根源より来たりし者

 薄暗くかび臭い日陰。

ビルの隙間。

自分のお尻を突っ込んだダンボール箱。

ねこうさぎ。

ピンクのカーディガンにボーダー柄のワンピース。

60デニールぐらいのタイツにブーツ。

それが最初に認識したものたち。


 肌を刺す冷たい風がビルを抜ける。

「寒い…」

冬だろうか。

よくわからないけれど、服が冬の装いでありがたい。

自分と同じくダンボールにいるねこうさぎは、小さな体をぷるぷると震わせている。

お尻しかダンボールに収まっていない自分を見て、きちんと収まっているねこうさぎを少しうらやましく思った。

「私より風に当たってないんだから、少し我慢してね」


 彼女は天を仰いだ。

暗い暗い地上から、傾いた太陽が照らす世界を見る。

混沌の世界とは全く違う。


 混沌の世界?

自分はどこから来たの?

そもそも名前は?

わからない。


 とりあえず立ち上がって周りを見る。

ビルの狭間、袋小路、通り。

足元をねこうさぎがもそもそしている。

「通りに出てみようよ」

子どもっぽい、高い声でねこうさぎが言う。

「そうだね」

夕景を見せる通りへと歩き出す。


 通りの左右を確認する。

なんも変哲の無い住宅街。

理由はない、右へと歩を進めた。


「見られてる」

ねこうさぎがぼそりと言う。

下品になめ回すような視線。

好意的でない、虎視眈々としたものを感じる。


 正面の電柱に何かいる。

何かがふらりと姿を見せた。

生気のない目をした人間…いや人じゃない。

マネキンだ!


 こちらへにじり寄るマネキン。

「僕がなんとかするの!」

4本足で颯爽と駆け出すねこうさぎ。

後ろ足で地を蹴り上げ、マネキンの右腕に食らいつく。

マネキンが腕を振り払い、ねこうさぎはアスファルトに叩きつけられた。


「大丈夫!?」

よろよろと立ち上がろうとするねこうさぎに駆け寄った。

ケガはしていない。

「あれの腕、一部だけど消してやったよ」


 マネキンの右腕を見ると、噛みついた箇所がぽっかりと消えている。

食いちぎったとか、そういう風に見えない。

最初から存在しなかったかのように、抜け落ちている。

「僕は存在を『食べちゃう』んだ」

鼻を自慢げにひくひくさせている。


 マネキンはなおもこちらに近づいている。

腕の一部を消した程度では止まらない。

「ここから逃げなきゃ」

踵を返して、走り出そうとした。


 走り出そうとした、その視線の先に悠然と、かつ確かな足取りで女性が1人歩いてくる。

20代前半ぐらいだろうか。

毛先を巻いた明るい茶髪で、トップスはピンクのニット、ボトムスは花柄の淡いピンクのショートパンツ、猫の顔が描かれたバッグに、ニーハイブーツ。

おおよそ戦いに来た服装ではない。


「大丈夫? ケガはない?」

腰を少し落として言った。

優しい声音で私たちに声をかける。

「だ、大丈夫…です」

「あとは任せてね」


 不敵な笑みを残して、私たちに背中を見せる。

「出番だよ、食いしん坊さん!」

猫柄のバッグを開いた。

バッグから目も鼻も口も手足もない、黒い大きな異形が姿を現した。


 形を例えて言うなら、火の玉のような化け物。

それ以外に形容しようがない。

頭は見えるけれど、しっぽは見えない。

バッグの中に納まっている。

そもそも小さなバッグに、こんな大きなものが入るわけがない。

いわば物理的に間違った存在。


『食いしん坊さん』が地面すれすれを駆ける。

しっぽはいまだ見えない。

一瞬にしてマネキンの目の前に到達した。

と思えば、マネキンが消失した。

それが触れた瞬間、この世から失われてしまった。


「触れたものはなんでも消しちゃう、それがうちの『食いしん坊さん』。悪食しちゃうんだけどね」

彼女は頬にえくぼを作って笑みを浮かべた。

夕日がそれをもっとまぶしいものにする。


 そういえば、彼女の名前を聞いていない。

「私の名前言ってなかったね」

心を読んだかのように言う。

「私は安達瀬奈あだち せな。セナって呼んでね」

無言でうなづく。

「あなたの名前は?」

「な、名前は…」


 自分の名前がわからない。

そもそも自分が何者であるかもわからない。

セナさんに不審に思われてしまう。

あの黒いのに消されてしまうかもしれない。


「もしかして、自分が何者かわからなくて、名前がわからないとか?」

くすくすと笑っている。

冗談で言っているのだろうか。

「じゃあ…夕日がきれいだし、私の名前から1字取って、夕奈ゆうなでどうかな」

名前をくれたんだ、首を横に振る必要はない。

「…ありがとうございます」

セナさんは機嫌よくニコニコしている。


「なんで‛アレ’に狙われてたの?」

首を横に振る。

理由なんてこっちが聞きたいくらい。

「わからないのね…。でもそこにいるうさちゃんを見る限り、ただの一般人には思えないよね」

「うさちゃんじゃない! 僕はねこうさぎだよ!」

「この子しゃべれるんだね! かわいいっ」


 ねこうさぎを持ち上げると、胸元に抱き寄せた。

「もふもふしてるね」

ねこうさぎはしっぽをパタパタ揺らしている。

まんざらでもないようだ。


「訳ありみたいだから、うちで面倒みるよ。さっきからの様子だと、帰る家もなさそうだし」

アレに目を付けられているのも気になるからと付け加えた。

セナさんの言う通り、私に帰る家はない。

「好意に甘えさせてもらいます」

「じゃあこっちに来て、車で帰るよ」

近くに停めてあるミニに乗って、ブーツでよく運転できるなと感心しつつ、彼女の言う家に向かった。


 これから私はどうなるのだろう。

車窓を見ながら思う。

もう外は日が暮れて夜になっている。

帳が下りたみたいな世界。

突然放り出された世界で、いきなり敵に襲われて、そしていま。

気が付いた瞬間から青天の霹靂。

どこかで遠いところでまどろんでいたら、急に乱世にトリップした心地。

この理解できない不思議な世界。

なんとしても生き延びる。

混乱からやや立ち直って、冷静に決意した。


 私にはねこうさぎがついてる。

いつからいたのか知らないけれど、とても前からそばにいてくれていて、親近感を覚える。

そんな‛彼’をぎゅっと抱きしめた。

彼は鼻をひくひくさせて顔をお腹にすり寄せる。

この子だけは私から離れない。


「着いたよ」

1階が駐車場になっていて、2階へは扉を開けて階段を上がっていくようになっている。

壁はコンクリートの打ちっぱなし。

壁から少し冷気が漂っている心地がする。

腕の中のねこうさぎも白い毛を震わせている。


 2階の扉が開かれる。

「いらっしゃい、魔法管理委員会へ」

入口の両サイドには観葉植物ポトスが置いてある。

奥には大きな事務用の机。


 部屋の右には中心がガラス張りになっているテーブルと、黒い2人掛けのソファー。

そこに座って雑誌を読んでいる女性。

白いブラウスに灰色のニットのトップスに青っぽいチェックのスカートのボトムスのコーデ。

ソファーの奥には扉が2つある。


 左には出窓があり、手前にはアネモネが植えられた鉢植えがある。

左端には、キッチンと食器棚と思しきものがある。

部屋を満たすのは、鼻腔をくすぐるコーヒーの香り。


「なんですか、ここ?」

待ってましたとばかりに目を輝かせるセナさん。

「魔法管理委員会日本支部。本部はモロッコのフェズにあるの」

「魔法なんて存在するんですか?」

「それを夕奈が言う? この世にねこうさぎなんて生き物いないよ」

それにセナさんのあの黒いものだってそうだ。

「魔法は存在するし、存在もしない。はかない夢のような、妄想のような存在ね。」

「何をする組織なんですか?」

「魔法の悪用の取り締まり、そして人間の因果、事象が記録されてるという、アカシックレコードを見つけ出すこと」

「人類の歴史に、オカルト的アプローチをするということですね」

「まあ、そういうこと」

苦笑い。


私は窓を見た。

アネモネは無言で外を見つめている。

存在するかどうかもわからないものに縋って、真実を追求している。

これは狂気?

私自身も正体不明の狂気。

腕でもそもそしているものも狂気の産物。


「そうだ、うちで働かない? 安いけど給料は出すよ」

私に行く当てはない。

不思議な世界に迷い込んだ私に居場所を提供してくれる。

ねこうさぎを見る。

彼は何度もうなずいている。

「わかりました。ここで働かせてください」

セナさんは鷹揚にうなずいた。

不思議な狂気の世界での1日目が終わる。

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