第33話 どうしても

「お前が悪いんだからな」

「そうよ。全て、落合が悪いのよ。政治家のスキャンダルが絶えないことも、戦争がなくならないことも、記録的な大雨が増えたのも、全て落合が悪いのよ」

 佐藤と結菜が、目を覚ました俺を見下してそう言った。

「俺と結菜付き合うことにしたから」

「佐藤は、落合と違って行動が早かったわよ」

「つまり、俺たちもう、そういう関係だから。正、悪いな」

「どうして俊が謝るの? 悪いのは落合なんだから。落合が、落合が、落合が……」

「痛ッ」

 頭を殴られ、夢から覚める。

「やっと起きた。さっきから、落合、落合、落合って何回呼ばせるのよ! まったく! 早くご飯食べるわよ。美樹から電話があって、もう少しでタクシーが迎えに来てくれるみたいだから」

 本当に目を覚ましたら、結菜の顔が目と鼻の先にあった。朝立ちを萎えさせた夢と、殴られたことは別として、人生最高の目覚め方だった。雨はすっかり止んでいて、柔らかい日差しが射しこんでいた。


 ダイニングテールブルには、ツナの和風パスタが用意されていた。

「結菜が作ってくれたの?」

「ハハハッ。他に誰が作るのよ。これくらいなら、材料使っても許してもらえるでしょ。さあ、食べよう。いただき……」

「あっ、ちょっと待って!」

 俺はスマホを取り出す。よかった、まだ充電が残っていた。『カシャッ、カシャッ』と結菜が作ってくれたツナの和風パスタの写真を角度を変えて何枚も撮った。

「ちょっと、撮りすぎでしょ! 大した料理じゃないんだから、やめてよねえ」

「結菜も撮るよ!」

 俺はスマホのカメラレンズを結菜に向ける。

「はあ? 髪だってちゃんと、とかしていないのよ」

「それがいいんだって。いくよ」

「仕方ないな。ちょっと待って……」

 結菜は立ち上がると、手で髪を軽くとかしながら、俺の隣に座った。

「いいよ!」

「お、おう」

 俺は手が震えそうになるのを必死に堪えて、結菜と2人で自撮りした。

「さあ、食べましょう。食べましょう」

 結菜が自分の席に戻ると、俺たちは手を合わせて、

「いただきます!」

と声を合わせて、ツナの和風パスタを頬張る。空っぽだった胃袋に幸せが染み渡る。

「スゲー、旨い!」

「よかった! 少し不安だったんだ」

 結菜がそう言って笑うと、俺はもう我慢ができなかった。財布の内ポケットから、コンドームを取り出して、テーブルの真ん中に置いた。


「俺、ちゃんと持っているよ」

「はあ? どうして食事中のテーブルにこんなのを置けるわけ? 信じられない」

「結菜のことが好きだから」

「はい、はい、わかりました。冗談言っていないで、早く食べなさいよ。タクシー来ちゃうわよ」

「俺、多分、早いほうだから、まだ間に合うんじゃないかな」

「何のカミングアウトをしているのよ! バカじゃないのっていうか、バカなのか。うん、落合だものね……」

 結菜は立ち上がると、冷蔵庫からコーラを取り出そうとするが、それはもうなかった。俺が全部飲んでいたのだ。

「なんか、昨日、ムラムラしちゃって……」

「落合の変態! 私に触っていたりしていないでしょうねえ?」

 殺される。ここで冗談でも、認めてしまったら、俺はミステリードラマの脇役のように、山あいの別荘であっけなく殺されてしまう。

「俺がそんなことすると思うか?」

「そうよね……。まったく、どうしてこんなにも落合は落合なのよ」

 結菜はまた昨日と同じように意味不明な発言をする。

「あのさ、起きた時から言おうかと思っていたんだけどさ……」

「もう喋らないで!」

「いや、タクシーが来る前に言っておくけど、Tシャツから乳首が浮き出てるよ」

 結菜は慌てて確認する。

「嘘! 私、シャワー浴びて……。下着、乾燥機に入れたまま……」

 マジか? ノーブラだけではなくて、今、結菜はノーパンなのか? 俺は危うく生唾を飲みそうになった。そんなことしようものなら、やはり殺されてしまう。

「もう、何でもっと早く教えないのよ!」

「そんな男、この世の中にいないいない。痛ッ!」

 結菜は、俺の顔面を殴ると、駆け足で浴室に向かって行く。ノーブラで、結菜のおっぱいが激しく揺れていた。俺は殴られるその瞬間まで目を閉じることはしなかった。

 今がチャンスだ。結菜がさっき撮った写真のことを思い出さないうちに、俺は画像を安全な場所に保存する。


 結菜は下着をつけて戻って来ると、

「忘れないうちに、しておかなきゃ。ねえ、落合、キスしてよ」

と言って、俺の隣に座る。

「はあ? 何言ってんだよ。俺、歯も磨いていないんだぞ」

「男のくせに細かいわね。口、ゆすいでくればいいでしょ。マウスウォッシュあったから使ってきなよ。ほら、早く!」

 結菜にデコピンされて、俺は渋々、洗面所に向かう。


「ガラガラガラ~ペッ!」

 俺をからかっていることは百も承知していたが、マナーなので一応うがいはする。どうせ、この隙に俺の分のパスタにタバスコでも忍ばせているのだろう。ノーブラであることを教えなかった仕返しに。


 ダイニングに戻ると、変化に気づくと申し訳ないので、パスタを見ないようにして席に座った。結菜はまだ隣に座っている。俺のリアクションを間近で見るつもりだ。

「はいこれ」

 結菜はマスカット味のガムを俺に渡す。

「さっさと食べてよ」

「あ、ああ……」

 よく見ると、結菜もガムを噛んでいたので、俺も言われるがままにガムを口に入れる。

「ほ、本気なのか? キスのこと……」

「もちろん。どうしても、しておきたいのよ」

「どうして?」

「どうして、ですって? 逆に私が聞きたいわよ。こんなものテーブルに出して、落合は私とセックスしようとしたのよ。なのに、どうしてキスができないわけ?」

 ああ、わかった。もう、うるさい。

 結菜が黙った。俺はキスというものをしてみた。これで間違っていないのだろうか。結菜の柔らかい唇の感触が伝わって来た。

 どれくらいで唇を離すのがベストなのだ? 俺がわからないでいると、『ピーッ!』とタクシーのクラクションが鳴った。俺と結菜は驚いて唇を離す。

「や、やればできるじゃない。でも、今の長くなかった?」

「そうかな。俺はいつもこんな感じだけど」

 もちろん、ファーストキスだった。

 今日も頑張って働けそうだ。


 『アツアツ』に戻ると、かなり後発になってしまった俺と結菜を、先発チームが外まで出迎えてくれて、

「結菜、大丈夫だった? 正に何かされなかった?」

「落合君、田中さんが寝ている隙に、体触ったりしていないでしょうね?」

「正、俺の目を見て答えろ」

と予想通り、俺は悪役になっていた。悪いのは雨なのに……。

「大丈夫。何もされていないから」

 結菜が俺の潔白を証明してくれると、

「だよな。だいたい、正がゆいぴーに手を出せるわけがないって」

「そうよね。結菜に返り討ちにあって、ケガするのがオチだもん」

「落合君が無事なら、田中さんも何もされていないってことになるわね」

「キスはしたけどな」

 俺は正直に話したが、皆、スルーして、結菜を中に連れて行く。

「三上さん、泳ぐ練習やめたんだね。ごめん」

「気にしないで。私、もう平気だから」

「仕事が終わったら、ひと泳ぎしてから帰ろうぜ」

「そうしよう! やっぱり皆で泳いだほうが楽しいもん」

 俺は究極のアンパイなのか? 誰も本気で俺を疑ってはくれない。心配よりも安堵のほうが遥かに勝っていた。男として、かなり問題がある気がする。

 どうやったらオオカミに変身できるのだろう。いつかオオカミ男に会うことがあったら、しっかり伝授してもらおう。


「佐藤、これ」

 俺は別荘の鍵を、佐藤に投げる。確かに戸締りは寂しい気がした。結菜と初めてキスした場所になったから、尚更だった。

「サンキュー。雨戸も閉めてくれた?」

「ああ、全部閉めたよ。片付けもちゃんと、あっ……」

「どうした?」

 俺の反応を見て、結菜が駆け寄って来る。

「落合、まさかだけど、そんなことないよね……」

 俺は、佐藤のおじさんのダイニングテーブルに大きな忘れ物をしてしまった。

「アハハハッ……」

「あんたって奴は……」

 結菜は頭を抱えて呆れている。

「結菜、正、どうかしたの?」

 美樹が心配そうに様子を窺っている。

「いや、コーラのペットボトル、捨てるの忘れてしまったみたいで……」

「何だそんなことか。平気、平気。来週はおばさんが遊びに来るって言っていたから、前もって言っておくよ。気にすんなって」

 なかったことにしよう。知らぬ存ぜぬで押し通すしかない。佐藤のおばさんだって、風に乗って、コンドームがダイニングテーブルまで運ばれて来たと思うかもしれないじゃないか。

 案の定、『アツアツ』のエントランスからロビーに曲がる死角で、俺は結菜の跳び回し蹴りを食らった。

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