4 ジュネイの西
〈誰もいない家〉はもともと違う名前の宿だったが、一昨年、ジーラ・ワランサさんの提案で改名したのだという。
「すぐみんなに覚えてもらえるだろ? それに、経営者が本っ当にいないしね」
豪快に笑うジーラさん。旦那さんを海で亡くして、一人で娘さんと息子さんを育てているそうだが、とても頼りがいのあるパワフルなお母さん、という感じだ。
「ハロルドさん、昔はこの家で本とか集めてたんだけど、私らが住み込むようになったときに、別の場所に一部屋借りて蔵書を移したんだよ。で、そっちに入り浸ってるの。今年の夏は、お客さんのブラントさんも意気投合して、しょっちゅう一緒に行ってたね」
ブラント・レックさんから手紙を預かっていることをジーラさんに告げると、姉弟の姉ソフィアが、書庫部屋にいるハロルドさんに渡しに行ってくれた。戻ってきたソフィアによると、ハロルドさんは今夜は書庫部屋に泊まる。今日はもう遅いし、私たちは明日、こっちに訪ねてきてくれ、とのこと。
というわけで、私とアープは〈誰もいない家〉に泊まることになり、夕食の時間、ジーラさん親子と一緒に食卓を囲むことになったのだった。
「〈誰もいない家〉って、ものすごく印象に残る名前ですね。あの毬つき歌も」
「あの歌、ハロルドさんが教えてくれたんだよ!」
と、姉弟の弟ヨーンがにこにこして言う。
「おもしろいこと、いっぱい教えてくれるの」「ねー!」
二人で、顔を見合わせてくすくす笑う。仲の良い姉弟だ。そして、ハロルドさん物凄く好かれているなぁ。きっと、話していて楽しいお爺さんなんだろう。
「あれは、この辺りの伝統的な歌なんですか?」
私の問いに対する答えは、意外なものだった。
「いんや、どこの歌か、誰も知らないの」
「え?」
「私もハロルドさんに訊いたんだけどね。ハロルドさん自身も、だいぶ前に誰かから教わって、どこの誰だったか忘れちゃったんだって。だから、謎のまんま」
それはちょっと残念。
「アープも、前に違うところで聞いたことがある、って言ってるし、外国の歌なんですかねぇ……」
「へぇ!」
ジーラさんが驚いた。「アレを聞いたことがある、って人は初めてだよ。どこだい?」
「考え中だ」
黙々と食事をしながら、短く答えるアープ。まだ思い出せないらしい。
「ま、ハロルドさんも、もともとモルゲンティーナの人じゃないしね。外国で聞いたのかもしれないね」
「そうなんですか?」
ちょっとびっくり。この国から出たことがない人だと思っていた。
「十年くらい前かな。一人でやってきて、この家を買って住み始めたんだよ」
モルゲンティーナが気に入って住み着く外国人、というのは珍しくないのだそうだ。
「ハロルドさん、どちらの出身なんです?」
「外国の地名なんて聞いてもわからないから、詳しいことは知らないけどね。西のほうだとは聞いたよ」
そこから、今までに私たちが行ったことのある街について(主に西方語圏)、私がジーラさん親子にいろいろ話していると、
「――ジュネイの西か?」
ずっと考え込んでいたアープが、いきなり口を開いた。ジュネイ山脈と言えば、フィオリスがいたシルドレットの街や、ハズリーさんと訪ねた旧ランスリング領のあるところだ。両方とも山脈の東側だけれど。
「何がジュネイの西なの、アープ」
「……どこで歌を聞いたか、思い出した。恐らく、ジュネイの西側だ」
「アープ、あっち行ったことあるんだ! 初耳!」
考えてみれば、アープは千年以上も生きているわけで。おじいちゃんと知り合う前は野生(?)の〈竜人〉だったわけだから、世界中で行ってない場所はない、と言われても全然不思議じゃないんだけれど。
「十年くらい前に、『竜を見た』という噂が立ったそうだが」
アープがジーラさんに尋ねる。
「それ、ブラントさんにも訊かれたよ。一時大騒ぎになったけど、その後何もなくて、結局ただの噂だったんだよねぇ。ハロルドさんなんか、移り住んできたのが騒動のあとだから何も知らなくて、面白がってブラントさんに逆に質問してたけどね」
そして、翌日。ジーラさんが描いた地図を持って、私とアープは、ハロルドさんの書庫部屋に向かった。通りを二本挟むが、そんなに遠くはない。この距離なら〈誰もいない家〉に戻って寝ればいいのに、と思うが、行ったり帰ったりするのが面倒くさいのだろうな。
ブラントさんからの手紙に、チョコレートクッキーそのものを持参するわけではないこと、材料を現地調達して作ることは説明してもらってある。宿を出る前に、ジーラさんにナリーナさんのレシピ(西方語訳)を渡してこれを揃えたいのだと話すと、ジーラさんは「任せといて!」と引き受けてくれた。
「本当、ジーラさんって頼りになるよね」
隣りを歩くアープに話を振るが、無言。もともと口数の多いほうではないけれど、昨夜から、何かちょっと変だよな、とは思う。
――歌を聞いた場所を、思い出した辺りから。
二階建ての集合住宅の二階、ハロルドさんが借りている部屋の号室を確認してドアをノックした。
「〈郵便配達アーリィ&アープ〉です。ハロルド・デミさん、いらっしゃいますか?」
「どうぞ。鍵は開いてるから、入ってきてください」
そう返事があったので、「お邪魔します」と声をかけて、ドアを開けて入る。
書庫部屋と言うだけあり、中は本だらけで生活感のない部屋だった。あとは、いろんな国の、よくわからない雑貨とか。これはブラントさん、遊びに来て楽しかったに違いない。
本好きのアープも興味あるかな、と思って振り返ると、アープはじっと、部屋の奥を見つめていた。五十代くらいの男の人が、暗いところからこちらに出てくる。
「初めまして。アーリィ・フェイです。こちらは、相棒のアープ」
ハロルドさんであろうその男の人は、私とアープの顔を交互に見ると、言った。
「――君ではないかと思っていたが、やはり、そうだったな。
〈黒きアープ〉」
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