第3話 その男

「肘をついて食べない。ナイフとフォークくらいまともに使えないのかい? それから食べ零すのもやめなさい」

 僕の言葉に、子どもは手を止めた。深い海の底のような瞳が僕を見、そのまま煩そうに細められる。

「返事くらいしなさい」

「子ども扱いするな!」

「子どもじゃないか、僕より三つも年下だ」

「お前も子どもじゃないか」

「ほら、文句を言う前に先ほどの件について返事をするんだ」

「うるせえよばかボリス」

「クロット! いい加減にしないか!」

 思わずテーブルを叩き右手を振り上げた僕を見て、子どもはぴゃっと肩を竦めた。柔らかな白い髪が見る見るうちに青い色に染まっていく。

「二人とも、食事中ですのよ」見かねたのか、フェニモールがやんわりと口を挟んだ。「ボリスもクロットも、いい加減にしてくださいまし」

「「だってこいつが、」」僕と子どもの声が被る。即座ににらみ合う僕らを見て、フェニモールは愉快そうに笑った。彼女が焼いてくれた白いパンは蕩けるように柔らかでとてもおいしいのだけれど、忌々しい子どものせいで満喫はできない。それはミルクで喉の奥に流し込み、クロットを睨む僕に彼女は一言。

「仲がよろしいことですね」


 あの茶髪の男が連れてきた子ども、クロットユール。

 彼ほどに……僕の理解のできない存在は今まで見たことがない。食事のマナーも、言葉遣いも。この村の誰よりも乱暴で、そのくせ誰よりも泣き虫で。白い肌に散ったそばかすが彼の育ちをあらわにしているような気がする。

 彼は感情を隠すことはしない。まだ幼いから、という理由ではない。

 ──クロットには、体毛の色が感情によって変化するという特徴がある。

 今、僕にぶたれるのかと怯える彼の髪は真っ青に変わっている。……そういう意味では、機嫌だけはわかりやすいかもしれない。だた、なにが原因で不機嫌になるのかはさっぱりだ。

 そのくせ、フェニモールはすっかり甘えているのも気に食わない。フェニモールだってまんざらでもないらしく、弟かそれ以上、息子のように接している。

 今や、この家は彼女を中心に回っていた。彼女がいなくては僕はクロットと口を聞くこともないし、クロットだって大人しくはしていないだろう。出て行きたいが家はなし、そもそも誓った以上無責任なことはできない。だからこそ、僕はこの子どもを受け入れなくてはいけない……のだが、中々に胃が痛いよ。多分、すごく合わない人間なんだろうね。


 フェニモールが伸ばした手に撫でられ、クロットの髪は見る見るうちに白へ、そしてほんのりピンク色に色づいた。本当に腹が立つくらいわかりやすいことだ。

 僕はため息を一つ落として、カリカリに焼き上げたベーコンをパンケーキに乗せる。

「まったく。一体どんな育ちをしてきたのやら。親の顔が見てみたいね」

「……いないよ誰も。皆死んだよ」

「なんだって?」

「よく覚えてないけど……でも、ぼくは一人だけ生き残っちゃった。皆殺されたのに、ぼくだけ」

 クロットは口を尖らせ、半熟卵の黄身を裂いた。……人の死、なんてもの、僕はまだ直面したことがない。それ故、幼いクロットの口から出る言葉のなんと歪なことか。

「殺されたって、誰に?」

「だから知らないよ」

「二人とも、食事の席ですわよ。そんな恐ろしい話はやめてくださいませ」

 フェニモールの仲裁に、クロットは素直に従う。はいと言う返事はどこまでも無邪気なのに、垣間見せた暗い表情とのギャップが……髪色と相俟って心底不気味だった。


「あの子はいつまで面倒を見ればいいんだい」

 食後のお茶も飲まず、クロットが遊びに出て行ってしまうと居心地のよさが段違いだ。僕は紅茶を啜りながらフェニモールに問いかける。フェニモールはカップを両手で持つようにして、さらり、と首を傾げた。

「ずっとですわ」

「冗談じゃない。あの男に頼んで連れて行ってもらってよ」

「もう、ボリスったら……クロットはもう私たちの家族じゃないですか」

「あんな得体の知れない子ども、お断りだよ」

 すると、僕の言葉を自分宛てと勘違いしたかのようにフェニモールの顔が沈んだ。慌てて君じゃないと訂正するも、憂いは晴れない。

「……ボリス。」

「な、なんだい」

「あの子の、どこが気に食わないか、こっそり教えてくださいませ」

「……さっきの暗い顔のギャップとかが、ちょっと」

 不気味、という言葉は飲み込んでおく。

「あら、そこだけですの。貴方にツンケンするところは?」

「そんなの……むかつくけど。まあ別に、相手にしてないからね」

「嘘ばっかり」

 そう言って、フェニモールはようやく笑ってくれた。そして僕の手を取って、言う。

「ショックが強すぎて断片的にしか覚えていない。未だ整理が付かず、あんなふうに二重人格のようになってしまっているのでしょう。あの子は悪くない」

「信じるの?」

「あの様子を見て、貴方だって信じたのでしょう?」

「僕は違和感を感じただけで」

「ほんの三歳くらいの子が、演技だけであんなふうに変われると思いますか? それに、あの子の髪の色は素直すぎる。……あの一瞬だけ、とても暗い色に変わった」

「見たよ。じゃあ、ますます置いて置けない。あの子を置いておくと、僕らまでトラブルに巻き込まれる」

「……ボリス。そんなことはありませんわ」

「なんでそう言えるんだい?……この村にいること自体、手遅れだって?」

 フェニモールはため息を着き、ボリスの指先に自分のそれを絡める。

「ここの暮らしは嫌いですか」

「わ、悪くはない。でも、前の生活を思い出すとどうもね。……最初からここで暮らしてれば、一々不便さに苛立つこともなかったろうに」

「私とは違う考えですわね」

「そうかい?」

「クロットが戻ったら、ちゃんと話をしましょう。どうか、貴方にも聞いて欲しいことがあります」

 ──私達は、失って不幸になることは決してない。


 彼女の教えは、僕の胸の中に今なお輝き続けている。


 *


 夕食はクロットが山ほど捕ってきた魚を食べた。僕とは違い、海の傍で暮らしていたらしいクロットは、随分と長く水に潜っていることができ、泳ぎも達者だった。フェニモールがおいしいと喜んだ魚の姿をはっきりと記憶し、潜れば必ず捕ってくる。今日はどこで見つけたのか真珠を一つぶテーブルに乗せて胸を張っていた。

「みんな喜んでいましたわ」

 量が量だったので近所に住む子どもたちにも分けてきた。人当たりのいいフェニモールがクロットの自慢を行く先々でしてくるため、彼は本人のいないところで人気者になっている。顔と髪をほんのりとピンク色にし、後ろに組んだ手をもじもじと動かす様は本当にわかりやすい。

「この真珠、フェニモールにあげる」

「まあ、いいんですの?」

「ボリスにはあげないからね」

 その一言が本当に癪に障る。僕が苛立たしげにテーブルを指先で叩くと、行儀悪いぞとこれ見よがしな文句が返って来る。あぁ、本当に可愛くない。

「この真珠は、クロットがいつか大切な誰かにあげたくなるまで預かっていますわ」

「えー、そんな人いないよー」

「私の理想の人の真似っ子です。ふふ、クロットは本当にいい子ですこと。大切な誰かのところになんてあげないで、私がずーっと傍にいたいくらい」

 フェニモールに抱きしめられ、蕩けそうな顔になったクロット。ところが突然海色の瞳から涙がぼろぼろと零し、彼の色が青く染まっていく。その様子を目の当たりにして、僕はギョッとせざるを得なかった。

「……ずっと一緒にはいれない。いつかフェニモールもいなくなっちゃうんでしょ。いなくなるなら、大事にしないで。もう、優しくしないで」

「クロット?」

「父さんも母さんも、傍にいるって言ったのに死んじゃった。ずっと嫌いだったのに、初めて優しくしてくれたのに。それなのに、殺されちゃったんだよ。酷いよ。だったら最後まで嫌われてろよ」

 フェニモールはクロットの体を強く強く抱きながら、動けないでいる僕を見た。顎をしゃくって人を呼ぶ行儀の悪さに文句を言う気は起きなかった。僕は恐る恐る二人に近付き、それから手を回す。──クロットに怒鳴られるかもしれなかったけれど、これ以上にすべきことが見つからなかった。

 僕とフェニモール、二人に挟まれたクロットは、泣きながら覚えてる限りの家族のことを話してくれた。

 ──厳しかった両親、一族。皆のことは嫌いだった。それなのに、三歳になった誕生日に初めて褒めてもらった。世界で一番、幸せだと思ったらしい。

 ……けれども、気付いたときには殺されていた。たった一人生き残った自分。初めて抱いてくれた母の腕の温もりは、もうどこにも見当たらなかった。

「クロットユール。ご両親から優しさをもらったことは恨んではいけませんわ」

 全てを聞き終えてから、フェニモールが言った。

「知らなければ良かった。知らないままなら良かった。……そんなことありません。貴方が知ったことは、とても大切なこと。知ったから不幸になった。……そんなこと、ありませんの。貴方が知った優しさは、未来に繋がる大切な感情。知ったからこそ、この先に出会う誰かに与えられる感情。」

 フェニモールの一言一言が、まるで温度をもった優しい風のように僕の鼓膜を震わせる。クロットにも届いているだろう。青ざめた髪が、ゆっくりと白んでいく。

「──私達は、なにかを失って、なにかを知って、その結果不幸になることは決してない。全てはこの先の未来で待ち受ける幸せに繋がっているんです。満たされるために、乾く。再び潤む瞬間の喜びのために、咲き誇った花を誰かに届けるために乾くんですのよ」

「……ぼく、どうすればよかったの?」

「今のままでいいんです。クロット、とても恐ろしい目にあったのでしょう。でも私は貴方に会えてよかった、救われました。これだけは間違えないで欲しい。もちろん、ボリスもそうでしょう?」

 突然話を振られた僕は、びくりと肩を揺らした。腕の中と目の前、色の違う二対の青い瞳が僕を見る。そんな、ずるい。フェニモールはともかくとして、正直、クロットは小生意気で迷惑しかかけられてないんだけど、少しばかり同情してあげても、教育を手伝ってあげても……傍にいてあげても。守ってあげても、いいかもしれない。

 僕が頷くと同時に、いつの間にか昇っていた大きな三日月が室内を照らした。


 眠ってしまったクロットの傍で、僕らは膝を抱えて座っている。

「これからは家族ですわね、私たち」

「不本意ながらね」

「まあ、またそう言う」

「でも僕はこの村から出ないし、この子を追い出そうとも、もうしない。嘘はつかないよ。以前の暮らしを失って、不幸になったわけじゃない、だろ?」

 フェニモールが目を丸くした。月の下、アイスブルーの瞳はどこまでも美しい。

「……あの家を出なきゃ、この村では暮らせなかった。君に会えなかった。……本当に大切なことだね。教えてもらうまで、気付かなかった。……この子と暮らすのだって、不幸なことじゃないんだ。きっと、多分、恐らく」

「そこは確信してくださいな」

 柔らかな夜の空気を擽るように彼女が笑う。

 この笑顔を、ずっと守りたい。僕はこの村で生きて、彼女の傍で、クロットを見守って生きていく。


 ──そう、思っていた。



 *



「機嫌が良さそうだね」

 森の中、澄んだ湖の畔を歩いていたフェニモールは足を止める。

 声の聞こえた方向を探せば、傍に立つ木の根元に寝転んでいた男が上体を起こし、ひらりひらりと手を振っていた。夕焼けに、マリンブルーの宝石が煌く。

 それだけで、彼の正体がわかった。フェニモールは安堵の笑みを浮かべると、男の傍に駆け寄ってしゃがみこむ。男は眩しそうに目を眇め、にいと微笑んでいた。

「風邪を引きますわよ、ハクアス先生」

「心配してくれるならひいてみたいものだね」

「もう、冗談を言ってる暇なんてありませんのよ。私、木苺を一杯摘んできましたの。これからジャムをつくるんですわ」

「そう言いながら。カゴを持ったまま湖をうろうろ、うろうろ……もう一時間だよ」

「まあ、ずっと見てらっしゃったの?」

「君の行動は興味深いんだよ。……レイン君」 

 フェニモールは一瞬目を丸くし、そして笑った。

「レイネ、です。いっつもわざと間違えるんですのね」

「その名には運命を感じるからねえ。……さて、レイネ君。何かまた悩み事でもあるのかい」

 男──ハクアスは起き上がる。白衣の背中についた落ち葉をぱっぱと払ってやりながら、フェニモールは目を細めた。

「……ここから。戦争が起こらないように。毎日祈っているのです」

 知っている、といわんばかりにハクアスが頷く。

「でも、一体どれだけのことを、あの子にしてあげられているのか……」

「戦争どころか、大きな事件も起きていないよ。君の力が届いている証じゃないかな?」

「そもそもそんな火ダネすらないかもしれないのに。私の自己満足かもしれませんのに?」

「それを言っちゃあオシマイだよ。君は心配性すぎる。……君の力は嘘なんかじゃない。確かに存在する、隷属の力だ。君自身、理解しているだろう? 全てものもを従える、その力をさ」

「……ハクアス先生、その指輪。クロットユールのものですね? あの子の一族が守っていたものですわね」

「ほら。わかってるじゃないか。指輪の意思を読んだのかい?」

「そうですわ」

「彼に言うかい?」

「いいえ。……貴方が、何を考えているかまではわからない。でも私は、貴方を信じていますから。私の秘密を知ってなお、協力してくれる貴方のことを」

「優しいねえ、レイン君」

「レイ、ネ、です。でもちゃんと、いつかは返してあげてくださいね」

「そうそう、レイネトワール」


 ──レイネトワール。

 その名前は、私の国が持つ最大の力。風を、雲を、全てを隷属させる強大な力。

 十二の国々からなる共和国の、六の国。資源も産業も、竜の庇護もない小さな国の最後の希望。

 それは弱小ともいえる国が強力で強欲な他十一国と肩を並べるために不可欠な力。姫から姫へ。一子相伝、姫が子を成すと同時にたった一人にのみ継がれる力。

  私と、双子の妹フェニモール。外見もそっくりで、誰にも見分けが付かないのに、扱いをわけてしまった忌まわしい、その力。

 ……偶然に偶然が重なった。結果として、私は“フェニモール”してこの村に売られ、モルモットをやっている。妹は今“レイネトワール”として、強大な力を持つ姫として君臨しているだろう。

 ……あの子は、とても気が弱い子だから、しっかりやれているか心配になる。

 でももう戻れない。ハクアス先生がくれる情報によって、私は自分の国が安定していることを知っている。……所詮、傀儡なのだ。置物の可愛いお人形で、その力の有無なんて関係ないのかもしれない。そう思いながらも、私は私にできる罪滅ぼしとして、風に、雲に。どうか平穏であれと願いを掛けているのだった。

 後悔はない。

 双子として生まれながらも、天秤はいつも傾いていた。あの子は人に認められていい。もっともっと、幸せになっていい。


 ……だから、私はこの村から出ることは出来ない。どこからか正体がバレてしまうかもしれないから。

 そして、私は……夢を諦める必要がある。平凡なお嫁さんになって、子どもを産みたいというちっぽけな夢。そんなことをしたら、レイネトワールの名と力は受け継がれてしまう。……これは、誰にも利用させてはいけない力だ。この力は私が墓まで持っていく。


 ハクアス先生に、秘密を打ち明けてしまったのはいつだっただろう。

 この村に来てすぐに、雨と会話しているところを見られた時、だったか。

 秘密を知られたからには、と気色ばむ気力すらなかった私に、彼は協力を申し出てくれた。

 レインという名に運命を感じただとか言っていたけれど、実際彼は私を裏切らずに情報を運び、子どもが欲しいという願いまで叶えてくれた。

 けれども、私は気付いている。彼がどうしようもなく死にたがっていることを。

 ……だけど、私は彼のその願いを叶えて差し上げることは出来ない。

 利用して、利用して、利用する。それなのに、彼は献身的に願いを叶えてくる。

 ハクアス先生も、罪滅ぼしがしたいと言っていた。私ではない誰か宛の贖罪すらも利用して、私は生きている──……。



「何か難しいことを考えているね」

「いえ、ちょっとだけ……」

「なんでもかんでも複雑に考えるのはよくない。世界は案外単純に出来ているんだ」

「それはそうと、ハクアス先生はここでなにをしていたんですの?」

「うん? あぁ。もうすぐ学会があるからね、どうしようかなと……」

「へえ……なんだか大変そうですのね」

 視線を落とし、ハクアスが手に持っていた本に気付く。擦り切れ、古びた皮表紙のそれは、インクのシミがいたるところにできていた。

「この本はね、生命の錬金術師エルバスが書いたものだよ。母校からこっそり貰ってきたんだ」

「それっていけないことじゃあありませんの?」

「そうだね、ばれたら大変だ」

 ハクアスは目を細め、子どものように笑った。目元の皺が優しく、愛おしく感じる。フェニモールは穏やかな夕暮れを惜しむように手元のカゴを抱いた。その頭をそっと撫でるハクアスの手は、意外なほど無骨である。

「ねえ、レイネ君」

「なんですの?」

「僕は、自分が喰い殺されないように好奇心を放し飼いにするよ。君は許してくれるかな?」






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