7

 いつの間にか、この地に来て3日目の朝を迎えていた。


 昨日のことはよく覚えていない。…健二のあの言葉を聞いた後のことは。おそらく、普通に三人で港周辺をぶらついて帰ったのだろう。ただ、大してその時の記憶は無い。ずっと考え事をしていたからだろう。



 唯の存在。俺は、真由子に気を取られてすっかり忘れてしまっていたのだ、こんなこと許されていいものではない。確かに、第三者目線で見れば、僕と真由子は特に何かをしたわけではない。手を繋いだわけでも、キスをしたわけでもない。だが、心は完全に真由子に傾いてしまっていたのは事実だ、自分自身がよくわかっている。


 1年間、1年間だぞ。唯が僕に費やしてくれた時間。憔悴気味だった僕に、精いっぱいの愛情をくれた、僕のためにいっぱい考えてくれた。その時間を、たった2日で僕は忘れ去っていたというのか。自分自身がひどく無様に見えたし、第一に許せなかった。まだ当分は唯は帰ってこないが、こんなことを考えてほしくて僕を旅に出したわけではないはずだ。



 だが、頭の中から真由子が消えてくれなかった。

 実際、唯の存在を消してしまうほどに、真由子という人物の登場は僕の中で衝撃が強いものであったのは間違いない。一目惚れ、と言ってしまっては簡単すぎる気もするのだが、僕にとって理屈抜きで見た瞬間に堕ちてしまうような感覚に陥ったのは生まれて初めてだった。この数日、僕にとって彼女は麻薬だった。


 考えれば考えるほど頭は混乱してしまう。もう何も今はしたくなかった。

 

 もう朝から昼になろうとしていた頃、携帯が突然音を立てた。通知欄には『唯』の文字があった。電話だ。急いで応答ボタンをタッチした。


「もしもし、敦司?もしかして今、もう一人旅中?」


 電話の向こうの唯の声は安心してしまうほど変わりなかった。時差を考えると今イギリスは深夜、というか明け方のはずだ。どうしてこんな時間に電話を、と思うかもしれないが、唯は基本寮に帰った時しか携帯を使わないことにしているらしく、電話に至っては勉強に集中するためにと、早起きをして日課のジョギングをする前にだけすることにしているのだ。そうすればこちらの時間的には朝から昼くらいの時間だしちょうどいいというわけである。昨日はもともと港に行く予定で、その時間は電話できないと伝えてあったので、久しぶりに唯の声を聴いた。


「ちゃんとご飯食べてるー?あと、敦司いっつも爪切るの忘れるんだからしっかりね」


「母さんかよ」


「いつものことでしょ。ふふ、でそっちは楽しいの?」



 うん、まあ。と言いたいところだったが、自然と言葉が詰まってしまった。変な後ろめたさが喉につっかえている。あるはずのないところで起きた変な間に、唯は不思議そうにしていたが、僕はすぐに「そうだね、楽しい」と平静を装って返した。



「そうなんだ、よかったよかった。こっちも楽しいよ、昨日なんてフランス人の友達ができてさ――」





『あの…敦司さん、いらっしゃいますか』



 背筋が凍った。明らかに真由子の声とわかるそれが扉の向こうから聞こえる。彼女の比較的小さな声も、今は嫌にはっきりと聞こえた。電話の向こうの唯は、少し時間を空けて、僕に問いかけた。






「今の声、誰?」

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