語り部のこと

語り部のこと


 演劇部と放送部を兼部していた滝上さんは、二つの部活名で分かると思うけれど、その声で有名だった。

 綺麗な声というわけではなく、というか、日頃の物言いは、女子としては乱暴すぎた。

 けれど、いざ朗読を始めると、その声にはいつも不思議な響きと力が乗せられていた。それを聞く僕らが、耳を傾けずにはいられない魅力が含まれていたのだ。

 とはいえ。いつもいつも滝上さんの声に聞き惚れていたかというと、そうでもなく。

 時にはそれが大変な事態を引き起こすこともあった。


 その日は、とても穏やかな日和だった。

 昨日までのぐずぐずと崩れていた天気を払いのけるような、快適で、暖かで、つまるところ授業中にうたた寝せずにはいられない陽気だった。

 まして、昼食後の昼下がり一番の授業は、これはもう睡魔に抗うのは無理という他は無い。

 特に窓際の一列は、ほとんどが船を漕いでおり、その有様は、さながら数人乗りの大型カヌーに乗り込んでいるかのようだった。

 授業は国語の古典、平家物語。

 内容は「木曾義仲の死」が終わって「那須与一」まで進んでいた。

「――このように、平家物語は平家の栄光と没落を描いたものだが、授業で取り上げるのは主に源平合戦のくだりばかりで、前半の平家の繁栄についてはまったく触れないんだよな。これじゃあ平家物語というより平家没落物語だ、ははは」

 先生の、授業に関係あるのか無いのか分からない説明は、ノートに書き留めておくべきかどうか判断に迷う。黒板に書かないということは、少なくとも試験には出ないようだけれど。

 そんな風に先生の話が脱線していく間にも、陽気の前に力尽きた者達が、こくり、こくりと一人ずつ夢の海へと漕ぎ出していった。

「素手で首をねじ切る巴御前や、鵯越の逆落とし、那須与一も確かに有名だ。でも省かれた前半部分にも、たとえば平清盛が乗っている船に出世魚が飛び込んできて、それを食べたおかげで平家が繁栄したんだー、とか面白い話がゴロゴロあるぞ。この話は便覧にも載ってるはずだが、ええと……無いな。あれー、どこで見たんだったかな?」

 話がどんどん脱線していくけれど大丈夫だろうか。

 進まない教科書と、とりあえず開かれただけの国語便覧と、書き込まれないノートを、ぼやけた視界に映す。先生の薀蓄話は面白いにしても、ただ聞いているだけというのは、睡魔を呼び寄せるには十分だ。

 文芸部の古寺くん曰く「腹の皮が張れば目の皮がたるむ」という諺があるらしい。確かにそうだなぁ、と思いながら、僕の瞼は段々とたるんでいった。

「それじゃ那須与一の原文を、えー、今日は誰からいくかな。……じゃあ滝上、立って読んでくれ」

「ぅへーい」

 だるそうな滝上さんの声が、耳に入ってくる。

「あ、先生すいません、教科書忘れたんで、便覧のほうで読んでいいですか」

「構わんが、試験範囲とかは教科書の頁数で先生知らせるからな。後で確認するために、ちゃんとノートとっておけよ」

「はーい」

「じゃあ、『与一目を塞いで……』から読んでくれ」

「はい」

 そうして、少しの間を置いて、滝上さんは那須与一を語りだした。


「――与一目を塞いで『南無八幡台菩薩、別しては我国の神明日光権現、宇都宮那須湯泉、願はくはあの扇の真中射させて賜ばせ給へ――」

 瞼の裏の暗闇が、滝上さんの声と共に夕暮れの砂浜に変わる。

 那須与一は、沖に浮かぶ平家の舟に立てられた扇を、弓の名手である与一が、義経の命で射落とす話だ。そのあまりの難題に、与一は神様仏様に内心で祈る。

「――射損ずるほどならば弓切り折り自害して、人に二度面を向くべからず――」

 源氏の名誉をかけた一射だけに、失敗すれば命で償う覚悟を決める。

「――今一度本国へ迎へんと思し召さば、この矢外せ給ふな』と心の内に祈念して、目を見開いたれば、風少し吹き弱つて、扇も射よげにぞなりにけれ――」

 与一が目を開けると、祈りが通じたのか風は弱まっていた。今ならば、遠くに浮かぶ扇を射ることもできそうだ。

 僕らや、源氏の諸将は固唾を呑んで、若い名手の一挙手一投足を見守っている。

 そして、ついに。

「――与一鏑を取って番ひ、よつ引いてひやうと放つ――」

 力強く引き絞られていた弓弦から指が外れ、鳥の鳴き声のような音と共に、鏑矢が海へ向かって放たれる。

「――小兵といふ条、十二束三伏弓は強し、鏑は浦響くほどに長鳴りして、過たず扇の要際一寸ばかり置いて、ひいふつとぞ射切つたる――」

 与一が放った矢は、見事に紅の扇を射抜いていた。

「――鏑は海に入りければ、扇は空へぞ揚がりける。春風に一揉み二揉み揉まれて、海へとさつとぞ散つたりける――」

 扇が、夕焼け空に舞い上がる。それは浜辺からも、はっきりと見ることができた。

 僕らは「やった」と歓声を上げ、拳を上げて与一の弓の腕を褒め称えた。

「――皆紅の扇の、日出だいたるが、夕日に輝いて白波の上に浮きぬ沈みぬ揺られけるを、沖には平家、舷を叩いて感じたり、陸には源氏、箙を叩いて響めきけり――」

 敵方の平氏でさえ、自分達が出した難題を見事成し遂げた若武者の腕に感嘆している。

 合戦の後だというのに、今この時だけは、敵と味方が共にただ与一の技に感極まっていた。

 それは、ずっと後の世まで語り継がれる物語にふさわしい情景だった。

「いやあ、すばらしい!」

 その余韻が覚めやらぬうちに。平氏の舟の上で、甲冑姿の先生が興奮して拳を掲げていた。

「武者としての覚悟と、その腕前、そしてそれに感じ入る源氏と平氏。教科書に平家物語から那須与一の場面が選ばれているのも、よく分かるという……」

「――見事、扇を打ち落とした与一であったが、その腕前を見て感激した平家の武者が、それを称えるため舟の上で舞を踊る――」

 え?

 そう呟いたのは、僕だけでは無かった。浜辺にいる源氏も、舟の上の女房達も、そして先生も、思いがけない〝お話の続き〟に、一瞬固まった。

 そして彼女の声が告げる。

「――それを見た義経は、与一に今度はその武者を射るよう命じる――」

 たった今、扇を射抜いたばかりの与一が、再び弓に矢を番え、皆が何かを言う間もなく、それを放った。

 甲冑の肩の部分を射られた先生は、もんどりうって舟から転げ落ちてしまった。実際には舞っていなかったので、原文通りに死ぬことはなかったようだけれど、代わりに派手な水飛沫をあげながら海に沈んでいった。

「弓流しだ……」

 隣にいる誰かが、そう呟いた。源氏の武者装束を着た古寺くんだった。

 彼は目を見開いたまま、与一と、その向こうの平氏の船団を見ている。

「弓流し?」

「平家物語で那須与一の次にある話だ。内容は……今起きた通りだが……」

 つまり、与一の神業を見て、感極まって踊った人を、無情にも射ち殺すという。

「なんで、その、弓流しってのに話が移っちゃってるの」

「分からん……教科書には載ってないぞ」

「あれ、そういえば、滝上さんさっき……」

 僕ら二人は顔を見合わせて、滝上さんと先生のやりとりを思い出した。

「国語便覧だ」

「そうだ、便覧には弓流しについて簡単な解説があったはずだ。というか、今さっき滝上が喋っていたやつだ」

「と、いうことは?」

 古寺くんの顔にさっと影が差す。

「滝上のやつ、たぶん、語りに熱中して、止めどころが分からなくなっている」

「えっと、つまり……」

 そこまで言ったところで、次の言葉がきた。


「――そして源平の合戦は壇ノ浦へと移る――」


 気がつくと、僕達は舟の上にいた。

 高い波が打ち寄せるたび、身体が舟ごと上下に動き、顎と胸がくっついては離れようとする。

 波間には他の舟が何艘も何艘も見え、僕達と同じように、そこにも見知った顔が乗っていた。

 みんな武者装束や、あるいは櫂の漕ぎ手の格好だ。

「こ、ここ壇ノ浦!?」

「どうもそうらしい」

 同じ源氏の舟に乗っていた古寺くんと一緒に、あたりの海を見渡す。左右には陸地が見え、舟の正面やや遠くには、僕達のものとは別の旗を風に流す船団が浮かんでいた。

「俺たちは源氏の武者の役を割り当てられたようだな」

「甲冑って結構重いもんだね……」

 僕は、がちゃがちゃと具足を動かしてみる。この時代の鎧は、よくテレビなんかで見る戦国時代や江戸時代のものとは、また違った意匠だ。


「――壇ノ浦は関門海峡の東側にあり、戦いが始まると、平氏は潮の流れに乗って、源氏の船団へと攻撃をしかける――」


 また滝上さんの声が聞こえた。

 それと同時に、遠くにあった船団が、瞬く間にこちら側へ迫り寄せ、あれよあれよと言う間に、怒鳴り声や弓弦を鳴らす音が響きだした。

 源平合戦の最後、壇ノ浦の合戦が始まってしまったのだ。

「こ、これまずいよね!? 危ないよね!?」

「えーと、確かだな、壇ノ浦は最初、平氏が優勢なんだ」

「今まさにね!」

「だが後で潮の流れが逆になって、源氏が逆転して勝利する」

「それはいつ……うわぁ!」

 僕らの乗る舟のすぐそばの海面に、風切り音と共に飛んできた矢が何本も落ちた。

 古寺くんが身をかがめて、あたりの合戦に負けない声で怒鳴る。

「知らん! だがこれは滝上の朗読だ、時間なんてあっという間にすぎるぞ!」

 はたして、その通りになった。


「――舟での戦いに慣れぬ源氏は苦戦するものの、やがて潮の流れが変わり、源氏側が有利となる――」


 ひときわ大きい波が、僕らが乗る舟の後ろからやって来た。

 それは何度も何度も押し寄せ、源氏の舟を平氏の船団へと、ぐいぐい押し出しはじめる。

「流れが変わった」

 古寺くんの言葉には二重の意味が含まれていた。潮の流れと、戦いの流れだ。

 源氏の武者達は次々と平氏の舟に乗り移り、じりじりと平氏を追い詰めていく。彼らの後ろにいる僕達の舟が危険にさらされることは、もう無いように思えた。

「こ、これで一安心かな……」

 ほっと一息をついた僕だったけど、横の古寺くんの顔色は、逆にますます青褪めていった。

「ああ、これはまずい」

「どうして?」

「これから大勢が海に落ちるからだ」

「え」

 つまりそれは、死んでしまうも同然ということだ。

 こんな潮の流れの速い海に、こんな重い装束で落ちたら、まず助からない。

「と言っても、落ちるのは主に平氏の武将だが……」

「平氏のほうに役をあてられた人もいるよ!」

 そうなのだ。特に、女房役としてクラスの女子が何人か向こうにいるのが、今も目をこらせば確認することができる。

「まずいな、女性はだいたい落ちるぞ。安徳天皇や三種の神器と一緒に」

「戦場に女性を連れてきている平氏は何考えているのさ……!!」

 ええと、鎌倉幕府成立が一一八五年だから、だいたい八、九百年ぐらい前か。その時代の人達の考えることは分からない。

「どうする徳井」

「えっと、滝上さんのこれで死んだら、現実でも死ぬのかな」

「試してみるか?」

「ごめんなさい」

 そんな命の試し方はしたくない。

「と、とにかく何とかしないと……」

 でも何とかって、何をすれば良いんだろう。

 良い考えが見つからないまま舟の縁を掴むうちに、また言葉が届く。


「――この戦いで、義経は八艘の舟を次々と飛び移った。これが有名な八艘飛びである――」


「しめた、義経のコーナーに入った。しばらくは義経のことばかりで、壇ノ浦に戻るまで時間がかかるはずだ」

「先生の話が脱線するような感じ?」

 それで良いのか国語便覧。

「義経はヒーローだからな。仕方ない」

「それじゃ、今のうちに、滝上さんを止めよう!」

 と、そこへ何かが向こうの舟からやってきた。

 舟の上をぴょんぴょんと身軽に飛び跳ねて来るのは、僕らと同じ武者の姿をしている。

 重い甲冑を着ながら、そんな人間離れした芸当ができるのは、彼しかいない。

「あれ、神保くんかな」

「義経の役を割り当てられたみたいだな」

「まあ神保くんだし」

「神保だしな」

 そんなことを言ってる間に、神保くんが僕達の舟の上に飛び移ってきた。

「おお、徳井に古寺か! 今回の滝上も面白いことになってるな!」

「面白い通り越して今ちょっとまずい状況なんだけどね……」

 神保くんに説明をすると、彼はうーんと呟いて首を捻った。

 その間も、義経にまつわる解説を読む声は続いていく。

「滝上を止めるにしても、あいつ今どこにいるんだ」

「たぶん何かの役はやってないだろう。平家物語は三人称だから」

「三人称ってなんだ?」

「神の視点というやつだ。メタ的とも言うが」

 ほうほう、と神保君は頷く。

「それじゃ滝上は空の上にいるんだな」

「なぜそうなる」

 神様=天とか、そういう認識なのだろう。

「い、いるかな……?」

「よっし、ちょっくら確かめてみるわ」

 そう言うが早いか、神保くんは舟の舳先へ、ぴょんと跳んで、更に隣の舟へ、その隣へと跳び移っていく。

 そして大きな舟に辿りつくと、舟の上に設けられた屋根の部分に跳び上がった。

 屋根の上で軽く屈伸。

 ぐっとかがみ、一気に空に向かって垂直跳びを決める。

 神保くんは稲妻のように、ぐんぐん空に向かって跳んでいった。

「あいつますます人間離れしていくな」

「今は義経だから、ってのもあると思うよ」

「ヒーローだしな、仕方ないか」

 足場の無い空中で八艘跳びを決めた神保くんを、僕らは呆れながら見ていた。

「これで滝上さんが本当にいれば良いけれど」

「義経なら、たぶんやってくれ……」


「――いよいよ、平氏の最後の時がおとずれる――」


 滝上さんの声が響き、戦場が再び一変する。

 戦いは、僕らの舟のすぐ横に平氏の舟が浮かんでいるような、混戦状態へと移っていた。

 見れば、今さっき空にいたはずの神保くんも、いつのまにか別の舟の上に移されている。

「間に合わなかった……!」

 古寺くんは悔しげに呻きながら、僕と一緒に身を伏せた。いくら源氏が優勢といえど、近くに平氏の舟があるところで、のんびり突っ立ってはいられない。

「ほ、他に方法は無いの!?」

「ああ、もう、どうしたもんだかな……!」

 周りの怒号に負けないよう、僕らは大声を交し合う。

「朗読に没頭している滝上の集中を何とか止めるしかない!」

「都合よく授業終了のチャイム鳴るとか!?」

「たぶん間に合わん!」

「じゃあ滝上さんに電話かけて着信音で気を逸らすとか!」

「お前、あいつの番号知ってるか!?」

「知らないや! あと今は手元に自分のも無かったよ!」

「万事休す!」

 バシンと古寺君は舟底を叩く。

「便覧の入水描写まで間が無いぞ。確か次は『海の底にも都はあると言って、安徳天皇と共に海へ身を投げた』だ」


「――八条二位殿は……――」


 そこで丁度、滝上さんの声が響いたが、今度はなぜか途中で言葉が止まっていた。

 僕と古寺くんは顔を見合わせる。

「止まった……?」

「そうか、セリフを先読みしたからだ!」

「そんなことで!?」

 ともあれ、古寺くんグッジョブ。

「じゃあ、この後の文章も全部言っていけば――」

「終わりまで止められるか! よし、なら次は……覚えてない!」

「ど、どうするの?」

 焦って問いかける僕に対して、古寺くんは目を閉じて必至に記憶を探っていた。

「……いや、だが……。便覧で言及された入水は安徳天皇ぐらいだ。次の建礼門院は落ちても引き上げられて助かる」

「それじゃあ……」

「ああ」と古寺くんの険しい顔がようやく穏やかになる。「これでひとまず、終わりまで安泰のはずだ」

 その言葉に、僕は安堵のあまり舟底に座り込んだ。

「良かったぁ……」

「本当なら先に多くの平氏の武将が入水するくだりもあってな。俺はそこが一番心配だったんだが……。便覧はそこまで書いてなかったようだな」

「先生の言葉じゃないけど、授業でとりあげる部分って、本当にかなり省略されてるんだね」

「それで俺達は助かったようなものだがな……」

 ふぅ、と一息をつき、古寺くんもごろりと転がって脱力した。


「――建礼門院は入水するも、後に源氏によって引き上げられることとなる――」


 滝上さんの声が響いて、平氏の舟から誰かが落ちる水音がした。けれどもすぐに、源氏の舟がそこへ向かい、誰かを引っ張りあげていた。

 源平合戦は、終わりへと向かいつつあった。

「今回はひやひやしたけれど……命がかかってなかったら、大スペクタクル映画みたいに楽しめたかもね……」

「リアル時代劇だな」

 あー、鎧重いなー、と呻きながら、僕と古寺くんはどちらともなく笑い出していた。

 危ういところもあったけど、何とか無事に終わりを迎えることができそうだ。


「――平教盛は、向かってきた源氏の武者三人を道連れに入水する――」


 その声に、驚く間もなく、世界が変わる。

 僕と古寺くんは、いつのまにか立ち上がって、一人の武者と対峙していた。

 平氏らしき武者は太刀を抜き、こちらににじり寄ってくる。それは死に挑んでいるのか、恐ろしい気炎を背負いながら僕らを睨みつけていた。

「……しまった!」

 古寺くんは驚きと恐怖と後悔を顔に浮かべた。

「地味すぎて忘れていた……! こいつが最後に残っていた!!」

 その言葉が終わるが早いか、平のナントカはこちらに向かって飛び掛ってきた。

「う、うわぁー! うわぁー!」

「逃げろ! 走れ走れ!」

 僕らは恥も外聞もかなぐり捨てて、慌てふためいて転びながらも、かろうじて武者の手から逃げることができた。

 しかし向こうも諦めない。恐ろしい雄叫びと共にこちらへ向かってくる。

「なんなのあれ、なんなの!」

「平氏の武将だ! 道連れを求めている!」

「それってもしかして」

「俺達だろうな……」

「うわぁー!」

 僕らは逃げた。全力全速力で逃げた。

 しかし場所は狭い舟の中、いつまでも逃げられるものではない。

 じりじりと、死兵となった武者が追い詰めにかかる。

「あれは武者二人を抱え込んで一緒に落ちるようなやつだ! 絶対に掴まるな!」

「でも、それじゃ、いつまでも終わらないよ!」

 物語はあの平のナントカが入水することが、もう滝上さんの朗読で決められてしまっている。

 どんなに逃げても、それが成されるまで、この追いかけっこは続くのだ。

「あいつだけ海に落とせばたぶん何とかなる、はずだ!」

「無茶だよ、あれは!」

 重い甲冑に、本人もかなりの重量がありそうだ。全力で蹴飛ばしたって、現代日本の高校生の貧弱な筋力じゃ、びくともしないだろう。

 そうしてひたすら逃げ回っていたけど、着慣れない重い装束が、どんどん体力を奪っていく。

 遂に、僕も古寺くんも、へとへとになったところを舟の舳先へ追い詰められてしまった。

「わーっ! 誰か助けてー!!」

 最後の気力を振り絞って助けを求めるけど、ああ、これはもう駄目だ。

 死出の道連れを求める右腕と左腕が、僕と古寺くんに伸びる。

 その時。

「必っさ~つ!」

 場違いに明るい声が、横からやってきた。

「八艘飛びぃー!!」

 声の後に、鎧武者が飛んでくる。

 神保くん扮する源義経は、綺麗なドロップキックを平のナントカに叩き込んだ。

 武者は声を上げる間もなく、壇ノ浦の波間へと、派手な水飛沫と共に沈んでいった。

 高らかに勝利の笑い声を上げる神保くん。

 それを見ながら、僕らは力なく呟いた。

「やっぱ義経はヒーローだな」

「うん」


 物語が終わって、僕らは気がつくと教室に戻ってきていた。

 船から落ちた先生は教卓の下でのびていた。きっと教卓の上から転げ落ちた格好になったのだろう。どうしようもないので、その日の国語の授業はこれで終わりになりそうだった。

「ごめん! まじごめん!!」

 滝上さんが土下座をしかねない勢いでみんなに謝っているのを見ながら、僕と古寺くんは疲れた身体を椅子に投げ出していた。

「……国語便覧には、時系列でおかしいところがあってな」

「というと?」

 僕は潮の香りがする便覧の、平家物語のページを開きながら聞き返した。

「本来、義経の八艘飛びは、最後の道連れの直前にあったことなんだ。便覧じゃ先にもってきているが、原典じゃ、あの平家の武者から逃げるため、八艘の舟を渡ったことに由来している」

「義経……」

 ヒーローにあるまじき逃げっぷりだ。

 しかもそれが武勇伝になっているのだから歴史はよくわからない。

「もし、その通りに書いてあったら。義経が逃げ去った後で、俺達があいつと向き合うことになってたんだよな」

「国語便覧が義経びいきで良かった」

 古寺くんはその言葉に笑った。

「それを言うなら判官びいき、だな」

 そこへ、神保くんがやってきた。

 何やら眉根を寄せているが、何かあったのだろうか。

「どうしたの?」

「あー、なんか東森が他の女子を庇った拍子に、海に落ちてたらしいんだよ」

「また東森か」

「だ、大丈夫なの? えっと……あの、教室の中に姿が見えないけれど」

「どっかにいると思うんだけどよ、どこだと思う?」

「海に落ちたのなら、この真下の教室だろう。行くか」

 重たい身体を起こして、僕らは教室を後にした。

 僕らの壇ノ浦は、まだまだ終わらないようだ。


  語り部のこと おわり

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