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 太陽の光が目覚まし代わりになったのなんて、何時ぶりのことだろう。



 昨日はなかなか寝れずに、深夜まで本を読んだりしてごろごろしていたのだが、いつの間にか寝てしまったようで、それにたっぷり睡眠はとれたような気がする。寝起きにしては体調が頗る良い。ベッドの上でひとつ伸びをしてから、顔を洗いに洗面台へ向かった。


 今日は健二が、この宿から少し離れた港まで案内してくれると言っていた。僕は朝ご飯をロビーで済ませ、部屋で身支度を終えると勢いよく外へと飛び出した…が、勢い半分のところで後ろから袖を軽く引っ張られる感覚がした。振り返ると、昨日のあの女性がそこに立っていた。今日は黄色いブラウスを着ている。よく似合っているなあ、とつい見とれてしまった。が、本題はそこではない。女性は申し訳なさそうな表情で僕にハンカチを渡してきた。



「ごめんなさい、昨日返すのを忘れてしまって。そんなに汚れてはいないんですけど…洗って返したほうが良かったら、少し時間はかかるけど」


「いやいや、大丈夫ですよ。それより、昨日は突然話しかけてしまってごめんなさい」


 結局、きっかけ作りである。昨日泣いている彼女に話しかけたのも、今その話題を出したのも。必死になって策を練っている自分がいた。深夜の時点でハンカチが返ってこなかった時から、このシミュレーションはしていたんだ。気持ち悪いぐらいにその時のことはよく記憶している。



「謝らないでください。私のほうこそ、あんなところで泣いたりなんかして、馬鹿みたいですよね」


 ふふっ、と口を手で押さえながら彼女は笑った。その仕草一つとっても可愛らしい。もっと話をしたい、彼女のことを知りたい。そんな衝動に駆られるがままに、僕は話を続けようとした。しかし、予想に反して、アクションを先に起こしてきたのは彼女のほうだった。




「あの、よかったらお名前を教えていただいてもいいですか」


「あ、はい。…えっ?」


 びっくりしすぎて言葉に詰まる。それは僕が言うはずのセリフだろう。ましてや、そのセリフを使うためにどれだけの前置きを入れる予定だったのかわかっているのか、と心の中で文句を垂れる。だが、これは思ってもいない出来事だ。いわばチャンスである。僕は意気揚々と自己紹介をした。すると、彼女はまた小さく笑った。



「ふふ、面白いですね、敦司さん。私は奥村 真由子といいます。よろしくお願いしますね」


 面白い?この理由を、僕が自己紹介をしているときに興奮しすぎて鼻の穴を膨らませていたことだと気づくのには相当時間がかかるわけだが、なんにせよ重要な情報を手に入れることができた。真由子、という名前を脳内で何度も繰り返す。真由ちゃんなんて呼ぼうものなら天へ昇るような気持ちだろうな、と気持ちの悪い妄想をしている僕をそっちのけで、彼女は話を続けた。



「そう、でね敦司さん。実はお願いというか、相談があるんです」


「え、はい。なんですか」


「実は、私旅行でここに来てて、この近くに港があることを昨日知ったんです。場所はロビーの方に聞いたんですけど、実は方向音痴なんです…港までたどり着けるか結構不安が大きくて。…そこでなんですけど、昨日会ったのも何かの縁ですし、港まで案内してくれませんか?」



 その後に、彼女が「もし忙しければ全然構わないんですが」と言っているのは僕の頭の中に入ってきてはいなかった。僕だって健二に口伝いで教えてもらっただけだから、港にちゃんとたどり着けるかは保障などできない。けれど、そんなことを心配している時間さえも惜しかった。


 もちろんのこと、彼女の要望に了承した。すると彼女はにこりと微笑んでから、身支度をすると言って部屋に戻っていった。僕は、緩んだ顔でその場に立ち尽くしていた。まだ朝だというのに少し蒸し暑く感じるが、そんなこと今の僕には関係なかった。




 ツイてる。今日の僕は今までで一番ツイてるのかもしれない。

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