万物は流転する
起床。
最初に目に入ったのは白い天井。
そうだ、昨日は晩御飯をごちそうしてもらって、割り当てられた部屋で眠ったんだった。
もこもこの花柄の掛布団を上げて、すみっこで縮こまったようにある洗面所で歯を磨き、顔を洗う。
洗面台には申し訳なさそうに、化粧水だけが置かれている。
枕元にたたまれた服に着替え、自分が来ていたクマのパジャマをたたむ。
あげた布団の中で、もそもそしているねこうさぎを抱きかかえ、ベッドの傍らに置かれた猫のスリッパを履き、扉を開けた。
右は行き止まり。
日差しを取り入れるための、小さな窓があるだけ。
向かいには扉。
左にも扉。
そして隣の部屋と、対角線上にも部屋がある。
2つの部屋に挟まれた廊下を抜け、扉の前で靴に履き替える。
恐る恐る扉を開けた。
昨日、通された部屋だ。
香しいコーヒーと、胡椒を効かせている焼けたベーコンの匂い。
「おはよう、よく眠れた?」
セナさんだ。
「おはようございます、よく眠れました」
腕の中のねこうさぎはしきりに鼻をクンクンさせ、周囲を見ている。
かと思えば、腕を抜け出して、キッチンへまっしぐら。
セナさんの足に、白いもふもふをすりすりしている。
「ねこうさくんも食べたいの?」
「食べたい食べたい!」
しっぽを精一杯振っている。
「わかった、ねこうさくんの分も作るね」
耳をピンと立てて、ぴょんぴょん飛び跳ねて、喜びを表した。
「うるさい」
ソファーに座って新聞を読んでいる女性が言った。
ねこうさぎの毛が逆立ち、しっぽが直立した。
鋭い目つきで彼女を見る。
「どうした? かかってくるか?」
獲物をうかがう猛禽類のような目つき。
「‛記憶’から消えてしまえ!」
後ろ足で力強く蹴り上げ、宙を舞うねこうさぎ。
顎が外れんばかりに大きく口を開けた。
女性はとっさに読んでいた新聞で身を隠す。
すると、小動物よりも早い速度でそれを咀嚼した。
恐ろしいペースで新聞が消えた。
2秒か3秒程度でそれをやってのけた。
昨日よりも強くなっている。
「まだ新聞読み終わってないんだけどな」
「じきに朝刊が届いた事実を忘れるよ。食べたものが存在した事実を消し去る。概念だって食べて見せるさ」
にやりと八重歯を見せる。
いつもの可愛い姿など、どこにもない。
そこにいるのは獰猛な獣だ。
「ただ食べるだけの、‛食いしん坊さん’とは違うんだよ」
女性が急に、左腕を上下に、残像が見えるほどの一瞬動かした。
その手に握られているのは小さな折り畳み式ナイフ。
一瞬のうちに手に取り、ナイフを展開してみせたというのか。
「もう我慢できないね。てめぇの
ソファーからばねのように跳ね上がり、黒いショートカットが乱れる。
ナイフの切っ先がねこうさぎの眉間を狙う。
それを前足を蹴り上げて回避した。
「そこまで。これ以上やるのなら、うちの子が2人とも食べるよ」
セナさんが言う。
ねこうさぎは私の足元に駆け寄って、後ろに隠れた。
「‛衝動’を抑えろ」
今までとは声音をがらりと変えた。
重たくのしかかるような空気を醸す低音。
その場を圧するのにこれほど適した声はない。
「わかったよ」
ナイフを畳んで袖にしまった。
「あの子は
「ちゃん付けするな!」
むすっとした彼女は、ソファーに腰かけ、テーブルに置いてあった雑誌を読み始めた。
「あの子はちょっと特殊な性質を持ってるの」
「性質?」
黙って首を縦に振るセナさん。
「殺害衝動。それが彼女の性質、もとい魔法よ」
勝手に話せと言わんばかりに、レイさんは雑誌を読みふけっている。
表紙をちらっと見た。
オムライスと思しき写真の表紙。
料理関係の雑誌かな。
「攻撃を受けたと判断したら、スイッチが入るの。そしたら、目標を殺そうとする獣になってしまう。敵は絶対に逃がさないし、放つ一閃は確実に殺す」
「でもセナさんの制止は効きましたよ?」
その質問が来るのを待っていたかのように、全く動じない。
「私の制止だけは効くように訓練したの。パブロフの犬が反射でよだれを垂らすように、梅を思い浮かべただけで、よだれが口いっぱいになった古代の兵士みたいにね」
何か怖い、そう感じた。
何がどうしたかはわからないけど、得体のしれない恐怖を感じる。
******
まったくもって不愉快である。
かび臭い部屋に無言の怒りを投げかけた。
マネキンが1体帰ってきていない。
彼を‛収集’のために街に放った。
動くマネキンは存在しない。
一般人はそう思う。
だから見ることはできない。
だが、帰ってこないということは破壊された。
ということは魔術師がいるということだ。
「委員会の連中か…」
男は苦々しく言った。
せっかくこの街でこつこつと研究してきたというのに、目的のために手段を選びすぎる委員会に目を付けられたかもしれない。
隣の部屋から低く、不愉快なうめき声がする。
「今から行くよ」
短刀を右手に、男は歩を進め、声のする部屋へと向かった。
部屋を満たすのは声にならない声。
嘆き、絶望、この世のありとあらゆる苦しみが凝縮された空間。
壁にはりつけられ、臓物を垂れ下げた裸の人間。
性別はもはやわからないぐらいに腐っている。
手足は皮膚と骨が一体化している。
髪どころか、地肌まで禿げた頭蓋から飛び出た眼球が、神経にぶら下がって揺れている。
耳と鼻からは鼻水でもない、得体のしれない液体を垂れ流している。
歯はもうすべて失われている。
心臓には6本足の小さな白い虫が4匹ほどたかっている。
心臓は動いている。
まだ生きている。
その隣にもまた、同じような人がいる。
ベッドにはそんな状態のシャム双生児がいる。
その中にあって、無傷で椅子に縛られた状態で、向かいあった2人の少女がいる。
「さぁ、今日はどの子にしようか」
部屋を見渡す。
「かわいらしい姉妹ちゃんがいいな」
男はゆっくりと、椅子に座った‛少女’たちのもとへと歩み寄った。
そして一方の方の前でしゃがみ、何も見えていない目を見て言った。
「おねぇちゃん、頑張ろうね」
無言。
「怖いかい? 初めてだもんね。でも大丈夫、他のみんなはもっといっぱいしてるからね」
男が優しい声音で言う。
目は据わっている。
「見てごらん、君の妹がいるよ」
向かいにいる妹を見るように促す。
物言わぬ妹。
胸を切り開かれ、心臓を白い虫がうごめいている。
「た…た、たすけて…」
姉は震える体で絞り出した、消え入りそうな声。
「力を抜いて」
男は彼女の後頭部に左手を回し、自分の顔に抱き寄せた。
交わる唇と唇。
幼く柔らかいそれは、男に土足で犯された。
「じゃあ始めようか。おねぇちゃんが泣いてちゃだめだよ」
震える少女
「今から2人は入れ替わるんだ、いいかい?」
もがく、うめく、涙する。
今の彼女にできる精一杯。
男は右手に持った短刀を、彼女の胸に突き立てた。
吐血、流血。
それに目をくれることなく、突き刺した短刀を下におろす。
胸に生まれた隙間。
男はそれをこじ開けた。
どこかの骨が折れる音。
開かれた胸。
「おいで」
男が言うと、物陰からどこからともなく白い虫が3匹現れた。
かさかさと移動し、少女の体を這い上がる。
隙間から胸の中に入り込み、小さな口で噛みついた。
「ちゃんと生かしておくんだよ、救命虫」
男は妹の方を見た。
「妹の体はどうだい、おねぇちゃん」
彼女は理解できていない。
自分は刺されて死んだ。
でもまだ生きている。
それも胸を切り開かれた状態で。
途方もない苦痛が小さな体を襲う。
痛みとは生きていることの証しかと言うように。
「君は胸にいる救命虫のおかげで生きているんだ。心臓に寄生し、その人を生かし、やがて脳に至り宿主をコントロールする」
少女はまだ理解できていない。
なぜ妹の体にいる?
「救命虫は近くにいる別の宿主と、自分が寄生している宿主の魂を交換できるんだ」
本来は絶対に生かしたい人の生命が、危機的なときに使ったりするものだと言って、男は笑う。
「これから何度も何度も2人は入れ替わってもらうよ」
万物は流転する。
歴史は繰り返す。
事象はループしている、渦を巻いている。
2人の間を何度も魂を行き来させる。
魂の循環。
生と死のループ。
自らの手で流転を作り出し、根源へと至る。
流転の中心にこそ、事象の根源、アカシックレコードがある。
そうだ、そうに違いない。
そうでなければこれまで多くの人間を誘拐した意味が無と帰する。
このために、マネキンに救命虫が寄生した脳と心臓を詰め込んで、さらに多くを誘拐してきた。
脳や心臓が神経や血管と繋がっていなくても、救命虫は絶対に生かし続ける。
「協会の連中に、邪魔などされてたまるか…」
まだ見ぬ敵に、静かに憎悪した。
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