経験論

 残照はいまだ消えず。

地平で執念深く光を放っている。

「精神世界の死はリアルの死と言ってもいいと思う?」

少女は問う。


「リアルの死じゃなくて、それは無気力な生になるだけだと思う」

「肉体は器に過ぎず、器に注がれた魂によって人間は規定される」

中身に固執し過ぎているのではないか。

そう思えてならない。


「肉体的満足を得られないから、精神的幸福にこだわるのでしょ?」

口をパクパクさせるけれど、言語化されない。

無音の抗議。


「肉体から解き放たれても、精神に縛り付けられている。それって幸せなの?」

「それなら……私に肉体的な生の実感を教えてよ!」

彼女が消えた。

いや、消えてなんていない。


 産毛を撫でるような悪寒が背筋を這いずり回る。

目は自然と見開き、極度な緊張をもたらす。


 彼女は後ろにいる。

瞬間的に振り向き、左手を伸ばす。

その手に捕らえられたのは、ナイフが握られた少女の右手。


「なんで後ろにいるってわかったの?」

「私は知ってるの。過去にあったことならね。違う事例でも、経験則として知識となる」

少女は理解できていない。

それもそうだろう。


 セナさんが経験した。

私は見た。

だから経験として知っている。

それだけのことなのだから。


「うるさい!」

細腕のどこにそんな力があるのか、左手から彼女の腕がすり抜けた。

「経験は知識とは言えない。不適切な成功体験が、間違った経験則を生み出す」


 彼女は再び姿を消した。

けれどどこにいるかは推測ができる。

見えない背後からの攻撃が一番有効だけれども、それが見抜かれてた。

それなら裏をかいて正面から来る。


 右手にいつの間にか握られていたナイフを、正面にそっと突き出した。

彼女が具現した。

飛び散る鮮血。

ナイフは心臓を捉えていた。


「さっきの発言は正しいね。あなたは失敗経験から、背後じゃなくて正面に現れた。私にはそれが予測できた。一つの出来事から、二つの経験則が生まれて、私は正しい方を選びとった」

少女の顔が青白くなっていく。

目はこちらを見ているが、焦点は合っていない。


「経験の知識化には経験を必要とする」

消え入りそうな声で言った。

「そういうことだよ」

少女は薄くなり、そして消えた。

彼女にとっての夢は覚めたようだ。


 精神世界の充実を図った少女が、実体を伴った経験のない私に敗れた。

結局彼女と私は、同類だったような気がしてならない。

実体験がないという意味では、どちらも大差がない。

わずかな実体験の差で、私が勝っていたというだけだ。


******


 なぜだろう。

私は負けたのに、不思議と満たされた心地がする。

暗くて退屈な病室に戻ってきたのに、心の奥底から湧き上がる高揚感が、まったく収まる気配がない。


 ナイフが心臓を貫いた瞬間、生の奔流が全身を駆け巡ったような気がした。

夢の中とはいえ、殺されたはずなのに。

血が流れ続け、息をするのも苦しくなり、苦痛で痛覚がショートしそうだった。

でもそれらひとつひとつが、「自分は生きている」という実感を肉体的に、直接的に伝わった。

あまりにも暴力的な死の先鋭が、これでもかとばかりに生を味合わせた。


 どういうことだろう。

殺されたのに、生を実感している。

生死は対局ではなく、同一のステージということか。

それとも生の実感の渇望が、ナイフによって浸透してきた死に、それを見出したのか。

そこまではわからない。


 あれほど鮮烈な‘生’をまた味わいたい。

けれどもう無理だろう。

どのような味か知ってしまったのだから。


 無知ゆえの喜びというものがある。

初めて見た、聞いたからこそ、味わえる感動というものがある。

また死を体験しても、あのような鮮烈で感動的なものは二度とない。


 それでもあの喜びを胸に、残りの無為な人生を送れるのなら、それもいいだろう。

徹底的な敗北と、閃光のような生死を冥途の土産にできるのなら。

精一杯の満足を抱えて、そっと目を閉じた。


3章 終

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