第8話 ノーリスク

「へぇー、クビになったけど、また働かせてもらえるんだ」

「田中のおかげだよ」

  登校中、パン屋の『南かぜ風』に寄ってみたら、田中と出くわした。母さんが炊飯器のスイッチを入れ忘れてくれたおかげだ。

 田中は俺と同じように朝食を食べ損ねていたらしく、あっというまにポテトサラダドッグを完食する。そういば、田中の家はどこら辺なんだろう。

「結菜でいいよ」

「えっ? ゴホッゴホッ」

 危うくポテトサラダドッグが喉に詰まるところだった。

「友達でしょ。結菜って呼んでよ。ほら、呼んでみてよ」

「べつに、今、呼ぶ必要ないし……」

「照れるなって」

 田中がほっぺたを指でつついてくる。

「や、やめろよ、結菜」

「はあ、何、今の。不自然過ぎて、気持ち悪い」

 結菜がドン引ひきした表情を見せる。俺自身、気持ち悪い奴だなと思った。

 結局、6回も『気持ち悪い』と言われ、一度も自然に結菜と呼ぶことができないまま学校に着いてしまった。


 教室に入って席に着くと、

「おはよう。結菜」

 と薫と綾と美樹が、結菜の席に集まって来る。

「金曜は、遅くまで付き合わせちゃってごめんね」

「今度は、結菜の歌も聞かせてよね」

「本当はすっごく上手なんじゃないのー」

「そんなわけないって。本当にヘタなの」

 なんだかすっかり溶け込んでいる。

「おっ、ゆいぴー、おはよう!」

 佐藤が登校してくると、

「これ、ありがとう」

 と言って、借りていた浴衣が入った紙袋を、結菜が佐藤に渡す。

「ゆいぴーがこれを着た写真を見せたらさ、おふくろがすごい喜んでくれてさ。サンキューな!」

 自然だ。浴衣を貸して、ごく自然に逆にありがとうと言いやがった。それに、『ゆいぴー』だと! 俺はまだまともに、結菜とさえ呼べていないのに。ああ、佐藤の能力が羨ましすぎる……。

「それより、lineで俺のおはようスルーしないでくれよなー」

 佐藤が肘で結菜の腕を突く。

「あっ、そうだ。隣のクラスに、結菜を紹介したい子がいるんだ。行こう」

 美樹がそう言うと、

「うん」

と言って、結菜が席を立ち、佐藤から逃げるように教室から出て行った。美樹、ありがとう!

 って喜んでいる場合じゃない! そう言えば、俺だけ結菜とline交換できてないじゃないか! うちの学校はlineでグループを作るのを禁止されているから、直に交換するしかない。ううー、今思えば、今朝なんて最大のチャンスだったのに……。俺って奴は、いつも30分前の自分を憎んでいるような気がする。


 この日の杉山はスカートコーデだった。きっと、週末にやりまくって、彼氏と仲直りしたんだろう。この日の杉山はご機嫌で、帰りのホームルームでは、

「落合、今日は随分と授業に集中していたと、岡田先生と栗山先生が褒めていたぞ。まあ、今までがあまりにもボケーっとしていたから、余計にそう見えたんだろうな。ウハハハッ」

と愉快そうに言っていた。

 確かに、今までは空をぼんやり見ながら、茜さんのことを考えていた。でも、今は、結菜に良いところを見せたくて、懸命に勉学に励んでいる。

 杉山の幸せが俺にうつったのか、ホームルームが終わると、

「落合、『南かぜ風』に寄って帰ろう」

と結菜が誘ってくれた。

「いいね、行こうぜ。ゆいぴーも、もうすっかり渚町っ子だね」

 俺より先に佐藤が返事する。

「佐藤、また明日ね。落合、ほら、早く行くよ!」

 結菜が俺の手を握って引っ張る。

「し、しかたないな。付き合ってあげるよ」

 よっしゃーーー! line交換する千載一遇の大チャンス来たーーー!

「佐藤、また明日な」

「お、おう。正、また明日」

スルーされた佐藤に別れを告げると、俺はできるだけ無愛想に結菜について行った。


 幸せな時間は短い。校門を過ぎると、

「いつまで握っているのよ!」

と言って、結菜が俺の手を振り払った。

「えっ?」

「美樹ちゃんがlineで教えてくれたのよ」

「そうそう、結菜、俺もline交換……」

「佐藤君には近づかないほうがいいって」

「えっ、どうして、美樹が結菜にそんなことを……。佐藤はあんな感じだけど、良い奴だぜ」

「わかっているわよ。だから、問題なのよ」

「何が? 痛っ!」

 結菜は歩きながら器用に、俺の太ももを蹴った。この暴力的な面は、付き合うようになったら徐々に改善してもらおう。

「本当に鈍いわね。何も気づかなかったの?」

「だから、何が!」

「薫ちゃんが、佐藤君のこと好きなのよ。だから、美樹ちゃんが忠告してくれたのよ。佐藤君と仲良くすると危ないって。女子はそういうところ敏感だからね」

「マジで? 薫が佐藤のことを?」

 結菜が力強く頷く。

「綾も知っているのか?」

「もちろん、綾ちゃんも知っているよ。だって、クラス中の女子が知っているんだもの」

「薫が佐藤のことを好き……。クラス中の女子が知っている……。だから、近づくと危険……」

 知らなかった。でも、問題はそこではない。

「でも、ちょっと待てよ。俺とは一緒に手をつないで帰っても大丈夫なのか?」

「落合はアンパイらしいわよ」

 結菜が悪戯っぽく笑う。

 そ、そんな……。薄々は感じていたが、リアルにクラスの女子に相手にされていなかったのか……。

「元気だしなって。『南かぜ風』でおいしいパンを買ってあげるからね」

 結菜が俺の頭を撫でてくれる。

「それとも、ピザの食べ放題にする?」

「いや、今日は帰るよ。明日から、またバイトあるし……」

「そう……。まあ、落合には落合の良いところがあるからさ、佐藤と競う必要はないって」

「わ、わかってるって。俺だって、渚高の女子から告白されたことあるんだぜ」

「……すごいね」

 しまった。嘘をついた上に、まだ癒えていない結菜の傷に触れてしまった。

「あっ、わたしこっちだから、また明日ね。元気だしなよ」

 結菜は俺の背中をポンポンと叩くと、笑顔を浮かべてから、小走りで帰って行った。


「お兄ちゃん、ご飯できたってよ。キャッ、何してるのよ……」

 ノックもしないでドアを開けて俺の部屋に入って来た楓が見たものは、しびれを必死に耐え土下座を続けている兄の姿だった。

「やらかしたのね」

 この姿を見れば、誰だってそう思うだろう。

「あーあ、可哀想に……」

 そうだ。実に残念な男だ。

「結菜さん、部屋で号泣してるわ」

「えっ、お前、やっぱり見えるのか?」

「今日はご飯抜きでいいわよね」

 楓はそう言って俺を見下すと、ドアを閉めて出て行き、

「お兄ちゃん、勉強に集中したいから、絶対に部屋を開けないでって!」

と大きな声で母さんと俺に向かって言った。わかっているさ。ずっと土下座を続けるよ。だって、結菜が泣いているんだろう。

 そもそも、俺は結菜のことが好きなんだ。だから、クラスの女子に相手にされてなくても凹む必要がなかったじゃないか。しかも、その好きな相手と一緒に帰っている時に!

 ああ、せめてlineで少しでも早く謝ることができたらな……。


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