒られ、
「正らしい。火をつけちゃうのよね」
と美樹には妙に納得された。
三上は、表情から笑みを消して、すぐに練習を再開した。
「やれやれ、十分、泳げるようになっているのに……。友里らしいな」
佐藤はそう言うと、
「顔を全部出そうとしないで!」
と三上に息継ぎの指導をする。
佐藤が口にした『三上らしい』という言葉の意味は理解できた。真面目で、100点を取らないと気が済まない三上らしい行動だった。
でも、美樹が言った『正らしい』は意味がわからなかった。自分のことになると、本当にわからないことばかりだ。
午前2時過ぎ。プールから上がると、佐藤のおじさんの姿はなかった。
リビングのテーブルに、『急に仕事が入ったから、すまんがタクシーで帰っておくれ』と書かれたメモと、鍵と、一万円札が2枚置かれてあった。
こんな時間に仕事の呼び出しとは、暗殺者でもしているのだろうか。詳しいことは聞かないことにした。
佐藤のおじさんはタクシー会社にも事前に電話をしてくれていて、深夜だったが、タクシー会社の人は、嫌がらずに親切に対応してくれた。ただ、今から迎えに行けるタクシーが1台しかないそうで、2回に分けて『アツアツ』まで乗せてもらえることになった。
こんな時間に、女子だけをタクシーに乗せるわけにもいかないので、俺と佐藤は別々に乗ることにした。佐藤は別荘の戸締りもあるので、てっきり俺は先発チームになるかと思ったが、
「正、これっ」
と佐藤が鍵を俺に投げる。
「俺、戸締り嫌いだから頼むよ。こういうところの戸締りって、なんか寂しい気持ちになっちゃんだよなあ」
佐藤にそう言われると、確かに俺も寂しい気持ちになってきた。手に伝わって来る鍵の冷たさが、よりそうさせた。
「それじゃ、じゃんけんしよう。負けた人が落合君と一緒ね」
三上がそう言うと、結菜も美樹も当然のことのように頷いた。なぜ、負けた人が、俺と一緒なのだ? 勝った人ではダメなのか?
じゃんけんの結果、負けたのは結菜だった。引きの強い結菜のことだから、三上と美樹が先に『アツアツ』に戻れるように、わざと負けたのかもしれない。負けようとして負けられるものではないが、少なくても結菜が美樹のじゃんけんのクセを知っている可能性はあった。
「正、美樹に変なことしちゃダメだからね」
と美樹に注意され、
「こんな時間にゆいぴーに蹴られて、ケガなんかするなよ」
と佐藤に注意され、
「落合君、冷蔵庫にコーラがあったら、飲んでおくといいわ。性欲を抑える効果があるらしいから」
と三上にアドバイスされた。誰からも信用されていない。
「結菜、やっぱり代わってあげようか?」
「大丈夫。美樹に何かあったら困るもん……」
「それじゃ、正、頼んだぜ」
「コーラ、忘れないで」
そう言い残すと、先発チームは迎えに来たタクシーに乗って別荘を後にした。
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