第五話 〈早春の娘〉
1 チョコレートクッキー
「チョコレートクッキー、ですか?」
私がオウム返しに問うと、テーブルの向かいの席に座るブラントさんはうなずいた。
「そう、チョコレートクッキー。アーリィちゃん、届けてもらえるかな」
冬が訪れて、ブラント・レックさんが、今年は何事もなくラプラスの街にやってきた。どんな本を持ってきたのか確認したいアープとともに早速図書館へ行くと、待ち構えていたブラントさんにいきなり仕事を依頼された、というわけだ。
ブラントさん語るところの事情はこうだ。
去年の冬に食べた、図書館のナリーナさん手作りのチョコレートクッキーが非常に美味しかった。世界中を旅しても、あんなに美味いクッキーはなかなかない。
と、今年の夏に旅先で世話になった老人に力説したところ、老人が「何としてもそのクッキーを食べたい」と言い出した。ラプラスに戻ったら、ぜひ作ってもらって送ってくれ。お礼として、自分の秘蔵の本を一冊譲ってもいい。とまで言うので、ブラントさんは「一応頼んでみる」と約束したのだそうだ。
「その、旅先ってどこです?」
「モルゲンティーナ」
「……ブラントさん、そんな遠くまで行って帰ってきたんですか」
私は呆れた。と同時に、その老人は自分の国から出たことがないんだろう、とも思った。
モルゲンティーナは、西方語圏の大きな港町だ。貝を使ったモルゲンティーナ産の宝飾品が東方語圏でも有名なので、実際に行ったことはなくとも街の名を知っている者は多い。
仮にラプラスから向かうとすると、普通はクーヴェルタまで行って川沿いに港町へ出て、あとは船で南の半島をぐるっと回り込むルートを選ぶ。遠回りで日数もかかるが、これが一番楽な方法だ。距離的には陸地を直接突っ切ったほうが近いものの、途中に砂漠があるので、大規模な隊商でもない限り横断ルートは使わない。モルゲンティーナとラプラスの位置関係を知っていれば、常識的な人間なら、クッキーを届けてもらおうなんて考える筈がない。
では、実際に旅して位置関係をよく知っているブラントさんが、老人の依頼を断らなかったのはなぜか――ブラントさんには、隠し玉があるからだ。〈郵便配達アーリィ&アープ〉という、常識外れの隠し玉が。
「無理かな?」
隣りの席で、黙々と新しい本のページをめくっている相棒にちらりと目をやって、私は答える。本の表紙に『擬人化世界地図』とかいう意味不明のタイトルが書かれていることは、読んでいるアープにも、それを持ってきたブラントさんにも敢えて突っ込まない。
「いくらアープでも、砂漠迂回したら片道……十日以上かかりますよ。横断すれば早くなりますけれど、さすがに砂漠で野宿は避けたいです。そもそもクッキーって、そんなに日持ちしますっけ?」
「前、アープ君が大量に貰ってただろ? あれ、何日くらいかけて食べたの」
昨冬、ラプラス中の女性の間で、チョコレートクッキー作りが大流行した。発端は、ブラントさんが図書館で「アープ君の好物はチョコレートクッキー」と発言したことらしい。ナリーナさんとメイベル母子のクッキーを筆頭に、たちまち〈郵便配達アーリィ&アープ〉の店内に山が二つ積みあがったのだけれど……。
「何の参考にもなりませんよ、二日でペロリです。一日でも完食できたけれど、二日に分けたんだって言っていました」
一瞬、虚を突かれたブラントさん。しかしすぐに、
「そっか、彼の正体を考えたら、それくらい食べて当然か」
と納得した。
そう、私の相棒、アープは人間ではなくて〈竜人〉なのである。齢は多分千歳以上(自己申告)で、全身漆黒の竜の姿と、人間の姿とを持つ。だから、人間が普通に旅すると数ヶ月かかる距離も、竜の翼で十日強で飛んで行けるというわけだ。
「ブラントさん、アーリィちゃん、アープさん、お茶どうぞ」
「あ、有難うございます」
そこに、ナリーナさんがティーセットが乗ったお盆を持ってやってきたので、私は尋ねてみる。
「ナリーナさん、チョコレートクッキーって作ってから十日以上持ちます?」
「ああ、ブラントさんが頼まれたっていう、ご老人のお話ね」
私たちの前にティーカップを置きながら、答えるナリーナさん。
「冬だからそんなにすぐに悪くならないと思うけれど、十日は心配ねぇ……それに、クッキーは焼きたてが一番美味しいと思うの」
それは確かに。
「で、思ったんだけれど、アーリィちゃんはそのご老人のところに行けるの?」
「ええまぁ、一応行けます」
「じゃあ、私のレシピを教えてあげるから、アーリィちゃんがそのご老人のところに行って焼く、というのはどう?」
「やめとけ。炭化するだけだ」
間髪入れず、私の隣りから突っ込みが入った。
「今の今まで黙ってたくせに、何でこういうときだけ口を挟むのよ!」
私が叫んでも、アープはどこ吹く風、といった感じに本のページをめくっている。
「炭化?」
首をかしげるナリーナさん。去年の冬、私もチョコレートクッキーを作ろうとして、街の消防団が駆け付ける騒ぎになったことは、知らなくていいです、ええ。
「コイツの言うことは気にしないでください。それより、本当に教えていただけるんですか?」
「ええ、いいわよ」
これはまたとないチャンス。この機にチョコレートクッキーを上手に焼けるようになって、未だに炭化を馬鹿にするアープを見返してやるわ!
「あ、そうだ」
不意にナリーナさんが何かを思いついたように、手をぽん、と叩いた。
「もし良かったら、アープさんも一緒にどう?」
「は?」
一瞬絶句。「……って、クッキー作り? アープも?」
「ええ。そのほうが、向こうで困ったとき、二人で助け合えるわよ」
にこやかに提案するナリーナさん。
「俺は構わんが」
アープの返事を聞いたとき、何となく、嫌な予感はした。
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