大義の前に小義は意味を成さず

 カバンは開かれた。

「出ておいで、食いしん坊さん!」

黒い球体が勢いよく飛び出した。

カバンの中身は深淵が広がり、球体も絶対的な虚無を表すように完全なる黒。


 獰猛なドールが動き出す。

豪奢なドレスを身にまとったそれらが、裸足で2人に襲いかかる。

神速を体現したような速さで、2人の1歩手前まで接近した。


「防御して!」

球体は縦に薄く同心円状に広がりを見せた。

それはさながら楯のように。

ドールは止まれない。

止まる間もなく、漆黒の楯に吸い込まれていく。


 消失。

先頭を行った3体のドールは世界から消えた。

物質でもアストラルでもない、完全なる無。


「今度はこっちの番だよ」

同心円の楯は収縮し、フリスビーのような見た目に変化した。

「処分してきて」

先ほどのドールに勝るとも劣らない速さで、狭い空間を飛翔する。


 1体のドールの下腹部にそれは触れた。

無音。

音もなく胴体を真っ二つに裂いた。

切ったのではない、消し去ったのだ。

上半身が盛大に音を立てて落下。

下半身は力なく、文字通り崩れ落ちた。


 狭い通路で黒いフリスビーが恐怖を振りまいていく。

避けることもできず、次々と崩れ落ちる。

1体は書架を蹴り上げ、上に逃げた。

体をひねり、華麗に着地。


 2人を見据え、床を蹴った。

それは風となり、セナの首に細腕を伸ばした。

食いしん坊さんを戻す間もない。

きたるは殺意。

視界いっぱいに広がるドールの端正な顔。


 唐突。

サラサラの髪が抜け落ち、ガラス玉の目が零れ落ち、整った顔が、細い腕が、スタイルのいい胴が、すらりと伸びた足が灰と化して、灰は目視できないものへと変貌していく。

進化の逆転。

原初への回帰。

物質はそのまとまりを失い、意味を成さない個となり、個は極限まで細分化される。


 ハックマンが魔法を行使したのだ。

触れたものをつながりを奪い、完全なる個にする魔法。


 ドールは全滅した。

‘2人’を除いて。

「手駒はすべて潰したよ。2人を返してもらえる?」

セナが迫る。

「すべて? 何を言ってるんだい?」

愚鈍な者とで言いたげな、侮蔑的な目線を送るパーテルマ。


「真理の探究のため、彼らを討ちなさい」

三角座りしていた少年少女のドールが立ち上がった。

「言ったではないか。精神は制御下にあると。精神の支配とは魂の支配に他ならない」

「外道が」

ドブに吐き捨てるようにハックマンが言った。


「そこまでだ!」

青天の霹靂。

2人は後ろを見た。

スーツに身を包んだ背の高い男と低いが2人立っている。

なんともアンバランスな光景である。


「パーテルマさん、万物流転論に基づいた実証実験の禁止はご存知ですね?」

野太い声が薄暗い声に響く。

「禁忌を犯したのみならず、生徒に対して攻撃とは……どういった了見をしているんです?」

男のわりに高い声がパーテルマを責める。


「ドールのほとんどが一掃された後から出てきた臆病者風情が、何を大層にルールを説いているんだね。攻撃された生徒を守る度胸もないのか」

2人は侮蔑への怒りなのか、事実を指摘された羞恥なのか、顔を赤くしてパーテルマから目を逸らした。

「現場を押さえるためだ! 君は以前から近隣住民の行方不明事件への関与も疑われている」

「しかし私には真理の探究の使命がある。ヴィリーくん、君はついてきなさい」


 彼はカーテンを、窓をがらりと開けた。

差し込む日差しは、研究室の陰惨な空気を打ち砕いていく。

陽光をバックに、1人と1体は窓から姿を消失した。

飛び降りて無傷で済む高さではない。

何かしらの魔法なりで対処するのだろう。


 問題は残された彼女だ。

魂を移し替えたパーテルマ本人にしか、元のあるべき姿には戻れない。

不可逆の状態。

「いつ彼の手駒として動くか分からない以上、ここで処分するのが妥当でしょう」

パーテルマがいなくなった途端、侮蔑された自尊心を取り戻そうとするように、背の高い男が言う。


 低い声がこれ以外に道がない、ひとつの道に縛り付けようとする呪縛を感じられる。

権威主義がスーツを着た男たち。

セナはそう感じた。


「彼女を殺すというのですか!」

烈火。

まさにその言葉が具現化したようなハックマン。

「危険因子の処分は当然でしょう。ではさっそく」

スーツの男2人が少女の前に出た。

無慈悲な死が罪なきリュシーに訪れる。

権威主義が彼女を殺す。


「待って!」

3人がレナを見る。

怪訝と驚きをパレットで混ぜた顔を向ける。

「彼女は私が殺す」

「そうか、好きにしろ」

背の高い男が言った。

「どういうことだよ!」

発言を理解できないハックマン。

冷淡と驚愕のコントラスト。


「友人として私が終わらせる。それともあなたがする?」

「好きな人を殺せるわけないだろ!」

至極まっとうな回答。

「ならリュシーの魂を肉体に戻してよ。できもしない絵空事を吠えるだけなら誰だってできるんだよ」

冷淡な事実。

しかし今の彼にそれを受け入れる余裕などない。


「食いしん坊さん!」

部屋の片隅に待機していた黒い球体が、セナの前にやってきた。

カバンから出てきたときよりも、心なしか少し大きくなっている。

球体はあっという間にドールを飲み込んだ。

リュシーはもういない。


 カバンに食いしん坊さんを戻すと、冷めた目でハックマンを見た。

憎悪と悲愴の織り交ぜたものを、彼の目というキャンパスに表現されている。

「女々しい彼氏に代わって、友人として彼女を楽にさせた。自分のできることをしたらどう?」

レナは部屋を出ていった。


「あの人は彼女と友人を失った。私は友人を失い、罪を得た。どっちが幸せなんだろうね」

独り言。

自分のできる最善の行為をしたつもり。

しかし最良の選択でも、結果がバッドだ。

誰も救われない、愛を引きかえに憎悪と罪悪を獲得した昔話。

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