世界を夢見る
星々のドラスティックな劇場を覆い隠す白い天井。
具現した退屈の鑑賞に特化した、ふかふかのベッド。
そして体の動かない少女。
それがこの病室の風景である。
「君は中島あかりだね?」
「夜中に誰です? ここに人が来たのは看護師と家族以外で、324日ぶりのことだから、びっくりしましたよ」
言葉とは裏腹に、表情はまったく変わっていない。
そこに動揺や恐怖など存在していない。
「それは失礼した。私はクレイグ・ハックマンだ。君は足が動かない、やがては心臓の筋肉まで硬直してしまう。そうだね?」
あかりはハックマンを見ることなく無言でうなずく。
「長い間ずっとここで、多くが経験することも自分にはできない」
「ただ朽ちていくだけ。無為な死が口を開けて待っている。待っていれば親が食事を運んでくる雛のように」
そのようなことは何十回、何百回も思考し、同じ結論にたどり着いていると言いたげである。
「私には君を歩けるようにはできない。けれど、疑似的な感覚なら味わうことならできる」
あかりがハックマンを見た。
じっと、瞬きもせずに、そこにあるすべてを理解し吸収しようとするかのように。
「君を夢の中で動けるようにする。代わりにある人物を仕留めて欲しい」
「夢での死は現実の死ではない」
「その言葉が嘘になる、そんな魔法を君に与えるのだよ。ただし君自身は死ぬことはない」
つまらなさそうな目でハックマンを見つめる。
「ずいぶんと不平等ね」
「みんなの財布の中は平等か?」
「そんなものか……じゃあその魔法、私にちょうだい?」
ハックマンはあかりの手を取り、何か一言呟いた。
たったそれだけのことである。
******
テレビに映っているのは、椅子に座らされた男と、それを取り囲む無数の人たち。
テーブルに無造作に置かれたDVDのケース。
映画はクライマックスを迎えている。
セナさんは動くという行為を忘れたかのように、ソファーに腰かけて微動だにせずに、画面を見つめている。
「もう5時間ぐらいになるよ。よくそんな長時間も見てられるな」
レナさんの指摘通り、彼女は5時間も映画を見ている。
ねこうさぎはレナさんの膝の上で、すやすやと眠っている。
ここだけ時間が限りなく緩やかに流れているようだ。
「私はもう寝ますね」
「あいよ」
レナさんが不愛想に答えた。
自室に着くとすぐにうさぎ柄のパジャマに着替え、ベッドへ華麗に無駄のない動きで飛び込んだ。
クッションのたわみが深い海となり、私を深淵に誘い、そして安息の衣が体を包み込む。
ベッドへの同化。
深淵への埋没。
眠りに落ちる一瞬は、生死の境界。
生きているか死んでいるかわからない。
境界線が融解する。
この世とあの世の混ざり合う瞬間。
たそがれ時、初めての日の夕日。
陽は落ちた。
いつごろからかわからない。
それは気づけばあった。
どこまでも延びている、先が見えない道路。
道路の左右に広がる住宅街。
こちらも果てがなくどこまでも続いている。
永遠の具現化そのものだ。
道路の先には、沈みゆく夕日が最後の残照を放っている。
この日1日への名残と未練のように、明々と道路や屋根をオレンジに染め上げる。
オレンジの道に一歩を踏み出してみる。
歩いている実感のない、ふわふわした心地。
自分はいまどこを歩いているんだろう。
足が地面に着く前に、神の手が自分の足を支えているような、そんな僭越な気分にさせる。
虚構の概念を歩いている。
このような表現の方がよいだろう。
違和だ。
違和を感じる。
明らかにおかしいものを経験した。
地を踏みしめる感覚のない一歩に対し、意識が明瞭すぎる。
夢という自らの意思の及ばない空間において、これほどまでにはっきりと思考している。
そもそも夢を見ながら、これを夢だと認識できている。
虚構の空間であるのに、リアリズムが確固たる地位を示している。
道の先から何かが近づいてくる。
最初は黒い点、そして人型。
やがてそれは女性だとわかる。
近づくという行為が成長の暗喩をしているようだ。
その女性は白のワンピースという、簡素にもほどがある格好をしている。
麦わら帽をかぶせれば、初夏の一本道のバス停に、佇んでいるのがよく似合う。
純朴や牧歌が人の姿をしている。
そのようなタイプの女性だ。
すらりと伸びた、というよりほっそりとした体のライン。
体に似てか、顔のパーツは控え目で主張はしていない。
それでいてまとまった顔立ちで、きちんと見た者にはその可憐さがわかる。
「こんにちは」
か細いけれどきれいな声。
見た目を裏切らない、というよりそのままな声をしている。
小川のせせらぎ、風にそよぐ苗という例えが適切だろうか。
「ねえ、死ぬって怖い?」
当然怖いに決まってる。
私はこくりとうなずいた。
「それは充実した生があるってことだよね。絶望的な生は、希望的な死をもたらす」
「その死はしょせん逃避に過ぎず、希望ではない」
少女は笑う。
目が垂れ下がり、くすくすと控え目に笑う。
「いかなる場においても死は絶望、そう言いたいのよね?」
「うん」
「生きている間に何も為さなかった、その生に意味を感じなかった者にその言葉に意味があるとは思わない」
発言の意図がわからない。
「1日、1か月、1年を病室から動けない人間に、生の実感なんてないんだよ。ただそこに在るだけで、それは生ではない」
この女性は病人なのか。
例えにしては妙なリアルさを感じる。
「物体として存在するだけで、死ぬことは石が蹴られて別のところに転がるだけのこと。何も意味はないし、何も生み出さない」
「あなたは
いい質問と言わんばかりに口角を上げた。
「個人レベルの生死に関してはその通り。でも私は‘世界’を知らないから、それ以外のことに関しては何も言えないよ」
間違いなく彼女は病人、それも長期間入院している。
だからあのような例えができたし、今の発言もある。
全ては彼女の経験則だ。
「だからせめて夢という虚構の世界だけでも、自由に歩けるようにしてもらった」
「疑似では不満」
彼女は頭を2度縦に振った。
「身体的な自由を満たせないなら、知的な喜びを満たしたい」
「だから哲学的な問いをする」
「そう。だけど、擬似的な自由を頼まれごとのために行使しないといけないの」
それが約束だからと付け足した。
「私を殺す……そういうことなんだね」
「うん。でももう少し話したい」
少女は言う。
「生とはそこにあること? それとも生に実感を認識していること?」
「主観的世界観に基づくなら、自分が生きていると認識していること」
彼女は興味深そうに私を見つめる。
きらびやかに輝くダイヤを見るように、じっくりと色んな角度から見られている。
そのような心地にさせる。
「もしも幽霊がいるのなら、それが死んだことに気付かず、自分は生きていると思っていたらどうなるの?」
「その幽霊の世界では生きている。あくまで主観的世界観だから。客観的世界観では幽霊は死んでいる」
彼女がふむふむとうなずいている。
「あなたは主客を重んじるタイプなのね。世界とはひとつではない。ひとりひとりの中に世界はある。人の数だけ世界は存在する」
「内面的多次元世界」
「個々で完結した世界のみで、全体を合一した世界はないの?」
自分ひとりが既定するんじゃなくて、客観的な世界はないかという問いだろう。
「みんなが知識を共有すればいいの。私は生きている。あなたも私が生きていると認識すれば、少なくとも2人の世界では私は生きていることになる」
「共有を広げれば客観の世界になる。記憶の照合は存在の証明になる。全員が5分前から世界は存在したと思えば、それは各々にとっては事実となる。けれどしょせんは彼らが‘思っている’ことを共有したに過ぎない」
世界5分前仮説の話か。
記憶の曖昧性を衝いているのだろう。
主観を積み上げても、曖昧な記憶の集合体であることには変わりない。
そのことを指摘している。
「私たちは培養液に漬けられた脳かもしれない。勝手に自分は立って歩き、生活しているという妄想世界を見ているだけかもしれない。記憶はそれぐらい曖昧模糊としたものよ」
「私たちの体は生きていない。体が存在すると思い込んでいる」
彼女はその通りと言った。
「‘妄想の世界’でもあなたの体は不自由。妄想の妄想なんていう劇中劇で、やっと自由を手に入れたんだね」
精一杯の皮肉。
彼女には効いただろうか。
いや、苦笑している。
純粋に形而上の論議を楽しんでいる。
今までこんな話をする相手がいなかったのか。
「まったく、その通りだね。妄想の世界ぐらい快適でいたいのに、わざわざ不自由な体で鬱屈した日々を送るのはおかしいよね」
苦笑いは純粋な笑いへ昇華を見せた。
ただただ面白い。
横たわった生活の中で、自分の頭で自分と対話して人間を知った気になっていた。
そんな自分がやり込められる痛快劇。
彼女はそれを心底楽しんでいるように見える。
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