第16話 天才少女



 執務室に柔らかい柑橘系の香りが広がっている。


 その香りは鼻腔を刺激し、凝り固まった筋肉を一気に緩和してくれる。



「デボラが淹れてくれた紅茶は本当に美味しいよ」


「お褒め頂き、有難う御座います」


「私もデボラさんが淹れてくれた紅茶は香りが良くて、とても好きです」


「まあ、ユティーナは紅茶も嗜めるのですね。素晴らしいですわ」



 マグリットと私は4の刻に使用人のデボラが淹れてくれた紅茶を啜りながら、暫くの休憩を挟んでいた。


 デボラはマグリットが村長になってから、この館に勤め始めた使用人で一番の古株らしい。


 以前は貴族街の貴族の館で使用人をしていたのだが、雇い主の貴族が借金によりいなくなってしまって、途方に暮れている所をマグリットに拾われたらしい。



 通りで出来る使用人って感じの雰囲気を持っているのか。



「お嬢様もユティーナの様に静かにお勉強して下さりませんかね…」



 デボラはハアと溜息を漏らしながら頬に手を添えている。


 どうやらサラの教育係はデボラがしているようで、サラの御転婆に目を廻しているらしい。



「今日も勉強を受けずに森へ逃げて行きました…」



 どうやらサラはいつも一人で館の裏にある森に行っているらしい。


 夕刻には戻ってくるらしいがいつも服を汚して帰ってくるとデボラが愚痴を溢していた。



「せめて椅子に座ってお話を聞いている間だけでも静かに座って居て貰えないでしょうかね」


「それだけでいいんですか?」


「はい。そうでないと重要な式典などに出席できませんので…」



 どうやらサラは結構重症らしい、マグリットは頭が痛そうな表情で紅茶を啜っている。



「でも今日はこの執務室を覗いていましたよ。私の行動には多少興味があるんじゃないでしょうか?」



 私の言葉にマグリットは目を見開いて驚いている。


 どうやら気づいていなかったらしい。



「あの申し訳ありませんが、どういうことなのでしょうか?」



 私とマグリットの遣り取りにデボラは首を傾げなら尋ねた。


 教育係であるデボラも知っておいた方がいいと、マグリットがデボラに説明をした。



「まあ!そんな事を考えていたのですね。ユティーナは本当に聡明ですね」


「そんなことないですよ。私はただ勉強しているだけで何もしてませんよ」



 謙遜の言葉まで使えるなんて!とデボラは私を褒めちぎっている。


 どうやらデボラの中で私の株は急上昇しているらしい。


 私は本当に勉強して『資料』を読んだりしたいだけなので、とても複雑な気持ちである。



 サラの事がどうでもいいなんて口が裂けても言えないな…



 そんな事を考えながら、暫くの休憩を満喫した。




 そのあとは計算を教えて貰うために、数の記号をマグリットに教えて貰った。


 どうやら、この世界の計算も十進法らしく、0・1・2・3・4・5・6・7・8・9に当たる十種類の記号を使い、数字を作るらしい。



 なんだ、数字は大丈夫そうだ。



 私は教えて貰った数字を組み合わせて幾つか数字を書いて読んでいた。



「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11…」


「え!?ユティーナもう数を覚えたのかい?」


「はい。えっと十に成るとこう書いて、百もこうですよね?」



 私はマグリットに数字を書いて見せた。


 どうやら私の能力は普通では無いらしく、マグリットは開いた口が塞がらない様子だった。



 もしかして私やりすぎたかな。



 まあ今は天才でも『十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人』って感じになるだろうけどね…



 ハッとマグリットは我に返った様で、私に幾つかの計算問題を出してきた。



「えっと18足す30は48でしょ、39引く23は16、24掛ける4は96、あ掛け算もあるんだ。105割る5は21」



 私は出されて問題を石板に『筆算』で計算して見せた。



「凄い…全部正解だ」



 マグリットは今度こそ化け物を見ている様な目で私を見ていた。


 正直なところ『小学校』に通っていれば、これ位の計算は簡単である。


 ましてや、私は『大学院』まで勉強をしていた?のでこれくらいは当たり前である。



 あ、それは『この世界』の事じゃなかった…



 気がついた時にはもう遅かった。マグリットは私に様々な質問をしてきた。



「ユティーナ、君はどこで計算を習ったんだい?」


「それは…」


「あと、この石板に書いてある計算はなんなんだい?」


「えっと…」


「それからこれは…」



 あ、今トール兄さんの気持ちがわかったよ…あの時はごめんなさい。もうしません。


 一頻り質問を終えたマグリットは落ち着いた様子で、椅子に腰掛けていた。


 正直、質問をどんどんするので殆ど答えられていなかったのだが。




「君は何者なんだい?」



 落ち着いた様子でマグリットは私に問いかけた。


 先ほどの興奮していた時とは打って変わって冷静な表情をしていた。



「先の計算をしてる時、『掛け算もあるんだ』と君は言ったね」


「そ、それは足し算と引き算は数を数えたりするから知っていたけど、掛け算と割り算は始めて知ったから…」


「その話だと君は初めての計算を難なく解いたことになるけどいいのかい?」


「それは…」



 まるで尋問である。


 何故マグリットは急にこんな事を聞くのだろう。



 私は何かまずい事でもやってしまったのかと今までの行動を思い返し考えていた。


 しかし、特に可笑しかった点は見当たらなかった。



「どうして村長さんはそんな事を聞くんですか?」


「どうしてだと思う?」


「考えたけど、わからないから聞いているんです」



 私の返答に、マグリットは顎に手を当てて黙ってしまった。


 私はその場の重たい雰囲気に不安な気持ちを抱えながら、マグリットが口を開くのを待った。




「わかった。ユティーナは計算が得意なんだ。そういう事にしておこう。」



 口を閉ざしていたマグリットはそう零していた。


 それは自分を納得させるかの様に、そして私に猶予を与えている様に聞こえた。



「じゃあユティーナにはこれからこの計算をして貰うからね」



 もうこの話は終わりと言わんばかりに、マグリットは自分の机にあった羊皮紙を私の机にドンッと置いた。



「何ですかこれ?」



 目の前の羊皮紙の山とマグリットに目線を送りながら私は訊ねた。



「これは村から出たり入ったりしている物の一覧だ」


「それを何で私の机に置くんですか?」


「天才少女のユティーナには、村の帳簿計算をして貰う」



 そういったマグリットはニヤニヤと陽気な笑みを浮かべている。


 使える物は使って、仕事を減らし楽をしたい。


 手に取った羊皮紙からは、そういった感情が伝わってきた。



 私はまだ5歳…あ、まだ6歳なのだ。


 秘書見習いにするには早いだろうという事をマグリットに述べると。



「ここには君の知らない単語が沢山出てくるからね。文字の練習のついでだと思ってくれていいよ」



 私が帳簿計算をするのは決定事項の様であった。


 そういえば、お父さんが村長命令について言っていたのを思い出した。


 もし、ここで拒否をして村長命令を行使されたら、ここに来るときはずっと帳簿計算をしないといけなくなる。



 それはまずい…



「わかりました。ただ、村長の仕事を手伝うのに只働きって言うのはどうなんでしょうか?」



 私はマグリットに満面の笑みでそう述べた。


 そもそもマグリットのお願いで館に来て勉強してるのである。


 それに加え更に、只で村長の仕事を手伝うなんてマグリットばかり得している様に思える。


 働くわけでは無いので、給料は貰えないかもしれないが、見返りは在ってもだろう。



「わかった。石板と石筆は君に上げるよ。石筆がなくなれば新しい物を準備する。そうすれば君も家で文字の練習ができるだろ。これでどうだい?」


「ありがとうございます。あと、あの『資料』を持って帰っていいですか」



 私は執務室に置かれた棚にある『資料』を指差した。



「重要な資料以外なら構わないよ。ただ、絶対に返してね」



 マグリットはハアと溜息を吐きながら、渋々了承してくれた。


 『やった〜』と私が燥いでいると、マグリットはまた溜息を吐いた。



 私は早速、資料が置かれた棚に向かおうと椅子を降りたところ、マグリットにそれを遮られた。



「これが片付くか、トゥレイユが迎えに来たときまでお預けだ」



 そう言うと私を再度椅子に座らせた。


 私は渋々、机に積み上げられた一覧に目を通しながら、わからない単語を一つ一つマグリットに聞きながら計算を行っていった。



 え、この調子じゃ全然終わらないよ…




 私の予想通り、5の刻の鐘がなってお父さんが迎えに来るまでに、羊皮紙一枚分の計算も終わらなかった。



「お父さ〜ん」



 部屋に入ってきたお父さんに思わす私は走って行って抱きついた。


 抱きついて来た娘にお父さんは顔が綻んでいたが、私の机の上の羊皮紙の山を見て唖然としていた。



「マグリットどういうことだ」



 お父さんは直様、マグリットに詰問した。


 するとマグリットは肩を竦めるながら説明した。



「ユティーナが優秀過ぎて、普通の計算は簡単に解いちゃうからね。文字の練習も兼ねて帳簿計算して貰ってるんだ。勿論、只働きって訳じゃなくて村の資料を持って帰っていいって約束でして貰ってるんだ。ほら」



 私はお父さんに抱きついた後、興奮気味に棚にある資料を吟味していた。



 お父さんはどうしたものかと心配していた様だが、ケロッとしている私を見て呆れた様に溜息を吐いた。


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