ヴィレッジ

森亞ニキ

第1話 僕の愛せない世界



 ──彼女が死んだ。

 僕は事切れた彼女の瞼に手を触れる。けれども、薄い青い瞳に付いた泥を払うことは出来なかった。まだそんなことを考えてしまう自分は、彼女の死を受け止められていない。それでもあえて僕はもう一度呟く。彼女が、死んだと。

 雨はいつの間にか霧雨に変わり、悼むように森に染み渡る。世界から音が消えてしまったようにあたりは静まり返り、今この世界には僕と彼女だったモノだけが存在しているような錯覚を覚える。

 右手を服に押し付けてできるだけ滑りを落とし、僕は自分の左手に触れた。まだ彼女の手はしっかりと僕のそれに絡み付いている。だが、もう温もりを失い、硬直は直に訪れる。そうなったら僕は彼女を降り払うことができないだろう。

 それでも心を引き裂く思いで絡んだ手を解く。僕の左手にははっきりと、彼女の指の痕が付いている。……何度目かわからない涙の粒が、眼鏡の内側にぼたりと落ちた。

 もう届かないけど、僕は言うよ。君のことが好きだった。君の笑顔が、とてもとても大切だった。

「──フェニモール……!」

 僕の引き攣れた叫びの上に、霧雨は降り注いでいく。



 ──ヴィレッヂ──


 縫い合わせた布は、お世辞にも綺麗とはいえない代物。けれども僕は満足あった。ぴんと張った木の骨組みに出来上がったばかりの布をかけ、ロープで固定する。足元のペダルを回し、レバーを引くと骨と布は期待通りの動きを見せる。これならきっと風もぐんぐん切っていけるだろう。

 立ち上がり、僕は汚れた図面を覗き込む。計画通りに進んでいる。これならばもう次期出来上がる。そうしたら僕はコレに乗って、こんなところとはおさらばしてやるのだ。

「あとは翼を補強してやろう。雨に濡れても平気なように、油でも塗ってやればいいのかな」

 思案に耽っていると、玄関のベルが鳴らされた。……無視だ無視。どうせろくなことじゃない。

「それとも、方向転換がしやすいようにもう一つ翼をつけようか? いやいや、バネを足してペダルの力を増やしてみようか」

 またベルが鳴った。無視無視。

「うーん、違うな。そもそも僕の設計に間違いはないはずだ。このまま飛ばしてみてもいいんじゃないかな……」

「ボリス! いい加減に起きない、ボリスノークッ!」

 ……あぁ、鍵を変えたばかりだったのに。扉の破片と共に飛び込んできた怒声に、僕は嫌々振り返る。見れば、白いワンピースの少女がバスケットを片手に腰に手を当ててそこに立っていた。踏んづけているのは僕の家のドア。やれやれだ。

「君か。毎日懲りないことだ。器物破損がよっぽど好きと見えるね」

「好きじゃありませんわよ。まったく、起きていたなら返事くらいしてくださいまし」

「僕は忙しいんだよ。なにしに来たの?」

「皆もうお仕事をしていますわよ。それなのに貴方ときたら、今日もサボリですの?」

「……僕はこの村に居座る気はないんだ。だから仕事もする必要がない。こいつが完成したら、出て行くんだから。中途半端に耕されたら畑だって迷惑だろ」

「そんなのサボリの口実ですわ」

「そういう君こそサボってるじゃないか」

「ああ言えばこう言いますわね」

 少女はつんと唇を尖らせる。踏みつけていた扉からぴょんと跳んで栗色の髪を揺らすと、僕の顔をじっと覗き込んできた。彼女のアイスブルーの目に、僕の眼鏡の縁が映る。

「……皆、心配していますわよ。もう一ヶ月も経つのに、貴方と来たら引き篭もっていて」

「大きな御世話だよ。大体、僕らはまだ子どもじゃないか。本当だったら農作業なんてやる必要ないんだよ」

「農村の子は皆やってますわ」

「僕は違う。こんなとこにいる必要なんてないんだ。……だから、出て行くんだ」

「ボリス……」

「そんな悲しそうな顔しないでくれ。君も農民なんかじゃないんだろ、フェニモール」


 小さな谷に作られた小さな村。ヴィレッヂバレーという捻りのない地名の村。僕がこの村に来て一ヶ月経つ。

 ……僕はこの村が嫌いだ。ここは子どもしかいない不自然な村。だから本来、勉強に励むべき僕や、黄金のアンクレットなんて付けている身なりのいいフェニモールだって野良仕事をするしかない。あぁ、大嫌いだなにもかも。六歳の誕生日に、目覚めたらこんな田舎に置き去りにされていた僕。同じく世界のどこかから連れて来られた仲間達は、すっかり泥に馴染んでいる。そして夜にはお菓子を食べて楽しくパジャマパーティー……バカらしいだろ? やってられないだろ?

 いいかい、決して僕は野良仕事が嫌だから出て行こうとしているわけじゃあないんだ。このピノキオの国みたいな村が不気味で恐ろしいんだよ。自給自足をするという子どもたちで作った暗黙のルールもあるけど、実際は何をしていても自由。だって夜な夜な遊び呆けるほど食べ物はあるんだ。でも自分を律するために、昼間は皆働いている。

 もっと嫌いなのは、出口のない村どこからかやってくる大人たちの存在。……僕ら、まるでモルモットみたいじゃないか。こんな不自然な環境に閉じ込められてさ。それを箱庭じゃなくて方舟だとか意味のわからないことを言うあいつらにはうんざりなんだ。


 だから、僕は出て行く。一日目でそう決めた。それから一ヶ月掛けて、出て行くための飛行機を作っているところさ。……それをこの、フェニモールが邪魔しにくるんだ。

「朝ごはんは食べましたの? キッチン、全然使われてませんわね」

「勝手に見るなよ」

「サンドウィッチを作ってきましたの。ねえボリス、一緒に食べましょう?」

「いい加減にしてくれ、フェニモール」

 そうして傷ついた顔をするのも、いい加減にしてくれ、だ。

「君は、ここに居たいのか」

「ええ。この村はとってもいいところですの」

「僕はそうは思わない。君にも帰りを待つ人がいるだろ? 家族がいるだろう?」

「……私は、帰れない」

「僕だってそうさ」吐き捨てるように呟くと、アイスブルーの瞳が見開かれる。僕は麻のシャツにオイルで汚れた手を押し付けて、乱れた髪の毛を掻き毟った。……酷く行儀の悪いことだと知っている。けれども、それを咎める人たちはもう居ない。「僕だって捨てられたんだ。だからこそ、こんなところに居るんだよ」

「ボリス」

 フェニモールは自分の手が汚れるのを構わずに、僕の手を取った。反射的に引っ込めようとする掌を、力強く握る。

「ここを出て、どこにいくつもりですの」

「……フロステルダにでも行って、雷鳴竜様に会ってくる。僕の家は熱心な雷鳴竜の信仰をしていたから、少しくらい力になってくれるかもしれない」

「どうやって? 魔物たちの世界だって聞きましたわよ」

「じゃあ、ここじゃないどこかだ。ここから出れるなら、どこでもいいよ」

「ボリス……」

「そうやって僕を引き止めるのをやめてくれよ」

 彼女の手を振り払い、僕は飛行機の側にしゃがみこむ。

「ここには馴染みたくない。そんな必要はない。僕は、外へ行くんだ」

 もう行ってくれ。その言葉に、彼女は酷く悲しそうな顔をして出て行った。……僕は胸が痛むのを感じながら、ふと視界が曇っていることに気がついた。……眼鏡が皮脂で汚れているのだろう。その曇りは、彼女が置いていったサンドウィッチを口に押し込んだ途端、さらに酷いものになってしまった……。


 次の日も、また次の日も、懲りずにフェニモールはやってきた。

 僕は彼女を冷たく追い払い、彼女の作ってくれたサンドウィッチを食べ、その都度視界を曇らし。

 既に完成した飛行機を、いつ飛ばそうかと考えあぐねていた。

 ……もし、もしも。フェニモールが一緒に行くと言えば。連れて行ってやらないこともない。

 けれども彼女は絶対に誘いに応じない。ここにいる。この村が好き。そう言って絶対に応じてくれない。


 そのまた次の日。空は朝だというのに曇り、雲は崩れ落ちそうなほど重くどんよりとしていた。

 春だというのに冷たい風が吹き荒れる。──嵐が近付いてきていた。

 ろくに魔法も使えない僕が作り上げた飛行機は、風がないと飛べない。強風を翼で包み、足のペダルで風に乗っていくものだ。今日は絶好の飛行日和だともいえるだろう。

 それなのに、まだフェニモールはやってこない。最後の最後、もう一度誘ってみよう、だから彼女を待とうとする僕の心とは裏腹に、ぽつりぽつりと雨が降ってきた。

 風はいい。けれども雨は困ったものだ。──猶予はない。出て行くなら今しかない。

 彼女のことが気がかりなまま、僕は勝手に吹っ飛んでいきそうな飛行機に乗る。半ばうつぶせに寝そべるようにして、両手でしっかりとバランスを取る。

「さよなら、フェニモール」

 決別を口にして覚悟が固まった。地面に挿してあった杭を蹴り抜いて、谷を吹き抜ける強風を捕まえる。──僕の信じた設計の通り、僕の体は宙に浮いた。暗い空を雷鳴が走り抜けていく。それを道しるべに、ぐんぐんと飛翔して行く。

「ボリスノーク!」

 雨粒が散る眼下の草原に、フェニモールが立っていた。バスケットを放り出して追いかけてくる。バカだな、両手を伸ばしたって届くはずないだろう。……それなのに、僕だって、バカだった。

「フェニモール」

 こんなにも離れていたら、聞こえるはずないのに。あと少し待てば、彼女が今日も僕のところに来てくれていたということに苛立ちと悲しみを込めて名前を呼ぶ。

 村はどんどん小さくなる。赤い屋根の家は遠ざかり、黒々とした森の上に僕は流されていく。フェニモール姿はもう豆粒ほどの大きさになっていた。森の果ての遥か遠くに、町のようなものが見える。僕の胸は躍った。

 ──その時だった。あんなにも黒々としていた空が真っ白に光る。轟く雷鳴で空が割れ、飛行機の翼を貫いた。……衝撃に息が詰まり、硬直した体は投げ出される。眼下の針葉樹は剣のような枝を振り上げ、僕を待ち構えていた。

 これは罰か。

 期待されていると思っていた。それなのに、家族にとって邪魔者だった僕。分相応に、周りを見下していた。

 行き着いたこの村。嫌いで嫌いで、浅知恵を働かせて逃げ出した僕。彼女を傷つけながら、甘えていた。

 ──ごめんなさい。

 涙が眼鏡の内側を叩く。



「ボリス、ボリス……しっかりしてくださいませ、ボリス!」

 フェニモールの泣き顔が僕を覗き込んでいる。土砂降りの雨から、大きな木が僕と彼女を庇っていた。

 ……意味がわからない。僕は呆然と、地面に転がったまま目線だけ走らせる。粉々に折れた飛行機の破片が散らばって……おかしいな。僕だって、そうなるはずだったんじゃないのかな。

「ボリス。私の声が聞こえてませんの? 返事、してください」

「……聞こえてるよ。僕、どうして生きてるんだい?」

 恐る恐る体を動かしてみる。どこも痛くない。それどころか、まったくの無傷だ。

 僕の問いに、フェニモールは顔をくしゃくしゃにて笑う。起き上がった僕にぎゅっとしがみ付く彼女の体は熱く、少しだけ雨に濡れていた。

「良かった、あぁ、良かった! ボリスが無事で……!」

「フェニモール。教えて、僕、どうなったの?」

 すると、彼女は僕を正面から見つめて節目がちに微笑んだ。なんだ、と首を傾げる僕の前で、後ろの木が動く。そう、木が動いたのだ。木だけじゃない。風が、雨が。全てが、まるで生物のように……あぁ、僕は頭を打ったのかな。

「皆が助けてくれましたの」

「これは……君が? 君、魔法が使えたのかい」

「貴方を守れて、良かった」

 そういう彼女を見て、はぐらかされたとか、誤魔化されたとか。そういう感情は浮んでこなかった。それよりも、強烈な後悔が胸に押し寄せてくる。

「……ごめん」

「なんですの?」

「君を置いていったから、バチが当たったんだ。あんなに毎日、僕に良くしてくれたのに……本当にごめん、フェニモール。どうか僕を許して欲しい」

「顔を上げて」

 小さな掌が僕の頬を包み込む。アイスブルーの瞳はどこまでも優しく、まるで大人のような目だった。……彼女は僕よりも一つ年下なはずなのに。僕はどこに出しても恥ずかしくないほど、子どもだ。

「私、ちっとも怒ってませんわ。私こそ、許してもらうべきですの」

「何故?」

「……私、今の力を持っていることを誰にも言えなかった。だから貴方にも黙っていた。でももっと早く打ち明けていれば、貴方はこの村から出て行けた。その手伝いができたのに」

「いいよ、もう。だって、君はこないんだろ?」

「……えぇ。」

「それならいい。もういい。僕も行かないよ」

 僕は少し緊張しながら手を伸ばし、彼女の睫毛に付いた涙を拭った。……僕のために泣いてくれたのは、君が初めてだった。親だって泣かなかったのに。唇の内側まで出かかった言葉を飲み込んで、僕は彼女に誓う。

 誰も待っていない外よりも。僕を惜しむ彼女の隣でと。

「村に馴染めるよう努力する。だから、君の傍に居たいんだ」

 フェニモールは答える代わりに僕に抱きついた。

 顔を上げたとき、嵐はいつの間にか通り過ぎ、村にはいつもより少し遅い朝の鐘が鳴り響いている。


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