3 〈誰もいない家〉
チョコレートクッキーを届ける相手は、ハロルド・デミさんといって、モルゲンティーナで小さな宿屋を経営している人だそうだ。
モルゲンティーナは交易の盛んな街なので、チョコレートクッキー作りに必要な材料は手に入る筈(ブラントさん談)。むしろ、道中が長いので、下手にラプラスから持っていくと、途中で悪くなってしまうかもしれない。
というわけで、現地で材料を買うためのお金と、ブラントさんからハロルドさん宛ての手紙を持って、私とアープは旅立った。フィオリスは、いつもの通り、トルテ村のカルルのところでお泊りだ。
ラプラスを出発したのちは、砂漠迂回にほぼ予定通りの日数をかけて、特に問題なく港町モルゲンティーナに到着した。普段だと、旅の途中に立ち寄った街でのアープの食費で頭が痛くなることが多いが、今回はブラントさんが仕事料をはずんでくれたので、懐に余裕がある。非常に有難い。有難いのだけれど、ブラントさんってあの生活で、どうやってお金を稼いでいるのだろう? というのは、ちょっと謎だったりする。
私たちが住んでいるラプラスは内陸なので、海を見るのは久しぶり。おじいちゃんやアープと三人で旅していた頃に、海を見たことがないわけではないとはいえ、モルゲンティーナの海の青さは格別だ。カラフルな石造りの街並みと相まって、本当に綺麗。今は冬だけれど、夏に来ると、もっと目の覚めるような青い色をしているのだという。
港にはたくさんの船が泊まり、街にはいろんな地方の服を着た人が溢れていて、西方語だけでなく東方語の会話も結構聞こえてくる。昔から名前だけ知っていて来たことのない街だったが、ここまで栄えているとは思わなかった。
さて。私たちがこれから訪ねていく、ハロルドさんが経営している宿屋の名前が、ちょっと面白い。〈誰もいない家〉というのだ。あまりにも面白そうだったので、ブラントさんは、モルゲンティーナに着いてすぐ、宿の看板を見ただけでそこに泊まることを決めてしまったとか。
「本当に誰もいないわけじゃないんだよ。住み込み従業員のジーラさんって女性が、ほとんど一人で切り盛りしてる。主人のハロルドさんは、半分隠居みたいな悠々自適生活らしくて、しょっちゅう留守にしているけれどね」
客室は二部屋、基本的に素泊まりで、頼めばジーラさん家族(娘さんと息子さん)とハロルドさんの食事のついでに客の食事も作ってくれるような宿なんだそうである。宿というか、居候みたいなものかもしれない。
「まぁ、本当に誰もいなかったら、宿屋として成り立ちませんものね。でも、じゃあ何で〈誰もいない家〉なんです?」
「ちゃんと由来はあるんだけど、教えたら面白くないからね。着いたら、探してみてごらん。すぐにわかると思うよ」
そう言って、笑っていたっけ。
ていうか、そもそも何をしにモルゲンティーナまで行ったんですか、と質問したところ。
「たまたま、宝飾品を扱う商人に会う機会があって、話を聞いたんだよ。十年くらい前に、モルゲンティーナの近くで『竜を見た』って噂が立ったんだってさ。それで、どんな噂か調べようと思って」
……それだけの動機で、こんな遠くまで旅しちゃうんだから、ブラントさんの行動力は凄いなぁ。しかも、その調査自体は空振りに終わったらしいし。
(「君たちじゃないよね?」と確認されたけれど、私たち、東方語圏と西方語圏の境目辺りをウロウロしていることが多かったので、こっちの地方に来たことがないんだよね。)
ブラントさんから宿の住所も教わってきていたが、モルゲンティーナの街は広いので、なかなか辿り着くのが大変だ。街の人に、「この住所に行きたいんですが」と尋ねても反応が鈍いが、「〈誰もいない家〉っていう宿なんです」と言った途端に「ああ、あそこ!」と思い出してくれる。名前のインパクトは絶大らしい。
何人かに道を聞いて、「
夕方の傾きかけた日差しの中、遠くからでもはっきりと〈誰もいない家〉と読める看板のかかった家の前で、女の子と男の子が、ボールを地面について遊んでいるのが見えた。多分、この宿を切り盛りしているジーラさんの子供たちだろう。近づくうちに、ボールをつきながら、可愛らしい声で歌っているのも聞こえてくる。
竜はどこへ行ったの
西へ 西へ行ったよ
人はどこへ行ったの
東へ 東へ行ったよ
竜はここにいないよ
もっと西へ行ったよ
誰もここにいないよ
みんないなくなったよ
「はぁ……ブラントさんが言ってたのは、これかぁ」
思わず立ち止まる。確かに、すぐにわかった。宿の名前は、この毬つき唄から取ったのだろう。メロディも歌詞も単調だが、あまり今までに聞いたことのない節回しだ。
「不思議な歌ねぇ。この辺りに伝わる歌なのかしら?」
言いながら、私がアープを見上げると、アープは眉を寄せて呟いた。
「……前に聞いたことがあるな」
「え? 私はないけど……もしかしてアープ、前にもモルゲンティーナに来たことある?」
例の食中毒のように、また、私の覚えていない小さい頃の出来事だろうか。それとも、赤子の私を拾う前にも、おじいちゃんとアープは旅をしていた筈だから、その頃とか。
「いや、初めてだ。ここではないな。どこで聞いたんだったか」
珍しくアープが、立ったまま長く考え込む。
突っ立っている私たちに子供たちが気づいて、声をかけてきた。
「もしかしてお客さん?」
「あ、私たち、ハロルドさんに届け物があって来たんだけど」
「ハロルドさん、いないよ!」
「今日もお出かけなの! いないの!」
そう言うと、二人は明るく笑った。
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