彼のこと 六人目と最後の僕


「失礼しまーす……」

 僕と神保くんは保健室にやってきた。恐ろしいことに体育館からここまで一分も経っていないのでは無かろうか。たぶん気のせいだろう。そういうことにしよう。

 保健室の中には、夕方の光が差し込んでいた。方々駆け回っているうちに、もうそんな時間になってしまったのかと、疲労感が精神的にやってくる。

 いつもなら養護教諭の穂巻先生の返事が来るのだけれど、今日はそれが無かった。

 代わりに、中にいた下級生らしき女子生徒が声をかけてくる。

「先生は今いませんよ」

「あ、そうなんだ」

「体育館の方で怪我人が出たとかで、出ていっちゃって」

「あー……」

 若干の罪悪感。僕が直接の原因ではないけれど、遠因ではあるだろう。

 室内を見渡してみても、他に人の姿は無かった。神保くんの話が本当だったとしても、もうどこかへ行ってしまったのだろうか。

 ……いや、まだ、カーテンで遮られたベッドが残っている。

「今あそこで、寝てる人いるかな」

「さぁ、分かりません。カーテンが閉まっているなら、誰かいると思います」

 カーテンは閉まっている。

 僕は近くまで歩いて行き、声を抑えて尋ねた。

「あの、すみません」

「どうぞ」

 返事はすぐにやってきた。きっと、今の会話を聞いていたのだろう。

 カーテンを少しだけ引いて、中に入った。

「やあ、また会ったね」

 ベッドの上で上体を起こしていたのは、『六番目の僕』だった。

 彼は余程酷い目に遭ったのか、痛々しい様をしていた。顔に貼られたガーゼの端から、大きな青痣がはみ出している。

「残念だけど、僕は初めてだよ。君が会ったのは、違う世界の僕達だね」

「そっか。それじゃ君は、いつ頃の世界から来たんだい?」

「いつ頃……?」

「君以外の僕らは、それぞれ違う時間の僕だった。今は春だけど、やって来たのはその先の夏だったり秋だったり冬だったり。夏から来たのは、夏服だったからすぐ分かったけど」

「あ、そういえば、さっき見た僕はシャツ姿だったっけ……」僕は怪物にしがみついていた『四人目の僕』を思い出す。「それじゃ、平行世界を未来に向かって移動したせいで、未来の僕達がこっちにやって来ちゃったのか」

 化学部にいた『二人目の僕』が一ヶ月先の未来から来たように。他の僕らも、それぞれ現在よりも先に時間が進んでいる世界から来たというわけだ。

「その口ぶりだと、この世界に元々いた僕は、君みたいだね」『六番目の僕』が得心した風に頷く。「どうして、平行世界を渡ったりしたんだい。つまりそれって、ランダム教室に飛び込むことだよね。自殺行為と言われかねない」

「ま、色々あってね……」

 僕は溜め息をつく。

 そして、あることに気がついた。

「……君は、いつの時間から来たの? その服からすると……」

 ベッドに横たわる僕は、私服姿だった。

 最初は、休日からやって来たのかと思った。けれど、違和感があった。

 彼が着ている服を、僕は〝まだ〟持っていない。

「うん。僕は今から一年後の世界から来た」

「卒業した後、の?」

「もちろん」

 その言葉を効いて、僕の胸に、とても嬉しい気持ちが溢れてきた。

 やっと見つけたと、今日の苦労が報われたと、そう思った。

 けれども。その暖かな熱は急速に萎んでいった。

 ふと、嫌な予感がしたのだ。

「ねぇ」僕は冷静を装って訊ねた。「君は一年前に、ランダム教室には入らなかったの?」

「SF同好会による調査だよね。入りはしたけれど、僕はすぐに出たから、今日みたいなことには、ならなかったよ。迂闊に深入りすると元の世界に戻ってこられないんだから」

「そっか……」

「なにか、気になることでも?」

 気落ちが態度に出たのか、『六番目の僕』が困ったような表情をした。

「ううん、なんでもない」気持ちを落ち着けるために、僕はしばらく話題を変えることにした。「そういえば、どうして保健室に? また何かに巻き込まれた?」

「ああ、懐かしいなぁ、それ。高校の頃は、確かに三年間毎日何かに巻き込まれてたっけ」彼は懐かしげに頷いた。「巻き込まれたっていうか、どうなんだろう。実は僕も何でこんな目に遭ったのかわからなくて」

 うーん、と『六番目の僕』は目を閉じる。

「こっちの世界に来て、他の僕と話し合っていた時なんだけど。長月くんとかSF同好会メンバーもその場にいて、その中の一人から急に殴られたんだ。でも知らない人で……」

「急に? どうして?」

「それが、特に思い当たる理由が無いんだ」その時のことを思い出したのか、殴られた頬に手をあてる。「確か、その人から質問されたから、それに答えてたら、その最中に……」

「随分乱暴だね。一体、何て答えたの?」

「いや、普通の思い出話だよ」

 彼は、それを口にする。

「卒業後はみんなどうしてるかって話。流石に僕も未来をそのまま話すのはまずいって分かってるから、色々とぼかしたけど。と言っても、今の君とそう事情は変わらないよ。古寺くんや神保くんとは卒業後も連絡取り合っているし、橋口さんや滝上さんも、女子だから頻度は少なくなったけれど、学級委員の時の縁で時々連絡し合ったりしてる。その他のクラスメイトは、残念だけどあんまり詳しいことはわからない。けど、みんないつも通り変わってないんじゃないかな。朝野さんはどうせ卒業後も橋口さんにちょっかいかけてるだろうし、東森さんは毎日死んで周りを驚かせてるだろうし、霜月さんは空中散歩をマイペースに楽しんでるだろうし。後輩は、これだけが心配かな。藤京さんとか良い子すぎるから、生徒会のオモチャになってないかとても不安だ。それと……」

 そこまで言って、彼は口を一度閉じた。

「それで、このあたりで、いきなり殴られたんだ。一瞬、意識が飛んだよ」

「そっか」

 僕は昔、古寺くんに言われたことを思い出した。

「今の話、どこか相手を怒らせるようなところ、あったかな」

「うーん」

 確認のために、右手を見てみる。

「別におかしな話でもないよね?」

「いや、おかしいところはあるんだよ」

「え、どこに?」

「おかしいのは、話の方じゃなくて、殴ってきたっていうSF同好会の人なんだけど」

 僕はベッドの脇まで近づいた。

「まあ、それはこの際、どうでもいいや。ところで僕からも一ついいかな」

「なに?」

 僕は、昔教わった通りに、腰のあたりの捻りを意識しながら、右の握り拳を相手の横っ面に叩き付けた。

 僕と良く似た誰かが、無様に床まで飛んでいった。

 頬骨にぶつけると、こちらも痛いという。だからアドバイス通りに頬のやや下、下顎のあたりを狙ってみた。それでも力を入れすぎたのか、殴り抜けた後はやっぱり少し痛かった。

 そういえば、喧嘩の初心者は、拳より張り手のほうが、手を傷めずにすむからオススメ、と言われていたっけ。今となってはもう遅いけれど。

「君は……」

 我知らず彼にかける声は、小さく震えていた。

「何をやっていたんだ……」

 彼は呻き声を漏らしているだけで、僕の声には応えない。

 今度ははっきりと、自分の意思で声を出す。

「三年間、君らは一体、何をやっていたんだ……っ!」

 ゆっくりと、僕は未だ起き上がれない彼に近づく。

 古寺くんが言っていた。蹴りの威力は拳のおよそ三倍、いざという時に使え、と。

 そんなことを思い出しながら、今度は右足に力をこめた。

 と。

「やめろ」

 僕の肩を、いつのまにか神保くんが後ろから掴んでいた。

「やめとけ、徳井。もういい」

「…………」

 振り解こうか、どうしようか迷って、僕はやめることにした。

 神保くんは僕から離れると、まだ起き上がれない彼を片手でヒョイと持ち上げて、丸めたマットのように両肩の上へ背負い込んだ。

「とりあえず、長月のとこへ運んでおくぞ。良いよな?」

「……うん」

 正直、どうでも良かった。

 それは僕に非常に良く似ていたけれど、決定的に僕ではなかった。

 いくらか冷静になった今ですら、怒りが隙あらば鎌首をもたげようと身を潜めている。それを気の進まないまま理性の鎖で縛り、僕は神保くんの後を追った。

 その足は、重く鈍かった。


「君に一つ、謝っておかねばならないことがある」

 ランダム教室の前で、長月くんが唐突にそんなことを言い出した。

「なに? 今送り返した僕を、SF同好会の人が殴り殺そうとしたこと?」

「そこまで本気ではなかったはずだが。どちらにせよ、それを謝るのは私ではない」長月くんは難しい顔をしながら緑茶を一口すすった。「私が謝りたいのは、残る最後の徳井くんの居場所を、最初からずっと黙っていたことだ」

「……どういうこと?」

 あまりにも予想外の言葉だった。

 どうして、長月くんは、そんなことを知っていて、そして教えてくれなかったのか。

「詳しくは、最後の君から聞きたまえ。こちらはただ黙っているよう頼まれただけでね、何ゆえかは知らないのだよ」

「黙っているように、頼まれた……?」

「今は視聴覚室にいる」長月くんは上を示す。「君と二人きりで話がしたいそうだ。行ってきたまえ。その間にこちらで最後の準備をしておくから」

「うん……分かったよ」

 僕は釈然としないまま、そう返事をして階段のほうへと歩き出した。


 階段を上って、視聴覚室がある階の廊下へ出るまでの間、僕の頭の上に疑問符が幾つも産まれては積み重なっていった。

 僕と話がしたいのは何故か。どの平行世界から来た僕なのか。何故、長月くんに黙っておくよう頼んだのか。話したい内容とは何か。何が目的なのか。

 それら全ては、長月くんが言うように、実際に会って確かめるしかない。

 浮かんでくる疑問を全て一旦保留することにして、僕は目的地へと向かった。

 視聴覚室の前に辿り着くまで、人の姿は一度も見かけないまま。夕焼けの赤い廊下が、無言で僕の背中を後押しする。

 僕はノックを三回。中からの返事を待つ。

 返事は、無い。

「失礼しまーす……」

 声をかけながら、中へ。

 そして夕陽の赤色に照らされた視聴覚室の中に、七人目の僕が、いなかった。

「……あれ?」

 もしかして騙されたんじゃないかな。

 そう思いながら、一応確認するために窓際へ近寄る。ひょっとすると暗幕の裏に隠れているのかもしれない。わざわざこんな場所を選んだのだ、顔を見られたらまずいとか、そんな理由があるのかも。

 けれども、五歩も進まないうちに、僕は背後で扉が閉まり、鍵がかけられる音を聞いた。

 振り返ると、そこには一人の女子生徒がいた。

 胸元にはSF同好会の会員バッジ。

 傍らの、入り口用の暗幕が揺れているのを見ると、どうやらそこに潜んでいたらしい。忍者だ。いや、くのいちだ。

「はじめまして、徳井ともる、くん」

「はじめまして……」

 ……ん?

 僕はどこかで、彼女を見たことがあるような。

 記憶を引っ張りだすと、すぐ思い出すことができた。そうだ、こっちの世界に戻ってきた時に、長月くんと一緒にいた人だ。

 ただ、それなら、何かおかしい。

 彼女は僕の知らない人だ。ということは、同級生ではない。対し、くん付けで僕を呼ぶということは、彼女は下級生ではない。年上を敬称で呼ばない主義でもない限り。

 そして僕は三年生。上級生など、いるはずもない。

 じゃあ、これは、一体誰だ。

「ふぅん」そんな僕に構わず、彼女はこちらの顔をまじまじと見て言った。「男の子は母親に、女の子は父親に似ると言うけれど。君も、母さん似なんだね」

「あっ」

 その言葉に、僕は気づいた。そうだ、彼女の顔。それは、僕の父さんと、父方の親族の顔に良く似ているのだ。

「まさか、君、まさか……僕、なの……?」

「そうだよ」

 彼女は――『最後の僕』は、微笑みを浮かべた。


「僕は今日この世界に集まった八人の中でも、最も遠い平行世界からやって来たことになる」

 俄かには信じ難い話だった。

 けれども、もう何が起きたっておかしくはない。ここはそういう学校なのだから。

「ご覧の通り、性別という大きな違いが生じるほど、遠くから。僕にしてみれば、男の子になった僕を七人も見せられるのは、中々に同一性を粉微塵にしてくれる体験だったよ」

「ご、ご愁傷様です……」

 逆の立場だったら、僕も精神的に参ってしまいそうだ。

 何しろ、今目の前に一人いるだけで、既にショックが今日一番大きいのだから。

「ところで君は、どうしてSF同好会の会員のフリをしていたの?」

「フリではないよ。僕は正真正銘、SF同好会の名誉会員だ」

 そう言うと、『最後の僕』は自慢げに胸をはって、そこに輝くバッジを見せつけてきた。

「まあでも、SF同好会だけではないんだけど」

「だけでは、って。え?」

「橋口さんから魔法も教わったし、オカルト同好会にも片足を入れていた時期がある。その他色々、この学校の変なところには、あらかた手を出してみたかな。だから僕は、魔法も使えるし、超能力もあるし、変身することも光を曲げることもできる。とは言っても、全部付け焼刃だから初歩的な事しかできない、とてもお粗末なものだけれど」

 僕は、唖然とするしかなかった。

 今まで色々な人を見てきたけれど、ここまで無茶苦茶な人は見たことがない。

 大抵、みんな何かしらの常識外れか、頭のネジがオシャカになっているとはいえ、それは一部の分野に留まっている人がほとんどだ。それを物理も幻理も関係なく非常識な方向へ無節操に全力疾走するなんて、正気の沙汰とは思えないし、まさに狂気の沙汰としか思えない。

 そしてそれが、違う世界のとはいえ、僕だというのだから、余計に理解ができなかった。

「どうしてそこまで人間やめようと思ったの……」

「んー」彼女は芝居がかった仕草で、首を傾げた。どうやら演劇部にも首を突っ込んでいるらしい。「それは、君をここに呼んだ理由に関係している」

「ええと、長月くんからは、僕に話があるから、って聞いたんだけど」

「うん。君と僕とで、話がしたかった」

「他の僕たちとは?」

「彼らとは、君がこちらの世界に戻ってくる前に、おおよその話をしたよ。ま、大した収穫は無かったし、腹いせも兼ねてクズをボコボコにしてやったけど」

「あれは君の仕業だったんだ……。色々納得したし安心したよ」

 僕は溜め息をつく。

「安心?」

「うん。話を聞いただけじゃ、どうして無関係の女子生徒から殴られたのか、理由が分からなかったからね。最初は計画が漏れていたのかと思ったけど、君が僕なら、それも……」

 そこまで言って、僕は気づいた。

「……ちょっと待って」

 僕が彼を殴ったのは、彼が何もしなかったから。

 彼が何もしなかったのは、たぶん、何も知らなかったから。

 じゃあ、それを叩きのめした彼女は?

「君は……知っているの?」

「ああ」彼女は答える。「そして残念なことに、今日集まった八人の中で、計画を知るのは君と僕の二人だけだったよ」

 寂しげに、あるいは悲しげに、彼女は肩をすくめた。

「君としたい話というのも、つまるところ、そのことについてだ」

「ああ、だからか。二人だけで、っていうのは」

「大っぴらに話せないからね。周りくどくなってしまったけれど、ここなら誰かに聞かれる危険も無いだろう」

 そして彼女は語りだす。

「さて、どこから話したものか。そう――」


 僕と『最後の僕』がランダム教室の前まで戻ってくると、機材の準備を整えていた長月くんの他にも、僕らを待っている人がいた。

 橋口さんだった。

「やあ、師匠」

 片手を上げて『最後の僕』が朗らかに挨拶する。

 対し、橋口さんの顔は険しい。

「正しくは、私は君の師ではない」

「ははは、癖みたいなものだからね。悪い悪い」

 彼女の世界では、橋口さんに師事しているのだ。それだけでも大変なことだけど、この人はそれだけで済まないのだから恐ろしい。

「……徳井」

「なに」

「なにかな」

「そっちではない。男の方だ」橋口さんは、頭が痛そうに眉をしかめる。「徳井、とりあえず、なんだこれは」

「せめて『誰これ』と人間扱いしてくれないかな師匠」

「もういい、さっさと送り返せ。話は後だ」

 何故かイライラしている橋口さんは、そっぽを向いてしまった。

「君、何かやったの」

「いや別に。さっき師匠のところに挨拶に行った時は、もっと長くお喋りできたけど」

 そりゃあこんな反応にはなるよ。君がそれじゃあ。

 ということを、僕は懸命にも口には出さなかった。

「それじゃ、さよなら。またいつか縁があれば」

「うん。さようなら」

 そして彼女はランダム教室の中へ、自分の世界へと帰っていった。


「それで、橋口さん」見送りの後、僕は恐る恐る尋ねる。「何があったの」

「言いたくない」

「おやおや、これは橋口くんらしくない癇癪だね」

「長月、君は黙って麦茶でも飲んでいろ」

 長月くんは、いそいそと麦茶のティーバッグを探しはじめた。

「……はぁ。それでだ徳井。全体的に、なんだあれは」

「えーと……」

「性別や、性格が君とまったく異なるのは、これはまだいい。よくあることだ。だが、なんだあれは。私の魔法と朝野の超能力が合わさった人間なんて、悪夢以外の何者でもない」

「なにも、そこまで言わなくても……」

「下手をすると朝野以上に、二度と見たくないかもしれない」

「そこまで言っちゃうんだ」

 一体何をされたんだろう。いや、単に存在そのものが許せなかったのかもしれない。

「ところで『常識という不鮮明なものに囚われない視点』はどうなったの」

「あれと会った瞬間に、私の中で無かったことになった」

 持論の撤回が早いよ橋口さん。

「そもそも非常識すぎるだろう、あれは。どうしたら、あんな出鱈目な人間が出来上がる」

「僕に聞かれても……」

「選択の結果だろうね」

 いつの間にか、長月くんが三人分の麦茶をカップに注いで、それぞれ手渡してきた。

「さあ遠慮せず」

「あ、どうも。……選択って?」

 うむ、と長月くんは頷くと、お茶を一口。

 僕と橋口さんも、それに倣って口にする。暖かな熱が身体の中を下っていった。

「つまりだね。彼女は性別こそ異なるにせよ、本質的には徳井くんという存在だ。そして、この学校の生徒だったということは、恐らく辿ってきた経歴も、さほど変わらないはず」

 長月くんは、相変わらず優雅な手つきで、顎に湯気をくゆらせる。

「仮に、彼女のいた世界の状況が、こちらと変わらないとするならば。彼女がああまで変わってしまった原因は、周囲の環境もそうだが、突き詰めると彼女自身の選択に帰結する。ようするに『こうしよう』という選択を積み重ねた結果が彼女なのだよ」

「……ええと、つまり、自発的にああなったってこと?」

 僕は、さっきの彼女との会話を思い出す。


『――彼らは、選ばなかったんだ――』


 その言葉が、今も胸に残っている。

「確かに。あの性格では、外的要因が全ての元凶、というわけでは無さそうだ」

「そう。その性格が、こちらの世界の徳井くんでは受動的であり、彼女では能動的であるように見えるね。だからまぁ……」

 長月くんは麦茶を飲み干して、受け皿にそっとカップを置いた。

「選択次第では、こちらの徳井くんが、ああなっていた可能性は大いにあるわけだ」

「…………」

「…………」

 僕と橋口さんは無言になり、一度顔を見合わせて、また長月くんの方を見た。

「いやいやいやいや。それはない」

「あってもらっては困る」

「あくまで本質としては素養がある、というだけで、そうなる可能性は無いだろう。いずれにせよ、今となっては歴史のIFにすぎない話さ」

 お代わり、いるかい。とティーポットを指したけれど、僕らは手振りで丁重に断った。

 長月くんは残念そうに肩をすくめると、二杯目のお湯を自分のカップに注ぎ入れる。

「ま、何はともあれ今日はこれでおしまいだ。ご苦労だったね」

「ご苦労さま……。僕はもう二度とこの教室に関わりたくないや」

「私もだ。またコンクリと結界で厳重に封印しておかないと」

「今度は何週間持つかな」

「せめて一ヶ月は持たせたい」

 僕と橋口さんは、もうすっかりぐったりになっていた。

「うん? まあ、こちらとしては別にそれで構わないが」

「……長月、その口ぶりは何だい」橋口さんが嫌そうな顔で尋ねた。「まるで他にも、ランダム教室を使いたがっている連中がいるような言い草じゃないか」

「いやいや、何を言うのかね。こんな危険なところを、そうほいほい使いたがる者が、一人を除いているわけないだろう?」

「誰だその一人」

 たぶんこの時まで、橋口さんは、それが長月くんの悪いジョークだと思っていたのだろう。

「さっきの彼女さ。今回ので世界間移動のコツは掴んだから、今後応用していくそうだ」

 ジョークじゃなかった。

「…………」

 一瞬だけ、橋口さんの口元が引きつったような気がした。

「徳井」その声の活力は死んでいた。「次から君が相手をしてくれ。私は二度と御免だ」

「うん……」

 僕もまた、力なく答えるしかなかった。


 こうして、平行世界の僕が一堂に会した騒動は、なんとか無事に終わった。

 この日のことを思い返すたび、僕は視界に移る人混みの中に、見たことがあるような顔がないか、無意識に探してしまう。

 けれども、そんな顔が見つかることは無かった。少なくとも今のところは。

 もしかすると、こことは違う宇宙では、今頃、彼女が世界を超えて暴れているのかもしれない。そう思うと、僕は、なんだか不思議な気持ちになるのだった。


  彼のこと おわり


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