第2話 その子供

「フェニモール。僕はね、シャツもズボンも皺の一つだって許せないんだよ」

 何度目かわからない僕の小言に、彼女は洗濯物を畳む手を止めた。すぐに何事もなかったかのように、僕の好みではない適当な畳み方を始める。

「あんまり細かいことを言うとですね」

「なんだい」

「女の子には嫌われますわよ」

 むくれた頬を見て、僕はフェニモールが怒っていることを知った。


 僕がこの村から出て行くのに失敗して、もう二週間経つ。

 森の中から戻ってきた僕は、嵐によって自分が住んでいた家──村の隅に立っていたボロ小屋──が木っ端微塵になったことに愕然としていたが、平然と同居を申し出るフェニモールにも唖然としたのだった。

 ありがたくその申し出を受けた僕は、ついに呆然とする。──彼女は料理以外、まともな家事できなかったこと。

 掃除をすれば角は拭かない。裁縫をすれば縫い目は斜めに。洗濯をすれば、適当に畳む。その都度僕は口を出した。そしてその都度、彼女は頬を膨らませる。

 村のほぼ中心に建つ、彼女一人が住んでいた古く縦に長い家。その屋根裏にたまった埃を吹き飛ばすのには二日かかった。自分が一息つける空間を作り上げるのが、こんなにも大変なことだったなんて僕は知らなかった。あのボロ小屋は、どうせすぐに出て行くのだからと最低限の掃除しかしなかった。けれどもこの家は違う。僕は、ここで暮らすのだ。

 壷に花に、絵に銀の皿に……なんてものはない。僕の家にあった、僕の居場所にあったものは何一つない。今にぶら下がっている、この家と同じくらい古いシャンデリアだって、高すぎてロウソクが灯せないからないものと同じだ。

「君はこんな適当な暮らしでよく我慢できたね」

「……だって、別に。住めれば関係ありませんわ」

「君の家にはもっといいものが沢山あっただろう? いいものはちゃんと管理しなきゃ、あっという間に痛んでしまうのに」

「ものには拘りませんわ」

「僕のシャツ、くしゃくしゃにするのやめてくれよ」

「……ボリス。貴方はどんな育ち方をしましたの? 失礼ですけど、ただのお坊ちゃまじゃありませんわよね。普通のお坊ちゃまは古新聞でガラスを拭くなんて知りませんわよ」

「生活の授業でやったんだ。君は何にも知らないのかな、君こそどんな暮らしをしてきたんだい」

「もう、怒りますわよ! 鍬も満足に振れないくせに! 虫が怖いからって畑に入れないくせにー!」

「虫なんか怖くない! ただ気持ち悪いんだよあれ! 鍬だって、そのうち慣れてみせるさ!」

 シャツを挟んで言い合う僕。睨み合いは、唐突なベルの音で遮られる。

 僕は別として、フェニモールは友人が多い。こんな穏やかな昼下がりだ、誰かがお茶の誘いにでも来たのだろうか?

 彼女が無言で僕を見、顎をしゃくる。出てくれと言うことか。……それが気遣いであることはもう知っている。一ヶ月間、村に溶け込まなかった僕を、周囲は冷ややかな目で見ていることにも気付いていた。そんな状況を打破すべく、彼女はなるべく僕と周りの接点を作ろうとしてくれている。

 ……でも、もうちょっといい意思表示があるんじゃないかな? 愕然、唖然、呆然……あぁ、フェニモールには敵わない。

 しかし。ため息をつきながら開けた扉の向こうに立っていた人物に、僕は思わずぎくりとした。

「やあフェニモール。いい午後だね」

 そこにはひょろりと背の高い、白衣の男が立っていた。後ろに撫で付けた茶髪の髪と、皮肉めいた笑みを浮かべる顔。立ち尽くす僕を完全に無視し、男はずかずかと家の中に上がりこむ。

 “大人”が来た。

 この村の中には存在しない異分子。僕らをここに押し込めた奴ら。

 彼女を守らなければ、と思う僕の足は動かない。そしている間に男はフェニモールへ近付き、リュックを外すと身を屈めて向かい合う。

「頼まれてたものを持ってきたよ。ほらほら」

 男がファスナーを降ろす。僕が掃除に使ったのと同じ新聞がぎっしりと入っていた。

「ここには情報の類は持ち込めないからね。ちょっとばかし苦労したんだ」

「ありがとうございます、先生」

「いいんだよ。ついでに、特に大きな事件も混乱も起きてないことを教えてあげよう」

「……そうですか。良かった……」

「うん、うん。良いんだよ。フェニモール君のためならね、どんなお願いも叶えてあげたいからね」

 そういうと男はフェニモールの頭を撫でた。その指先で光る指輪、マリンブルーの宝石が午後の日差しにきらりと光る。

 目が奪われた瞬間、僕の足に自由が戻った。彼女の横に立ち、男を睨みつける。──見返す瞳は、深く淀んでいた。ここにいる大人たちにロクなのはいないだろう。でもコイツはさらに、危ない奴だ。僕の中の何かが騒ぎ立てる。

 かと言って、手を振り払うほど僕は教養のない子どもじゃない。……やりたくてもできないんだ、そんなこと。だから、この場には僕という存在もいるということをアピールするために挨拶をした。

「あぁ、君がボリス君だね」

 やっと僕の存在を認めた──と言うよりは、僕を初めて視界に入れたかのように男は頭を下げてくる。

「今日は検診ではないですよね。なんの御用でしょうか」

「……噂通り可愛くない子どもだねえ。フェニモール君、苦労してないかい」

「いいえ、ちょっとばかり口うるさいけれどボリスは良い子ですわ。ハクアス先生が心配なさるようなことはなにも」

「そうか。それなら良かった」

「だから、なんの用なんです?」

 僕をあっさりと無視して、フェニモールと仲良さ気に話す男が気に入らないので声を荒げる。す

ると男はまた思い出したかのようにあぁ、と呟いて口元を拭った。

「いいものを持ってきたんだ。フェニモール君が気に入ってくれるといいけどね」

「いいもの?」

「そう、君の願いに近付くんじゃないかなって。……オーラ!」

 男は開いたままのドアに向かって一言呼ぶ。すると、これまた白衣を着た水色の髪の女性が入ってきた。……小さな子どもを背負っている。白い髪の、三歳くらいの見慣れない子どもだ。

 この村に着て一ヶ月半。僕でもいい加減に村人たちの顔は覚えた。

 ──つまり、新たな村人だ。


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