彼女のこと
彼女のこと 一年目
最後に、東森さんについて語らない。これは長い話になる。
彼女は僕と同じ学級委員で、三年間一緒に仕事をやってきた。
眼鏡をかけた、お下げ髪の子で、背丈は僕と同じぐらい。普段は小動物みたいに目立たず前に出ないけれど、何かあると一番に動いては無茶をするので、みんなをよくハラハラさせた。
見た目や性格に派手さはないけれど、よく気がつく人で、僕はそれが、なんだか良いなと思っていた。
東森は「とうもり」と読む。のだけれど、言いにくいのと、親しみを込めるのもあって、みんな(特に女子)からは「ともりさん」と呼ばれていた。
それは(可愛らしいから)良いのだけれど、困ったことに、僕の名前は「徳井ともる」というのだ。仮に「とも」とだけ呼ばれると、どっちの学級委員を指しているのかわからない、ややこしいことになってしまう。
なので僕らは基本的に苗字で呼ばれる。「とも」なら東森さんで、「とく」なら僕と判断できるから、聞き取りにくい状況でも何とか意思疎通がとれるのだ。
もっとも、一部の女子は、彼女を名前の「詠子ちゃん」で呼んでいたけれど。
閑話休題。
僕と彼女は三年間学級員として共に働いた。言ってしまえば同僚のような間柄だったから、気づけば互いのことが互いにわかる、そんな親しい関係になっていた。
時には生徒会の気まぐれで彼女に殴り殺されそうになったこともあったけど、今となっては良い思い出の一つだ。(ただし僕にその時の記憶は無いのだけれど)
ところで。
僕は東森さんと、実は一度も会ったことがない。
最後に語らないのは、そんな彼女についての話だ。
●
四月はじめの朝。高校の入学式から休日を挟んで数日後の始業式の日、僕たち新入生はこれから三年間通うことになる学校の門をくぐった。
同じ中学校だった人、違う中学校だった人。見知った顔よりも、見知らぬ顔ばかりの教室で、互いに話しかける勇気もなく、さりとて緊張するほどでもなく、僕らは朝のホームルーム前の時間を静かに待っていた。
やがて、一人の男性教師が、紙束の山を抱えて教室に入ってきた。
顎鬚をうっすら蓄えた、ちょっとベテランっぽいと思わせる顔つきをした先生で、煙草を咥えさせたら、きっと似合うだろうな。と僕は思った。
その先生は紙束を教卓に、よっこらせ、と置くと、僕らの顔をぐるりと見渡した。
「よしよし、みんな席についてるな。あー、これから一年間、担任になるウラカワだ。裏技の裏に、さんずいのほうの河と書いて裏河。ウラガじゃないからな、先生は水道じゃないぞー」
みんな浦賀水道に思い至らなかったので、裏河先生の冗談は誰にも理解されなかった。
先生は紙束(ホッチキス綴じの各種ガイダンスについて)を配った後、出欠の確認を取った。一クラス分の名前が順番に呼ばれて、僕も「徳井ともる」の声に「はい」と答えた。
「東森……は、飛ばして」
その途中、先生は返事を待たずに東森という人――順番からいって女子生徒だ――の欠席を確認した。
この時は、出席番号順の席順になっているから、空の席を見ただけで判断したのだろう、あるいは事前に欠席の連絡があったのかもしれない、と僕は思っていた。
「よし、と。さて」
東森さん以外全員の出席を確認した先生は、出席簿を教卓に置いた。
「今日病欠している東森だが」先生は特に問題のないように言った。「ちょっとしばらく学校に出て来られないそうだ。まあそのうち来るだろうから、その時はよろしくな」
その口調はあまりにもあっさりとしたものだったので、僕は「ふうん」としか感想を持たなかった。「病気って、なんのだろう」ぐらいは思っていただろう。
先生の話題が、始業式と今後の学校生活についての説明に移っていったので、それ以上のことを思ったり考えたりする暇もなく。僕はすぐに東森さんという人のことを忘れてしまった。
翌日。
「入院してるようだ」
朝、教室に入って早々、そんな話を聞かされた。
「入院してるって、あそこの」僕は誰も座っていない席を目線で示した。「あの席の人?」
そうらしい、と古寺くんは伝聞推定で答える。
古寺くんは中学が一緒だった、この学校の中では数少ない古い友人だ。中学では柔道部に入っていて、そのせいで体格は縦も横もがっしりしている。外見は、書道で使う文鎮を縦にしたような、なんだか堅そうな印象だ。反面、愛読書は「四字熟語と慣用句辞典」と言い張り、なおかつ休み時間も黙々とページを捲っている変な人だけど。
「先週、環状線で玉突き事故があっただろ」
「あれに巻き込まれたの? それは……酷いね……」
入学式の翌日くらいだろうか、この学校からそう遠くないところを走る環状線で、大きな事故があった。数十台ぐらいが巻き込まれて、TVがひしゃげた車やトラックの凄惨な映像を流していたのを僕も見た。あまりの酷さに、気分が悪くなって途中でTVを消したけど。
「あくまで噂だがな。意識不明の重態だとか植物状態だとか、聞くたびに怪我の度合いが違っている。もしかしたら人違いで、本人は事故と関係ないかもしれん」
「そのほうが良いよ」
ああ、と古寺くんは頷いた。
「以前、大会で他校の選手が欠場したことがあってな。理由を知らん俺達の間で、入院だの重病だの色々言われたが、当のそいつはただの風邪だった。そんな風に、噂なんて針小棒大に話が膨らむものだ。どこまで本当で、どこから尾ひれか分かったもんじゃない」
「伝言ゲームみたいだね」
「原理は同じだろう。なんにせよ大事無ければ良いんだがな」
「うん……」
見たことも会ったこともないけれど、クラスメイトとして、僕はその人の無事を祈った。
入学した矢先に事故で学校に来られなくなるなんて、それは、とても悲しいことだから。
などとやってる横で、その空だった席に誰かが座った。
教室中の視線がそこに集まる。
席に座った女子生徒は、横にいる眼鏡をかけた別の女子生徒と何事かを話している。
「座席は出席番号順だから覚えやすいだろう。昨日は欠席していたから、プリントの類は後で職員室に取りにいかないといけないか。良ければ一緒に行こう」
「いえ、大丈夫です」
「大丈夫かな? 職員室の場所も知らないだろう」
「あっ、そうでした……」
「というか、よく考えたら、まず職員室に顔を出すべきだったね。どうも案内する場所を間違えてしまったようだ」
「それは、私が、教室の場所を聞いたから……。橋口さんは悪くないよ」
「いや私が悪い。だからお詫びに案内させてくれ」
このあたりで他の女子生徒達が集まってきたせいで、二人の会話は中断されてしまった。
みんなは口々に「東森さん?」「大丈夫?」「入院してたって聞いたよ」「大怪我だって」「私は病気って言ってるのをさっき」などなど、心配そうに労わりの言葉をかけていた。
すると、あれが東森さんなのだろうか。
僕ら、というか男子陣は遠巻きにそれを見ていた。
こういう時、男という生き物は女子に話しかけられないものなのだ。
「随分と、あっけないオチだったな」
「うん……」
本当に心配しただけに、肩透かしもいいところ。
さっきの古寺くんの話ではないけど、本当にただの病欠だったようだ。
この時は、そう思っていた。
●
入学から先は色々なことがあった。
僕は特に入りたい部活もなかったので、ほとんど興味本位と、少しの打算(つまり内申書)のために学級委員に立候補。そして後に生徒会の正体を知って激しく大後悔した。
女子からは東森さんが学級委員になって、僕ら二人は主に生徒会がぶん投げてくる仕事をほぼ毎日片付けることになった。
一年の頃は、まだ同級生もそこまで人界の道理を踏み外していなかったから、大抵は便利な小間使いのごとく、先輩の学級委員の仕事を手伝ったり、上級生が起こした事故の後片付けに借り出されたりするのが、僕らの役割だった。
だいたい生徒会のせいで、毎日が事件な高校一年の一学期は、慣れてないのもあって、一番辛かったように感じられる。ただ、後から記憶を取り出そうとすると、不思議と楽しかった思い出しか見つからない。どうやら人間の脳は、喉もとを過ぎた熱さを忘れやすいらしい。
心身ともにへとへとになりながら、高校最初の夏がやってくる頃には、なんとか生活にも順応しはじめていた。僕の中の常識にとっては、だいぶ不本意な気もしたけれど。
東森さんは身体が弱いのか、よく倒れたり巻き込まれたり死んだりしては、保健室にかつぎ込まれたり早退したり欠席したりした。なので必然、肉体労働的な仕事は僕の受け持ちになった。これでも男だから、という自負は多少あったかもしれない。
当時の僕にとって、東森さんは「よく死にやすい人」ぐらいの認識だった。なにしろ他にもっと変な人達はいたので、彼女もそういう一例だろうと思っていたのだ。
それがどうも間違っているようだと知るのは、夏休みに入る前のことである。
●
期末テストも、テストの返却も終わって、長期休暇へのわくわく感と、いったいどれだけあるのか考えるのも嫌になる宿題の山をどっさり抱えた、そんな七月の下旬。
「入院してるようだ」
グラウンドの端にある木陰のベンチに腰掛けていると、隣に座った古寺くんが開口一番にそう言った。あまりに脈絡が無かったので、僕には何の話なのかさっぱり分からなかった。
ワッという歓声が上がる。
僕はスコアボードに得点を書き込んでから、主語を尋ねた。
「誰が?」
「東森が」
んー、と僕は今日の東森さんを思い出す。
「東森さん、今日はまだ死んでないよ」
「あれは殺しても入院するほど死なないだろう」
事切れても翌日には普通に登校してくるからなぁ。
「じゃあ、何の話なの?」
古寺くんの言わんとしていることが分からない。入院することのない東森さんが入院するというのは、矛盾ではないだろうか。
何か思うところがあるのか、それとも言い出しにくい事なのか。古寺くんはベンチに座ってから、ずっとこっちを振り向かず、ただグラウンドのほうを見続けていた。その目はサッカー部と野球部の対決を見ているようで、たぶん今見えるものは何も見てはいない。
「これは神保から聞いた話なんだがな」
「神保くんが?」
クラスメイトの、男子陸上部の人だ。裏表のないストレートど真ん中な性格で、みんなからなんだかんだと好かれている。あまり深く考えないのが玉に瑕。
「あそこの」古寺くんは遠くの丘の上にある白い建物――大学病院だ――を指差した。「あの病院に行った時の話らしい。本当はお前に話したかったらしいが、教室にいなかったからな。その場にいた俺に相談してきた」
「あー、僕こっちにいたからね。でもなんで僕に?」
「東森本人には、デリケートな話だから、聞かないほうが良いと思ったんだろう」
「神保くん、空気読めたんだ」
「驚きだ」
意外と深く考えられるのかもしれない。
「相談……と言うのは大袈裟か。自分だけではよく分からん事を、誰かに話して正解を知りたかったのかもしれない」
「そんなに、ややこしい話なの?」
「ややこしくはないが」古寺くんは頭を振る。「謎ではある。俺も話を聞いただけではよく分からなかった。で、これからその聞いた話をしようと思うんだが」
「前振りだけで、僕の頭はいっぱいいっぱいだよ」
まるで映画を見る前に、前評判と予告だけで内容が分かってしまったような気分だ。
思わず身構えずにはいられない。
「本筋は単純だ。たった一言で済む。というかさっき言ったが」
「入院……。東森さんが、ってこと?」
「ああ」と古寺君は頷く。
「ごめん、僕には理解できない」
説明不足すぎて意味がわからない。
入院していない東森さんが入院している。
どういうことなのだろう。
「だろうな。順を追って説明すると……」
そうして、古寺くんは神保くんの話を語り始めた。
そもそも、何故神保くんが病院を訪れていたのかというと、部活中に捻挫した人を神保くんが運んだためだという。保健室で処置してもらった後、念のために病院へ送ったそうだ。車とかじゃなく、神保くんが担いで。徒歩で。
いくら近場の病院だからって、無茶するなぁ。と、この時は思ったけれど、後になって振り返ると別段変とも感じないから、変な人たちの変人度の成長ぶりは凄まじい。
さて、普通ならそこで診察を受けておしまい、となるところだけど、そうはならなかった。というのも、そこで神保くんは休憩中の自分の母親とばったり出会ってしまったのだ。
神保くんのお母さんは病院に勤めているらしい。そこでどんな会話をしたのかについては、詳しい内容は語らなかったし、今ここではあまり重要ではない。重要なのは、その中で東森さんの名前が出たことだ。
丁度その日、東森さんは派手に死んでいた――ということは、これは一昨日ぐらいの出来事だと推測できる――ので、神保くんにしてみれば「今日こんなことがあってさー」ぐらいの気持ちだったのかもしれない。
実は以前から、そういうクラスメイトがいることは話していたという。ただ、それまでと違ったのは、神保くんが「東森」という名前を、その時初めて口にしたことだった。
その苗字に、何か思い当たる節でもあったのか。神保くんのお母さんは「その子のお名前は?」と聞き返した。「東森詠子だよ」とフルネームを教えると、お母さんは、とても不思議そうな顔をして、こう言ったという。
「同じ高校の東森詠子ちゃんなら、うちに入院しているんだけどねぇ」
古寺くんは、神保くんから聞いたという話を淡々と語ると、口を閉じた。
じりじりと鳴く蝉の音だけが余韻のように響く。
「……どういうことなの?」
「わからん」古寺くんは短く言い切る。「同姓同名という可能性もあるが、このあたりで東森姓は珍しい、と神保の母親は言っていたそうだ」
「んー、とすると……。本当は東森じゃなくて良く似た他の苗字と間違えたとか」
戸森とか友利とか、聞いただけじゃ間違えそうな名前はありそうだけど。
「いや、確かに東森詠子だったそうだ。一字一句な」
「そこまで確認したんだ」
「なんでもその後、病棟まで行って、病室のネームプレートを見てきたらしい」
「神保くん何やってんの」
どうして行動力ありすぎるんだろう、あの人は。
「流石にそこで終わり、だったそうだが」
「え、終わりって」
「面会謝絶の札があった、と言っていた」
それは、つまり。
「……重症、なの?」
「重態、と言ったほうが正しいかもしれん」
古寺くんは淡々と言う。重々しく言う。
「神保が母親から聞き出せたのは、東森詠子という俺達の同級生が、あの病院に入院している。それぐらいだ。それから詳しいことは教えてもらえなかったそうだが、まあ、そうだろうな。入院患者のプライバシーに関わることだ」
きっと、神保くんのお母さんが喋った僅かなことも、思わず口に出してしまった、不注意によるものだろう。
それでも、事の不思議さと不気味さは十分伝わってくる。
「神保の体験談はこれだけだ。ここから先は俺の推測だが……」
「推測……」
「入院している方の東森詠子なる人物について、だ。お前の相方の東森詠子ではなくな」
古寺くんは、二人の同姓同名の別人が存在しているかのように言った。
「四月の環状線の事故を覚えているか」
「四月……あ、うん」
その頃の環状線の事故と言えば、あれしかない。
何十台もの車と何十人もを巻き込んだ玉突き事故。
「あの事故の後、東森が被害に遭っていた、という話が出回っていただろ」
「そういえば……うん、覚えてる」
高校入学の初日、いや二日目だったろうか。新生活の門出としては衝撃的な事故と噂のせいで、当時の思い出としてすぐに記憶を掘り起こすことができる。
「それじゃ、その入院している方の東森さんって、その事故の……」
「そう考えると色々と辻褄が合う」
仮に、と古寺くんは言う。
「仮に東森詠子が二人いたとしよう。同姓同名の別人で、片方は俺達のクラスメイトの東森詠子。もう一人が、四月の事故に巻き込まれ、病院に今もなお入院している東森詠子。すると入学直後に出回った噂話は、あれは入院している東森のことであり、クラスメイトの東森とは無関係ということになる」
そこまでを理解したことを示すために、僕は頷く。
「当時俺は、噂と実際の東森詠子の症状に違いがあったのは、噂についた尾ひれの差だと思っていた。また、本当は事故に遭ったが、そもそも毎度毎度どっかで死んでる東森のことだから、いつものように翌日けろっと生き返ったのだとも。しかし本当のところ、噂は正しく、俺達の知らない東森詠子は重症を負って入院。俺達の知る東森詠子のほうは元気に登校。それが傍からは同一人物のことに見えてしまい、錯覚した、と」
本当は東森さんは二人いたのに、僕らは一人しかいないと思っていた。
だから、色々と食い違いが出てしまった。
「では神保の母親の反応は、というと、これも同じだろう。向こうは入院している東森詠子を知っていたが、俺達の同級生の東森を知らなかった。ここでも、二人の人間を一人の人間として見てしまった」
「なるほど」
僕はすっかり納得していた。
「びっくりするぐらい辻褄が合うね」
「しかしだ」と古寺くんは続ける。「この推測には一つ大きな問題がある。この学校で、一年生に限らず全校生徒の中に、東森詠子という女子生徒は一人しかいない」
「調べたの?」
「ここに来る前に職員室でちょっと名簿をな」
古寺くんも何をやっているのだろう。神保くんのことを言えない。
「仕切りなおして、話を一度おさらいしよう。面会謝絶で入院している東森詠子、俺達のクラスメイトの東森詠子。どちらも歳は同じ。学校も同じ、と思われる。ただしうちの学校に東森詠子という名前の生徒は一人しかいない。これをどう思う?」
「無関係では無さそうだけど……ヒントが少なくて判断できないよ。神保くんのお母さんの呟きだけじゃね」
穿った見方をすれば何だって言われた通りに思えてしまう。
噂話の尾ひれのように、仮定が無数に増えていく。
「確かに下種の勘繰り、だな。だがついでだ、このまま邪推を続けよう」
むしろここからが本題だ、と古寺くんは言う。
「さっきは東森詠子という二人の人間がいる、という前提で語ってきた。逆に――逆に、東森詠子は一人しかいない、としたらどうだろう」
「……うん?」
僕は最初、古寺くんが何を言っているのか分からなかった。
しばらくしても、やっぱり分からなかった。
「うー……ん? どういうこと?」
「入院している東森詠子、クラスメイトの東森詠子。二人が同一人物である可能性だ」
「……東森さんが病院から通学してるとか、そういう話?」
荒唐無稽だけどありえなくはない。
東森さんだし……。
毎日斃れては治療してもらって通学して斃れて搬送とか、想像しても違和感が無い。
「それだと面会謝絶の札が否定要素になる。通学するぐらい元気なやつの病室を、部外者立ち入り禁止にする意味はあるのか?」
「だよね……。そんなデリケートならそもそも通学を許可しないだろうし」
「これは俺達にとっては盲点となる仮説だ」
古寺くんは、まっすぐに前を見続けている。
「入院している東森詠子と、俺達の同級生の東森詠子。これは実は同一人物で、現在は病院に入院しており、学校には来ていない」
「……え、あ、うん? 来ているよね?」
今日も僕は東森さんと会っている。ついさっきも、生徒会からまわってきた仕事のうち、野球部とサッカー部の督戦を僕が引き受ける代わりに、プリントの仕分け作業を頼んできたばかりだ。昨日も、一昨日も会っている。会話している。見ているのだ。
「そうだな。俺達はほぼ毎日東森を見ている。だから、確認していないことがある。確認するまでもないことだった」
そこで、古寺くんは。
はじめて、僕のほうを見た。
「お前の相方の東森詠子は、本当に、本物の東森詠子か?」
ぞわりと、鳥肌が立った。
「や……やめてよ、そういうホラー話は! 今すっごく、ぞわってきたよ、ぞわって!!」
ふうむ、と古寺くんは再び前を向いて、グラウンドで戦う人達をつまらなさそうに眺めた。
「推理小説だと、事実に気づいた連中から順番に消えていくんだよな」
「だからやめてよ! あと、その論理でいくと最初に消えるのは古寺くんだよ!」
「俺は探偵役だから、犠牲になったお前と他数名の仇討ちをするに決まってるだろ」
「勝手に犠牲者にされた……!」
ともかく。
「……それで、仮に僕らの知ってる東森さんが偽者だとして、そんなことする理由はあるの? つまり、誰かに成り代わるってことに」
「無い」古寺くんはスパっと言い切った。「本物がまだ生きてる以上、遅かれ早かれ今みたいにバレてしまう。もし本気で成り代わるなら、きっちり息の根を止めて埋めたほうが確実だ」
「東森さんは埋めても沈めても殺しても死なないけどね。……あ、これは成り代わってるかもしれない方か……。やだなぁ、こんな友達を疑うような言い方……」
「そこなんだがな」
古寺くんは右の人差し指を上げる。
「東森のアレ……何度でも生き返るアレな。実はこの話に関係しているかもしれない」
「というと?」
うむ、と古寺くんの人差し指がクルクル回る。
「俺達の知る東森と、本物の東森が別々の存在だとして、ではお前の相方は一体何かと。あれは本物の東森の生霊か何かじゃないだろうか」
「生霊……ねぇ」
「ありえなくは、無いだろう」
「まあ、幽霊の先輩もいるし、そういう精神的・魂的な何かって線は無くはないけど」
「霊魂なら、死んでも死なない理由にはなる」
でも、と僕は疑問を口にする。
「幽霊にしては、東森さん実体ありすぎじゃないかな。先輩の身体は普通に向こうが透けているような、古典的幽霊だったし」
「本人は死んでないからエネルギーが有り余っているのかもしれん」
「かなぁ。僕としては、仮に本物じゃないとしても、幽霊じゃなくて、もっと違うもののような気がするけれど」
これは根拠のない、僕の感想だ。
東森さんは、死という日常的な非日常を繰り返しているにも関わらず、それを悲観したり苦痛に感じたりしていた様子は無かった。受け入れている、と言えばそうなのかもしれないけれど、そこまで悲痛な覚悟を決める人には見えないし思えない。
事故で霊魂と肉体が離れ離れになったのであれば、あんな顔をしてはいられないだろう。
ともあれ。
「なんだか話が一気に胡散臭くなってきちゃったね」
「この学校にいるとホームズも狡兎良狗の憂き目だ」
古寺くんの人差し指は力なく下がっていった。
なんでもありじゃ探偵業は成り立たない。後出しジャンケンやりたい放題だ。
「こうなると後はオカルト方面に強い奴に聞くしかない。俺はここまでだ」
ギブアップギブアップ、と古寺くんは溜め息をついた。
それから数秒もしないうちに、グラウンドのほうからワッと声が上がる。
「得点か」という古寺くんの言葉に答えるより前に、僕はベンチ横に準備しておいたスポーツドリンクのペットボトルを数本抱えた。
「違うよ、あれはたぶん熱中症でまた一人、……か二人、倒れたんだね」
「……お前」
僕の後から同じようにペットボトルを掴んで、一緒に駆け出しながら古寺くんは言った。
「本当に場慣れしてきているな」
その呆れたような色が混ざっている声を聞いて、僕は、自分がこれぐらいの事には大して驚かなくなっていることに気がついた。
僅か一学期で非日常に腰まで浸かっていることに少し愕然とし、あと二年半もの間、この学校で頭が変にならずにやっていけるのか、心底不安になった。
●
この頃の僕は、古寺くんが言うような、オカルト方面の相談ができる人がいなかった。そっちの知識に明るい人が、いないわけではなかったけれど、相談を持ちかけるには危険か不安な人ばっかりだったせいだ。
すぐに夏休みに入ったのもあって、僕らはこの話を頭の片隅にしまいこんでしまった。さして急を要することでもなかったし、東森さんのプライベートに関わる話でもあったから、あえて深く追求する気が起きなかったのだ。
夏休みが明けて二学期。僕はふとしたことから、オカルト方面に詳しく、かつ、まだ思考が半分以上常識の側にある人と関わりを持つことができた。
彼女に東森さんのことを相談したのは、一年の文化祭の時である。
●
「あれは夢だ」
占い部屋として設置された暗幕のテントの中で、橋口さんはそう答えた。
どこから調達してきたのか、最近の絵本でもそうそう描かれないような魔女のトンガリ帽子を被せられ、暗幕を古代ギリシャ人風に着付けた橋口さんは、最初とても不本意そうな無表情で座っていた。僕がお客さんとして入ってきた時も「徳井か」の一言だけで、それまでの接客での疲れが露骨に現れていた。
対する僕も、その日だけで方々歩き回って足が重くなってきていたので、占い部屋の中で人目を憚らず椅子に座って休めるのがとても有難かった。橋口さんがいつまで経っても仕事をせずにいればいるほど、僕の休憩時間も延びるというわけだ。
とはいえ、このまま双方無言で過ごすのも気まずい。かといって占いをしてもらうのも気が咎め――この出し物は半ば無理矢理に決まったものだったから――僕は占いとは関係ない話題で時間を潰そうと思った。そして、そういえば、いつぞや東森さんについて聞いた話があったな、と会話を切り出したのである。
それに対する返答が……夢?
「どういう意味?」
「うん」
橋口さんは、僕が入ってきた時よりかは、いくらか気力を取り戻した声色で言った。
「つまるところ、古寺が言う通り、あれは本物のともりではない」
仮定を断言されたことに、僕は小さく驚く。
「それじゃあ、本当の東森さんは……」
「神保が見たという、その病室の中で眠っているのだろう」
橋口さんの答えに淀みは無い。まるで解答集に印刷された正答を読み上げるように、その言葉は自信で組まれていた。
最初から気づいていたように。
「あれを最初に見たのは、始業式の次の日だ。大講堂――入学式が行われた場所で、あれは道に迷っていた。あそこへの道のりまでは覚えていたんだろう。見ただけで、それが本物の人間ではないと分かったよ。本物の人間から生じたものではあったけどね」
「そんな前……と言うより、本当に最初っから知ってたんだ」
「うん……」
橋口さんは机に置かれた、曇った水晶玉(本当はガラス玉)を手で撫でる。手持ち無沙汰に、手慰みに。
「あれは夢だ。本物のともりが見る現実の夢だ。通うはずだった学校に通い、学ぶはずだった勉学を学び、遊ぶはずだった友達と遊ぶ。願望から生じた夢の集合体だ。人の夢と書いて儚いと読むが、あれほど美しく悲しい夢は、私は見たことがない」
「夢って……本当に東森さんは、夢でできているの?」
「君が知るともりは、そうだ」
僕が知る、東森さん。
それが、夢。
「信じられないよ。だって東森さんは、少なくとも見た感じ普通の人間じゃないか。幽霊みたいに透けたりしてないし……」
「同じ精神的なものだけど、霊魂と夢は違うよ。幽霊や生き霊は、ただそこに存在するからこそ、その異質さを我々は見て知ることができる。夢は違う、夢は周囲に影響を及ぼすものだ。我々の意識に働きかけ、それが現実だと認識させる。誤認させる。だからこそ、普通の人間はそれに疑問を持ったりしない」
「ええと、幽霊と似てるけど、影響力が違うってことかな……?」
「たとえば、私と君は高校に入ってから初めて出会っている。それなのに、君が中学時代に私と会話しているという夢を見たとしよう。本来なら矛盾していることだが、夢を見ている間はそれが当たり前のことだと思っている。矛盾に気づくのは目覚めた後だ。そういう経験は、君にもあるはずだよ」
「じゃあ、東森さんの夢は、本当は幽霊みたいな感じなんだけど、僕らはそれを自覚することができないってこと? まるで……夢を見ている時のように」
「乱暴に言ってしまえば、そういうことになる」
要約が上手いね、と橋口さんは感心したように頷いた。
「橋口さんは、自覚できたんだ」
「自己暗示とその解き方は魔法の基本だよ。魔法は目覚めの世界よりも、眠りの世界で学ぶことの多いものだから。必然的に現実と幻覚の区別もつきやすくなる。前に話したと思うが、海外にいる私の友人。これが夢を使うのが上手い魔女でね、私も実際に起きながらにして夢を見させてもらった。おかげで、あれも夢だと気づくことができたというわけだ……」
橋口さんは水晶玉から手を放して、両の指を組んだ。
「あれは――」橋口さんは言う。眼鏡の奥で瞼を閉じながら。「――哀れな夢だ。ずっと日常の中断、つまり死の要素から、逃れられないでいる。事故で生死の境を彷徨い、そこから生じた夢は、本人の望みを叶える一方で、生まれた原因である臨死を繰り返す。あれが、日々何かしらの理由で斃れるのはそのためだよ。同じ夢を繰り返し見るように、あの夢は唐突な終わりを一日の中に組み込まれているんだ」
「あれは、東森さんの、本当の東森さんの体質とかじゃ、無いの……?」
「違うよ。恐らく、ともり自身は普通の人間だ。普通の、人間だった」橋口さんは過去形で言い改めた。「ただ夢を見るだけなら、それは幸せなことだったろう。けれども、日常の中断が組み込まれている以上、あの夢はいつも唐突な最期を迎える。呼び寄せてしまう。事故に巻き込まれ、あるいは自ら足を踏み外し、そして終わらねばならない。それが彼女の一日の基本則だ」
「そんな、それは……」
それは、あまりにも。
残酷ではないだろうか。
「気に病む必要は無い」橋口さんは、今度は僕を見て言う。「所詮は夢だ。痛みも苦しみも無い、ただ『死んだ』と思うだけの死だろう。仮初めの最期、幻の末期。君も夢の中で自分の死を経験したことは無いかな? それと同じだ」
橋口さんの目は、東森さんではなく、僕を気遣うような視線を投げてくる。
「大丈夫、なの?」
「少なくとも、救いが無いわけではない。君がいる、私がいる、皆がいる。よくわからない有象無象もいるが、大半は友好的だ。あとの半分は知らない。生徒会は駄目だ。朝野は……私以外には無害だろう。何ともおかしな学校だが、正直に言って、それだけに楽しく思うよ。そういう日々だ。いかに死が毎日訪れようとも、ともりが見る夢は悪夢を見ない。それに……」
「それに?」
「死も死のうとしている。繰り返し見る夢がやがて変わっていくように、東森の夢も倒れはすれど死なない日が増えてきている。卒業する頃には、普通の女の子と変わらぬ夢になっているかもしれない。あるいは……」
あるいは。それより前に、東森さんが目覚めるか。
橋口さんは、そう言いたかったのかもしれない。そう言いはしなかったけれど。
「東森さんは、今のままでも、大丈夫なの?」
「恐らくね」
そう言う橋口さんの表情は、笑っているようにも困っているようにも見えた。
自信があるのか、それとも無いのか、僕にはわからなかった。
ただ、東森さんが深刻な状態にあるわけではないらしいと、内心で安堵するばかりだった。
「……と、いうのが私の自論だ」締めくくるように、橋口さんは言う。「正確なところはまだ分からないし、本人に聞いても恐らく自覚が無いだろう。専門家にでも聞くしかない」
「橋口さん以外に専門家っているのかな……」
「それは私を買い被りすぎだよ。たださっきも言ったとおり、私の友人がもっと詳しいからね、いずれ聞いてみるとしよう」
「本当? それじゃあ、一安心できるかな」
「安心できるかどうかは診断次第だろう」
橋口さんはそう苦笑した後、少し眉根を寄せながら、最後にこう言った。
「しかし……」
「しかし?」
「うん……ともり本人は恐らく大丈夫だとして。本人の代わりに夢が登校してるとなると、出席日数は大丈夫なのだろうか」
「…………あ」
何とも言えない空気が、占い部屋の中でしばらく佇んでいった。
●
橋口さんの友人が日本にやって来るのは、この翌年度のことである。
それは、この文化祭での僕との会話から、橋口さんが彼女に話を通してくれたというのが半分、いつぞやの贈り物に感激して、当人が訪日を決意したのが半分といったところだ。
ただ、彼女――タニアさんが来日してくる前に、東森さんに関わる事情は更に複雑になってしまった。
それは、一年生も終わりを迎えた年度末のこと。
●
「ご苦労」
最後の報告を終えた僕に、姿の見えない何かが無感情な声を投げた。
一寸先は闇を体現する生徒会室の中で、僕は内心ほぉーっと安堵の溜め息をつく。本当は実際にそうしたかったけど、いまだ生徒会室の中にいるため、緊張を解くことはできなかった。
この何だか分からない何かに仕事をさせられて一年。ようやく解放されるのだと思うと、感慨深いというか現実味が無いというか、よくわからない気持ちが込み上げてくる。
そうした感情を表に出さないよう、僕はいつも以上に直立不動で立っていた。
いつものように退出を促す声を聞いたら、残る学校イベントは終業式だけだ。
「さて」
けれど、声はいつもと違う言葉を続けた。
「徳井委員」
「君は一年間」
「よくやってくれた」
「へっ?」油断していた僕は素っ頓狂な声を上げてしまった。「は、はぁ、どうも」
珍しい、いやそれよりも、含みのありそうな労いの言葉だった。
とても嫌な予感がする。生徒会がこんなことを言い出すのなら、額面通りの意味じゃないはずだ。絶対に何か裏がある。
身体が強張り、冷や汗がどっと噴き出した。
そんな僕に対して、声はお構いなしに先を言う。
「報酬を与える」
「報酬……?」
生贄にされた山羊の頭とかだったら嫌だな……。
何が嫌かって、生徒会なら本当に出しかねないのが一番嫌だ。
「一つだ」声は言う。「君の問いに何でも答えよう」
「…………」
僕は黙り込んだ。無言になるのも躊躇われる空気だったけど、それ以上にその言葉の意味を噛み締めずにはいられなかった。
何でも質問していい。
それは、僕らが普段使う時よりも、多くの重みを抱えた言葉だった。
あの生徒会が、どんな問いにも答えるというのだ。何でもと言えば、本当に何にでも答えが返ってくるのだろう。来年度の頭にある学力テストの解答や、二年後の東大入試の出題とその解法、生徒会の本当の正体や、宇宙の歴史、物理法則を鼻歌交じりに無視する方法、これから生徒会室を出て最初に出会う者、今からコイントスする十円玉の裏表。いや、もしかしたら生徒会を倒す方法すら教えてくれるかもしれない。およそ考え付く真面目なものから不真面目なものまで、あらゆる問いかけの答えが、今僕の前に転がり込んできているのだ。
たった一つだけ。
妙なプレッシャーが重くのしかかる。もしかしたら歴史を変える情報を得ることができるかもしれない。いやいや、いくら生徒会が魑魅魍魎のような何かだからといって、本当に全ての問いに答えてくれるとは限らない。彼らにも限界というものはあるだろう。あるの、だろうか。いや仮に無かったとして、真実を教えてくれるとは限らないじゃないか。質問に答えるとは言ったけれど、正直に、という副詞はつけなかった。悪魔の三つの願いのように、願望を歪められて叶えられるという可能性もある。というか、それこそが目的ではないのだろうか。だとしたら確認しようがないことを聞いても信憑性は皆無だ……。
ぐるぐるぐるぐる、頭の中で自分でも途中からよく分からなくなってきた葛藤は、数秒ほど続いただろうか。こんなに頭を急速回転させたのは人生でも五指に入るだろう。
落ち着くために、一度深呼吸を(無意味だろうけれど)バレないように小さく行う。
降って湧いた幸運か、あるいは不運。
僕は、それを何に使うかを決めた。
「東森さんは……東森さんの出席日数は、大丈夫なの?」
前々から気になっていたことの一つだ。
僕と、あとは橋口さんぐらいしか、今の東森さんの正体を知っている人はいない。
先生達に直接尋ねるのは、つまり東森さん本人が登校していないということをバラすようなもの。だから今まで懸念していても確認することができなかった。言えば問題になるし、言わなければ最後までバレないかもしれないから。
それでも、いつかどこかで白黒はっきりさせておくべきことだと、僕は思っていた。
……東森さん自身の問題を、勝手にあれこれ詮索するのも間違ってはいるけれど。
「東森委員か」
そんな自己嫌悪に気づいたのかどうか、声は無感情に返答してきた。
「彼女の学業・成績は」
「いかなる理由であれ」
「何も支障はない」
……何も?
生徒会は、東森さんが夢であることを知らないのだろうか。いや、今の口ぶりは、何かあることを踏まえた上で、というニュアンスを含んでいた。
「……大丈夫、なの?」
恐る恐る、僕は問い返す。
「東森委員の夢は」
「彼女本人の意思であるゆえに」
「その活動も本人によるものと見なせる」
やはり、生徒会は全てお見通しだった。
あの夢は、東森さん本人と同じである。
生徒会はそういう認識らしい。
そして生徒会がそう言うということは、先生達もそういう方針になるということだ。悲しいかな、職員室は生徒会室よりも力が弱いのだ。けれども、今はその状況に喜ぶべきだろう。
「そっか……」僕は、ほぅ、と溜め息をつく。「良かった……」
これで東森さんについて心配することはなくなった。
あとは、彼女が目覚めるのを待つだけだ。
「よって」
「卒業までは」
「問題無しとし」
「一般生徒と同じ待遇とする」
よくよく考えてみれば、幽霊でも何でもいる学校なのだ。今さら夢の一つや二つ(数え方はこれで合っているのだろうか)が増えても問題ないのだろう。
あまり嬉しくはないけれど、生徒会という大きなお墨付きをもらうことができた。卒業するまでは、東森さんは僕らとまったく同じに扱われるだろう。
卒業までは。
……まで、は?
「…………」
危うく、見落とすところだった。
声はわざわざ、卒業まで、という言葉を混ぜた。
逆に言えばそれは……。
「……卒業までは問題ない、ってことは……」僕は、目の前にあると分かっている落とし穴に足を踏み入れる。「卒業後は、どうなるの……?」
「一つだ」
声は、無慈悲に突き放した。
「質問は一つだけだ」
「それ以上知りたくば」
知りたくば。
もう一年、学級委員を務めてみせよ。
声は言外にそう告げてきた。
やられた……最初から、生徒会はこれが目的だったんだ。
生徒会の言う事を聞く駒が。来年度も真面目に働いて、報酬を受けとりたいと願う人物が。
今までの問答は、それを獲るための罠だったんだ。
きっと裏に何かある。そんな答えを出されて、誰がそこで納得できるというのだろうか。
「徳井委員」声は無感動に言う。「もう退出してよろしい」
僕は力なく頷き、空洞になったように感触が無い足を引きずって、生徒会室を後にした。
どこまでが嘘で、どこからが本当なのか。
最後の含みのある言い方はブラフで、実際は東森さんには何も問題が無いのかもしれない。
けれど、それを確かめる術はない。
僕は今しがた生徒会室の中で起きたことを頭の中で反芻しながら、廊下を教室に向けて歩いて行った。鏡で見れば青褪めた顔色だったかもしれない。
思い返せば、最初から僕に勝ち目は無かったのだろう。相手は生徒会だ、きっと僕がこうなることもお見通しだったに違いない。全て掌の上だったのだ。
東森さんは、在学中、つまりあと二年間は大丈夫だろう。
その後、卒業した後。彼女に何が起きるのか。
手がかりが一つも無かったこの時の僕は、まだ何も知ることができなかった。
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