彼女のこと 二年目


 そして僕は、二年生に進級した後も学級委員となる。

 まんまと生徒会の思惑通り、と言えなくも無い。もっとも、他にやりたがる人が誰もいなかった、という事情もあるけれど。

 意外と言うべきか、それとも予想通りと言うべきか。東森さんもまた学級委員を続投した。僕らは再びコンビを組むことになったわけである。

 僕は前にも増して、東森さんに無茶な仕事をさせないよう気を使うことにした。危険から遠ざけたほうが、彼女が倒れる確率も下がるだろうから。

 ところがここで、予想外の問題が生じる。

東森さんが、どうせ死ぬかどうかの毎日なら、自分の身体を有意義に使おうとしだした。有り体に言えば、誰かの身代わりになりまくったのだ。

 この学校、騒動には事欠かないので、いたるところに危険がある。ただ、何故か死人が出ることはなく(元から死んでいる幽霊の先輩はいたけど)そうそう命の危機に陥ることはない。

それでもやっぱり危ない瞬間というのはあって。そして東森さんが、そういう現場に結構な頻度で出くわして、誰かを庇っては自分が犠牲になる、という日が後を絶たなかった。

 この偶然性は、恐らく東森さんの「何かに巻き込まれて終わる」という、サイクルの原則によるものだろう。トラブルを呼び寄せるのではなく、トラブルに近づくようになったのだ。

 自分の不気味な体質を有意義なものにできた、と、彼女は喜んでさえいた。

対し、そのカラクリを知る僕は、とても不安な気持ちを抑えられないまま、何度も何度も注意した。危ないことは止めて、と。

 しかし結局、東森さんのその衝動的な行為を止めることは、最後まで出来なかった。

 橋口さんの友人が来日、というか、留学してきたのは、そんな春の終わり頃である。


「トモリさんは夢です」

 タニアさんはそう言って、白磁のカップに口をつけた。取っ手が猫の意匠になっていて、受け皿に置かれると顔をくしくしと洗っていた。

 僕の方に出されたカップの取っ手は耳の垂れた犬の意匠で、手に持つと腹まわりの毛並みがふさふさとこそばゆかった。

「夢、というと」僕はカップの中の黒く冷たい液体を一口飲んだ。「やっぱり、橋口さんが言ってたとおり、本人じゃないんですか」

「ええ、本人じゃないです」

 どうにも信じられないなぁ、と僕は首をかしげた。

「夢だから、実体は無いんですよね?」

「はい、無いです」

「でも……僕らの認識は騙せるとしても、東森さんは普通に物理的なことをやってますよ? プリント配ったり運んだり、ぶつかったり机動かしたりノートとったり」

 これは橋口さんもよく分かってなかったことだ。ただ、だからと言って、どうということでもないので「まあ、別にいいか」と二人ともうっちゃっておいたのだけど。

 この機会に専門家に聞いてみるのもアリだろう。

「それはトモリさんの力が強いからです」タニアさんは、うーん、と喉を鳴らした。「夢見人の逆、夢見せ人の素質がありますです。頑張れば、魔女になれるかもしれないです。でも、お聞きした話です、トモリさんは事故で夢を見るようになったので、今だけの力かもしれないです」

 来日して間もないタニアさんの日本語は、ところどころ「ん?」となるけれど、その程度で済むのは、むしろ凄いことだろう。

「夢見せ人?」

「夢を見て旅をするのが夢見人です、その逆に、他人に夢を見せるのが夢見せ人です。でも夢見せ人は私の造語です。日本には無い言葉だからです」

「えーと、じゃあ、今タニアさんが僕に夢を見せているのも、夢見せっていう力なの?」

 違うです、と頭を左右に小さく振ると、タニアさんは大理石と象牙で作られたポットを僕の方へ押してきた。

 僕は受け取ったポットから自分のカップに中身を移す。

「お味はどうです?」

「うん、この炭酸は多分コーラかな」僕はもう一度液体を飲む。「美味しいです」

 タニアさんはにっこり笑うと、同じポットを引き寄せて自分のカップに注いだ。

 注ぎ口からは、薄っすらと白い湯気が立ち上って、すぐに消えていった。

「タニアさんのは?」

「私のはグリーンティーです。日本ではお砂糖を入れないのが作法なんです」

「うん、まあ、そもそも日本じゃ紅茶以外には砂糖を入れないんですよ」

「わびさびを楽しむんです?」

「どっちかっていうと渋みかな」

 わびさびって味は無かったと思う。

「今、あなたのカップに注がれたのはコーラです。これはあなたが飲みたいと思ったから、または、中に入っているのがそうだと思ったからです」

 タニアさんは自分のカップの中身(緑茶)に口をつけて一息。

「もし私が夢見せ人なら、あなたの思ったものではなく、私が飲ませたいと思ったものを、なんでも自由に注がせることができますです」

 つまり、他人の夢を見るのが夢見人、他人に夢を見せるのが夢見せ人、ということだろうか。

「……あれ、じゃあ今いるこの『どこでもない場所』って……」

「ええ、あなたが見ている夢に、私がお邪魔しているだけです」

「……これ僕の夢かぁ」

 自分が手にしたカップに視線を落とすと、取っ手の犬が興味津々で中のコーラを見ていた。

「あ、このティーセットは私が持ち込みましたです。眠りの世界で今人気の工房なんです」

「夢の世界って凄いファンタジーなんだ」

 そもそも夢の中ってだけで十分ファンタジーか。

「よろしければ今度ご案内いたしますです」

 タニアさんは、ふふ、と微笑みながら、上品に時間をかけて緑茶を飲み干した。

「――さてです」

 飲み終えるまでの無言の時間で仕切りなおしを図ったのか、彼女は本題に戻った。

「実体の無い者が実体のある物に働きかける例は珍しくないです。トモリさんもそうです。彼女の夢は力が強いので、目覚めの世界であっても眠りの世界のように振舞うことができますです。丁度こうするようにです」

 タニアさんはテーブルの真中あたりで、テーブルクロスをつまんで引き上げてみせる。

「こうした動作を、トモリさんの夢は目覚めの世界でも問題なく行えるというわけです」

 タニアさんが指を離すと、テーブルクロスは元に戻る途中で何かに引っかかった。

「あら、下に何かあるのです?」

「お菓子かな」

「これは……お茶請けです」

 タニアさんは指でテーブルクロスをなぞって切れ込みを入れると、そこから抹茶ロールケーキを取り出し、開いた穴をまた指でなぞって閉じた。跡はどこにも残らなかった。

「切り分けておきましょうです。さてトモルさん、トモリさんが卒業した後に何かあるという話についてです」

「はい」

 僕は姿勢を正し、座っていたブナ材の椅子の位置を足で直した。座る前はプラスチック製だった気がするけれど、たぶん座ってる途中で変わったのだろう。

「正直に申し上げて、私にはそれが何であるか、今はまだわかりませんです」

「わからない、ですか」

「トモリさんを一通り視てみましたが、特に問題があるとは思えませんです。アヤから聞いていたとおり、一日の繰り返しに不純物が混ざってはいますです。けれど、それでも基本的には健康的な女性が見る夢でしたです」

 首を傾げつつ、タニアさんは角砂糖のナイフでケーキを切り分けていく。

「心配な点としては、寝たきりによる身体への負担が見えるぐらいです。でもそれも命に係わる程とも思えませんです。アヤの見立て通り、夢で日々を過ごすことで本人の身体にも刺激がいっていますから、筋肉も維持されているようです」

「一年経ったのが今の状態だけど、二年後も大丈夫なのかな」

「流石に、目覚めてすぐ歩いたりできるとは思えませんです。もっとも、それは専門のお医者様でなければ分かりませんけれどです。でも、それでもやはり、深く心配するほどのことでも無いと思いますです」

「うーん……じゃあ肉体的な問題じゃない、ってことなのかな」

「かもしれませんです」タニアさんは切り分けたケーキを一皿こちらに渡す。「あとは本人が、これが夢だと自覚しているかどうかです」

「え?」僕はお皿を受け取る。「ああ、そういえば東森さんに直接聞いたことなかったっけ。橋口さんが止めとけって言うから……」

「アヤの判断も無理はないです」

タニアさんはケーキを口にしながら、抹茶味というだけではない渋い顔をした。

「夢と明晰夢は似て非なるものです。トモリさんが、元からこれが夢であると自覚しているなら問題はありませんが、仮にそうでなかったとしたらです……」

「なかったとしたら?」

「今の自分の現実が夢だと知ったら、心に負担がかかるかもです」

「負担……」

「トモルさんは、終わらない夢にうなされた経験はありませんです?」

「うん、ある」

「もしそれが何年もずっと醒めない夢だったとしたら、どうです?」

「それは……」

 それは、とても息苦しく、とても辛い悪夢だろう。

「最悪の場合、発狂してしまうです」

「はっ……!」

「最悪の場合です。夢を見ている間は現実と同じですから、仮に本当の事を教えても冗談と思われるかもしれませんです。それよりもっと起こりうるのは、夢の不安定化による消滅です」

「それ、そっちのほうが最悪の場合なんじゃ」

「いいえ、消えてしまうのは夢だけです。トモリさん本人が消えるわけではありませんです」

「でも……東森さんの夢は消えてしまう、と」

 タニアさんは頷いた。

「訓練をしていない人にとって、明晰夢はとても不安定なものです。すぐにまた普通の夢に戻るか、あっという間に目が覚めてしまうかです。けれど、彼女の場合、目覚めることは身体次第です。ということは、身体が目覚める前に夢が消えてしまうと――」

「身体が目覚める時まで……夢を見ることは、ない……?」

「です」

 正確には、かも、です。とタニアさんは訂正した。

「でも、これまでの一年間、ずっと気づかずに過ごせるものかな」

「そうですねぇ、です。どこかで気づいていても、おかしくはないです。でも、今のところ私にはその判断がつきませんです。もう少し、トモリさんとお話をしてみようと思いますです」

「お願いします」

 僕はタニアさんに頭を下げた。

門外漢の僕には、専門家のタニアさんに全部頼るしかない。どんどん物騒な事態が明らかになってきている上、そもそも男子の僕が女子の東森さんに深く関わるのは難しい。橋口さんやタニアさんがいなければ、手詰まりだったかもしれない。

 頭を上げると、テーブルの向かい側で、タニアさんが何故か嬉しそうに僕を見ていた。

「トモルさんは、トモリさんが好きなんです」

 僕は無言でゆっくりとポットから得体の知れない黒い液体をカップに注いで一口に味のしない何かを飲み干した後またポットからカップに半分まで注いだところでポットを置きしばらく手を止めてからカップの中身を飲み干してポットを横方向に半回転させた。

「おっしゃっている意味がよくわかりませんでした」

「アヤからそう聞いてますです」

「橋口さぁーん!」

 思わず無意味に絶叫してしまった。今ここに橋口さんはいないのだ、いくら夢の中だからといって名前を呼んでもひょっこり出てくるはずがない。僕はもう駄目だ。

「違うのです?」

「えぇ――――…………と」 僕は長い前置きを一つ置いた。「……誰にも話さないで内緒にすると約束してくれますか?」

「それではお聞きしませんです」

 つまり「内緒にしたいということは、そういうこと」と気づいたのだろうか。

 ありがたいような情け無いような恥ずかしいような。

 誰か僕を殴り殺してください。

「さて、気になることも沢山ありますけれどです」

 タニアさんは透明なナプキンで口元を拭って、締めの言葉に入る。

「今のところ生徒会が言ったような危険な様子は見られませんです。しばらくはトモリさんの様子を見て、もし大丈夫なら少しずつ本当の事を話していこうと思いますです」

「そうしていただけると。でも、あの、それでタニアさんの方は大丈夫なんでしょうか」

「大丈夫です。アヤも手伝ってくれますからです。それに日本の生活も面白いです、やっぱり来て良かったと思っていますです」

 その後も、社交辞令のようなやり取りを二言三言交わして、僕らは席を立った。

「それではトモルさん、また明日、いえ今日も学校でよろしくお願いいたしますです」

「こちらこそ。また後でね」

 はい、またです。と言ってタニアさんは去っていった。

 こうして僕の夢は終わる。


 僕らと同い年とはいえ、タニアさんは確かにその道の専門家だった。魔女として、また夢見人として、東森さん以外の件でも、彼女には何度か助けてもらった。

 ただ。専門家であるがゆえに、彼女は大きな見落としをしていた。

それは、夢を見ることに長けた人にとっては、防ぐことが当たり前すぎて、気にかける必要がまったく無いものだったのだ。

 二年生の終わり。再び生徒会の前に立った僕は、それを突きつけられることになる。


 「それで」

     「なにが」

         「なにを」

             「望む?」

 一年ぶりの問いかけが、僕の前に出される。

 僕は、この一年の間に考えた問いかけを胸に抱く。

 悩みもした、相談もした。その上で決めた問いだ。

「東森さんに、卒業した後、どんな問題が起きるの?」

 生徒会に対して、望んだ答えが返ってくるように整えた言葉を、僕は告げた。

 橋口さん達からアドバイスを受けて、降霊術などで使うポイントを押さえたものだ。質問の範囲があやふやだと関係のない答えをされてしまうし、限定しすぎると狙いを外してしまう。

こちらが望む答えを、相手が答えざるをえない、そんな問いかけにすることが大事だった。

 いつ。卒業するまでは安全だということは分かっていた。だから何か起こるなら卒業後だ。

 どこで。本物の東森さんは入院しているから、そこから動くとは思えない。だから聞く必要は無かった。

 だれが。あえて聞かない。東森さん以外に関わってくる人間がいるならともかく、いないのであれば聞くだけ無駄になってしまう。

 どうして。これも聞かない。結果を聞くことができれば、おのずと原因もわかるだろうという判断だ。

 どのように。どうなるか。絶対に聞きたいのはこの二点。何が生じ、どんな結末になるか。

だから「どんな問題が」という言葉を入れた。問題、と定義したのは、わざとどうでもいいことを答えられてはぐらかされてしまうのを防ぐためだ。僕らは東森さんに何が起こるのかを知りたいのであり、そしてそれは、恐らく何らかの良くないことだろうから。

「…………」

 狙いは絞った。口に出した。後は黙って答えを聞くだけだ。

「東森委員は」

      「目覚める」

           「目覚めて」

 そして声は言う。

「記憶を――」

      「――失う」

 ……なんだって?

「記憶を、忘れるって、こと……?」

 あまりにも予想外の答えに、僕の声が上擦る。

「学校生活の」

      「全て」

         「三年間の」

              「全てだ」

 声は無感動に告げてくる。

「なんで。なんでそんなことに……」

 なんで。

 なぜか。

 ヒントは「三年間」という期間にあった。東森さんの高校生活の全ての時間。そしてそれが目覚めと共に失われるということは。

「……東森さんの、夢」

 声は応える。

「そうだ」

    「夢の終わり」

          「夢が終わり」

                「夢が消える」

 東森さんは入学してから一度も学校に来ていない。全て夢を通して見聞きしていた。

 目覚めと共に夢は消え、夢と共にその記憶も失われる。

 僕らが、朝見た夢を覚えていないように。

「それは絶対に、絶対に忘れてしまうの? 全部……?」

 声は無慈悲に無感動に応える。

「そうだ」

    「そうだ」

        「そうだ」

 そして残酷な希望を与える。

「このままでは」

 ……このままでは。

 このまま何もしなければ。

 それじゃあ、打つ手はあるというのか。

「どうしたら……」

「一つだ」

 声は、無慈悲に突き放す。

「質問は一つだけだ」

         「それ以上知りたくば」

 一年前と同じ、会話の終わり。

 その後の流れも一年前をほぼ踏襲した。

 異なるのは、生徒会室を出るまで、僕の足がしっかり床を踏みしめていたことだろう。

 既に頭の中では色々な考えが渦を巻いて、今のやりとりを記憶に刻みこんでは、どうすれば良いかを自問し続けている。

 僕は教室に向かって足早に歩き出した。


 生徒会の答えに対し、橋口さん達が一番問題視したのは「タイミングの不明」だった。

 夢を忘れ去ってしまうのは、一瞬の出来事だ。それまでは確かに覚えていたのに、目が覚めると何もかも思い出せなくなってしまう。それと同じで、東森さんが三年間を忘れてしまうのも数秒に満たないだろう、と。

 夢を忘れないようにするには、目覚める時に、夢の内容を記憶に留めなければならない。

 だけどその目覚めるタイミングが分からない。卒業からいったい何日で目覚めるのか。何時に、何分に、何秒に目覚めるのか。それが分からなければ、その場に立ち会うことはできない。

 まさかこんな真実だったとは思わず、時期についてを省いて質問を絞り込んだのが裏目に出てしまった。どうしてそれに気づかなかったのかと、タニアさんは自分を責めたけれど、誰にこんなことが予想できただろうか。

 高校の三年間。その全て忘れてしまったら、東森さんには中学までの記憶しか残らない。思い出も、努力の成果も、全て無くなって、残ったのは三年間眠り続けていた身体だけ。

 それは、あまりにも悲劇にすぎる。

 僕らは対応策を話し合った。東森さんが目覚めるのを止めることはできないし、夢が消えていくのを止めることもできない。けれども、忘れさせないことはできる。生徒会が言ったように、思い出を残すことは不可能ではないはずだ。

 そこは流石に専門家、タニアさんは自分の知識に基づいてその方法を考え出してくれた。それに必要な準備や根回しは、主に僕が請け負うことになった。学級委員として方々に顔を出していたことで、気づけば人脈が築かれていたのだ。

 そして話は最初に戻る。そう、一番の問題。東森さんの目覚める時がいつなのか。

 それが分からなければ、全ての努力は無に帰すのだ。

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