第30話 オレンジ
2日目の早朝。夜が明け始める瞬間に俺は目を覚ました気がする。そう、心の中で、目ざましをセットしていたから。俺は5時30分にセットしていたスマホのアラームをオフにして、佐藤が起きるのを待っていた。起こすのも、一人で泳ぎに行くのも、佐藤に悪い気がした。
昨晩、プールで遊んだ後に、
「テントで寝るより、佐藤と落合はここで泊まって、明日戻ってくれば?」
と結菜に言われたが、
「どうして? 別荘よりテントのほうが良いに決まってんじゃん。なあ、正」
「ここでテントに泊まらなきゃ、男じゃねえよ」
と佐藤と俺は答えた。
テレビもない、クーラーもない、不便なテントで眠ることに価値があった。『あんなこともあった』と言える最高の宿泊施設だった。
ノックはなかったと思う。そんな暇はなかったと思う。
「私たち今から着替えるから、あんたたちも早く準備してよね」
テントのジップを開けて、結菜が顔を出してそう言うと、俺と佐藤は同時に体を起こした。
なんだ、佐藤も起きていたのか。まあ、こんな環境では眠っていられないよな。疲れは残っていたが、それが心にエネルギーをくれていた。
「イテテテッ。スゲー筋肉痛……。やったな俺たち、ハハハッ」
佐藤も充実感であふれていた。
「まるで『杉山見習い部』の合宿みたいだな」
と俺が言うと、
「わかっているって。さあ、行こうぜ」
と言って、佐藤はテントから出て行く。きっと佐藤は、最初からそのつもりだったのだろう。三上を『杉山見習い部』に勧誘するのだ。
夏の、海を、独占した。望月様と工藤様はもちろん、木村様たちの姿もなかった。
三上は佐藤の指導力もあって、フォームはぎこちないが10mほど泳げるようになっていた。あとは、息継ぎさえ覚えれば、泳げるようになれる。
結菜と美樹と俺は、打ち寄せる波に身を任せて流され、口や鼻に海水が思いっきり入ったりしながら、ボディサーフィンのように楽しんだ。
もしかしたら、波の流れが奇跡を起こすかもしれないと最初は期待していたが、そんな邪心は瞬く間に洗濯された。結菜と美樹の笑い声が、俺に純情さを与えていた。
ひとしきり泳いだ後は、段々と明るくなる空を眺めながら、俺たちはプカーッと海の上に並んで浮かんだ。たまに三上が波を飲んで、苦しそうにしていたが、それが良いアクセントになっていた。
こんな時間が続けばいいのに、と思う時間は続いてはくれない。さてと、そろそろ朝食の支度の時間だ。
今朝は、三上がフロント係を担当することになり、とても危険な役目を担うことになった。望月様と工藤様が、朝食を食べに部屋からロビーに降りて来なかった場合、内線で起こさないといけないのだ。どんなに言葉を選んで起こしても、相当な剣幕で怒られることは明白だった。
「三上友里、行って参ります」
まるで戦地の最前線に向かう兵士のように、三上は覚悟を決めてフロントに入って行った。俺たちは『無事戻って来られますように』と祈りながら、その背中を見送った。
昨日よりは、支配人の調理を手伝うスピードが早くなっていた。支配人の指示に素早く体が反応するようになっていたし、俺たちの連携も向上していた。
「結菜、どんどん入れていいよ」
「オッケー!」
結菜が素早くご飯をよそうと、美樹がその上に鮑のあんかけを入れていく。今朝の朝食では、この鮑のあんかけご飯と、伊勢海老とハマグリの味噌汁が食べ放題となっていた。
俺が鮑のあんかけご飯をお盆にのせていると、空の食器を佐藤が山ほど下げて来て、
「正、それ持って行く時、味噌汁のおかわり5杯くらい頼まれると思うけど、今、俺が頼まれた分と一緒に持って行くから。正は、それをどんどん運んでくれ」
とお客様の食事状況を見て得た情報を、俺に教えてくれる。
「了解!」
俺は両手にお盆を持って、鮑のあんかけご飯を運ぶ。
嬉しかった。昨晩、支配人は俺たちに簡単な盛りつけも任せるようなことはしなかった。『アツアツ』のスタッフとして、少しは認めてくれたようだった。
問題は、三上のほうだった。もう間もなく朝食の時間が終わってしまう。その前に、望月様と工藤様に内線をしなければならない。
俺も佐藤も、配膳をしながら、三上のことを気にしていたが、三上は思わぬ行動に出た。フロントから出て、2階に上がって行ったのだ。電話ではなく、直接起こす。そのほうが、逆なでないで済むと判断したのだろう。三上は大人しい性格をしているが、逃げるよりは向かって行くほうを選ぶ、大胆な部分も持ち合わせていた。知識も豊富で、『杉山見習い部』にぜひ入ってほしい逸材だった。
しかし、勇気を出して突撃した三上は、無残に撃墜される。
「こんな朝早くに起こしに来るなんてバカじゃない!」
と望月様の怒鳴り声が、木村様たちがまだ食事をしているロビーまで聞こえてきてしまった。木村様たちの気分を害してしまったことに心を痛め、そしてそれは決して三上のせいではないことを知ってほしいと思っていると、
「こんなにおいしい朝食を食べにこないほうがバカなのよ! おかわりください!」
と木村様が言い、『本当にそうだわ』と他のお客様も笑って許してくれていた。
木村様はきっと“何でもおいしく食べる能力者”なのだろう。嫌な場面に遭遇しても、調味料をかけて、おいしく食べてしまうのだ。その食べっぷりも、とても素敵だった。
間もなく、不機嫌を全開にして、望月様と工藤様がロビーに姿を見せた。後から三上も、望月様と工藤様の物と思われる洗濯物を持って降りてくると、お風呂場の隣にあるコインランドリーに向かって行った。
俺は乾燥機で服が縮んだりしないことを祈った。
望月様と工藤様が、木村様たちに迷惑をかけないか心配だったが、支配人が作った朝食を一口食べると、
「ヤバッ!」
「こんなにおいしい朝ご飯、初めて!」
と女子高生らしい、あどけない表情に戻って、『アツアツ』自慢の料理を楽しんでくださった。
支配人が誰に料理を教わったのか、話をしてくれるまで聞くつもりはなかったが、深い愛情をもって教えられていたに違いないと、支配人の過去をちょっとだけ覗き見していた。
朝食後は、昼食の準備をするチームと、買い出しチームに別れることになった。結菜がまた買い出しに行かないで済むように、俺と佐藤が率先して買い出しに行こうとしたが、支配人は佐藤と結菜を選ぶ。
「しっかり、値切ってこいよ」
と言って、支配人は佐藤と結菜を送り出した。
「お任せください!」
2日連続で買い出しに行く結菜とは対照的に、佐藤のテンションは上がっていた。
そして、俺は今、美樹と三上と、支配人の指示を仰ぎながら、昼食に使用する大量の野菜の皮を剥いていた。
単調な作業を20分ほど続けたあたりで、俺はあることに気づいた。今、この『アツアツ』にいる男は、俺と支配人しかいない。もっと言えば、セックスができる男は俺しかいなかった。もちろん、経験はないが、性欲は至って旺盛だから問題ないだろう。
「友里も正も、手が止まっているよ」
「ごめん、ごめん」
「ごめんなさい」
美樹に注意され、恐ろしくハーレム的な状況下にいることを、俺は頭から振り払おうとするが、なかなか上手くいかない。あれっ? 今、美樹が、『正』って呼ばなかったか?
「正、また手が止まっているよ!」
美樹が、『こつん』と優しく俺の頭を叩く。
「こんな時のために、後で結菜に蹴り方を習っておこうかな。エヘへッ」
美樹はそう言って、舌を出して笑う。かわいい。『正』って呼ばれて、何だかドキッとした。蹴り方は、ぜひとも習わないでほしい。
『夕食の量を増やしてほしい』という、木村様からのオーダーがあったそうで、結菜と佐藤は2人で合わせて100kgをゆうに超える食材を抱えて戻って来た。
昨日の佐藤を見習って、ヘトヘトの2人に水を差しだそうとしたが、先に動いたのは三上のほうだった。
「はい。疲れたでしょ」
「おお、サンキュー」
「ありがとう」
結菜と佐藤は水を一気飲みする。
「クーッ、うまい!」
「最高!」
苦難を分かち合った結菜と佐藤が笑みを交わす。
「痛ッ」
俺は先ほどよりも強めに美樹に叩かれる。
「もう、正、さっきからサボりすぎ!」
「ご、ごめん」
結菜の前で、美樹に『正』と呼ばれると変な感じがした。一瞬だけ、結菜が戸惑った表情を見せたような気がしたが、
「佐藤の値切り凄かったんだよ」
と普段通りに喋っていた。
三上の手はまだ止まったままだった。
「おかわりください!」
「私も!」
「あっ、こっちも、テーブルの全員分ください!」
プライベートビーチでひと泳ぎした効果もあってか、あれだけガッツリと朝食を食べたことが嘘のように、木村様たちはとんかつをメインとした昼食を、猛烈な勢いでお召し上がりになった。
望月様と工藤様は昼食付きのプランではなかったので、外に食べに行かれていた。
怒涛の忙しさだったが、平和な時間が流れていた。そんな余裕もあったこともあり、俺は美樹のことを何度からチラ見していた。
ひと休みする間もなく、昼食の後は、お風呂場の掃除とトイレ掃除を済ませた。
そして、昼食から2時間ほど経った15時になると、今度はおやつの時間となった。
支配人が作った特製オレンジパンケーキを、木村様たちがややゆっくりとお召し上がりになった。とは言っても、常人の食べるスピードに比べたら何倍も早い。
昼食から戻って来た望月様と工藤様も、
「私たちにも食べさせなさいよ! どんな味だったのか気になって、眠れなくなったらどうしてくれるのよ!」
と言って、通常の宿泊プランにはついていないのに、支配人からのサービスということで特製オレンジパンケーキを黙々と2枚も食べていた。
支配人の料理は、望月様と工藤様を静かにしてくれるからいい。
おやつの時間が終わると、ようやくお昼休憩の時間となった。15分だけだったが……。それでも、不満はまったく湧いてこなかった。充実感が心の中を牛耳っていた。
「ちょっと、オレンジジュースでも持って来て!」
「あっ、私の分もね!」
ロビーでくつろいでいた望月様と工藤様の声が聞こえてくる。オレンジジュースは苦手だと言っていたが、先ほどの特製パンケーキを食べて、オレンジのおいしさに目覚めたのかもしれない。
先に食べ終わっていた俺が、氷を少なめにしてオレンジジュースをグラスに注ぐ。皆は、平然とまかないを食べていた。望月様と工藤様のわがままが、俺たちを強くしていた。
また美樹と目が合った。意識しないようにしようとすればするほど、美樹と目が合った。
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