6 ユールカ・メリエ

「いらっしゃい。ゼナたち以外の誰かと会うのは、何十年ぶりかしら」

 そう言って私たちを招き入れたその女性は、髪の色を除けば、確かにフィオリスによく似ていた。あと数十年経ってフィオリスが成人したら、きっと彼女のようになるだろう。

「まさか、同族がここを訪ねてきてくれるとは、思わなかったわ」

「じゃあやっぱり、あなたも人魚なんですね」

 思わず口をついて出た私の言葉を、肯定するでも否定するでもなく、彼女は逆に尋ねた。

「人魚と〈竜人〉と人間とは、珍しい組み合わせね。あなた方は、どういう関係なの?」

 それで、私は簡単に説明した。竜騎士だった私の祖父の死後、私とアープが郵便配達を始めたこと。配達に行った先で、塔に閉じ込められていたフィオリスに出会って連れ帰り、今は一緒に暮らしていること。

 ――人魚の涙が結晶化してできる宝石、涙水晶なみだすいしょう。その単語を聞いた瞬間、ユールカさんは、どこかが痛むかのような表情で呟いた。

「……変わらないのね。百年経っても」

「ユールカさん、も?」

 フィオリスの問いに、彼女は肯く。

「もう、二百年近く前になるかしら。涙水晶の価値に目が眩んだ人間たちに捕えられそうになって、この森に逃げ込んだの。ゼナたちが守ってくれなかったら、私もきっとあなたのように、どこかに監禁されて……。

 森の中で、廃屋になっていたこの家を見つけてね。それで、ここで暮らしているの」

「ずっと、ひとりで?」

「ええ」

 およそ二百年もの年月を、森の奥、たった一人で。それほど、かつて人間たちに追われた恐怖は、大きかったのだろう。そして彼女は、自らを、〈林檎の城〉に閉じ込めたのだ。

 今まで考えたこともなかったけれど、フィオリスは、一年前に初めて会ったときから、人間を怖がる様子はなかった。塔で生まれ育ち、外の世界での過酷な経験を持たなかったことが、フィオリスとユールカさんの差を分けたのだろうか。

 だが、彼女の孤独な日々にも変化が起きた。一人の〝旅人〟が、森に迷い込んだが故に。

「あの、ユールカさん。私たち、ダニールさんからの手紙を届けに来たんです」

 フィオリスとの会話に、おずおずと割って入る。

「……そうだったわね。それも、ゼナから聞いているわ」

 ユールカさんは、翳りのある笑みを浮かべた。

「今でも、彼が元気にしていることは知っているのよ。森から追い返すたびに、ゼナが教えてくれるから」

「なぜ、ダニールさんを突然ここから、その……遠ざけたんですか? 人間が怖いから?」

「だったら、そもそも助けたりしないわ。最初は、私と同じようにこの森に逃げてきて、行き倒れたんだと思ったのよ。彼が目を覚ましてすぐ、勘違いだとわかったけれど。

 ……ダニールと過ごした数ヶ月は、とても楽しかった」

 その、昔を懐かしむ口調に、嘘や強がりは感じられなかった。彼女にとっても、ダニールさんとの日々は、幸福な想い出なのだ。だから、余計に私は不思議に思ってしまう。

「アーリィさん、でしたわね」

 疑問が表情に出てしまっていたのだろう、ユールカさんがふふっと笑う。

「あなたには、きっとわからないと思うわ……人魚や〈竜人〉と、知っていて一緒に暮らしているんだもの、事実としては理解しているのでしょう。でも、実感はできるのかしら?

 ……あなた方の中で、まず間違いなく、あなたが最初に年老いて死ぬのよ」

「!!」

 息が止まりそうだった。鋭い刃物で、心臓を刺されたかのような衝撃だった。

「ダニールは、私が普通の人間でないことを知らなかったけれど、私は考えずにはいられなかった。まだ森の外にいた頃に、何人も何人も見ていたから。人間の赤ん坊が、あっという間に大人になって、よぼよぼのお爺さんお婆さんになって、弱って死んでいくのを。

 だから、ダニールにもそんな日が来ることを想像して……このまま一緒に暮らし続けることが、怖くなってしまったのよ」

 人魚と人間は、歳の取り方が違うから。生きられる長さが違うから。

 ――だとしたら、アープも、私に対して同じように考えたりするのだろうか? 緊張でからからに渇いたのどを振り絞るように、私は尋ねた。

「ダニールさんが先に死んでしまうのが……彼を失うのが、怖かった、ってこと?」

「違うわ。私は、そんなに優しい心の持ち主じゃない」

 ユールカさんの微笑に、毒が混じる。

「正直に言いましょう。私はね。年老いていく彼を見ていて、自分が、彼のことを愛さなくなるんじゃないかと、それが怖かったのよ。

 だから、彼を追い出したの――いいえ、私が、逃げたの。醜い女でしょう?」

 言葉を失う。ダニールさんからの手紙を握る手に、汗がにじんだ。私の背後で身じろぎもしないアープの気配、振り返って顔を見ることもできなかった。

 時の流れが停滞したかのような、重苦しい沈黙。それを破ったのは、

「……ユールカさん」

 彼女を見上げて、まっすぐに問いかける、幼いフィオリスの声だった。

「わたしにも、にんげんのともだちがいます。もしかしたら、わたしもいつか、カルルのことをすきでなくなるかもしれない。

 でも、だからといって、いまカルルとなかよくすることも、あきらめないといけないの?」

 疑問形の言葉。でもフィオリスの表情には、「そんなことはない」という強い意志が感じられた。子供ゆえの純真さかもしれない。けれども、私はそれに勇気づけられた。

「――ダニールさんは、もうすぐ六十歳です。まだまだ元気ですけれど、いつ亡くなってもおかしくない歳です。今でもあなたに会いたがっています、とても」

 手紙を差し出し、頭を下げる。

「一度でいい、生きている間に会ってあげてください。お願いです」

 ダニールさんのための願いなのか、それとも、同じ人間である私自身のためなのか。ぽん、とアープが私の頭に手を置く感触が伝わってきて、泣きそうになった。


 デレの村に戻った私たちは、ダニールさんに〈林檎の城〉に着いたこと、ユールカさんに手紙を渡したことを簡単に報告した。彼女の素性や、会話の内容などは伝えなかった。

 彼女からの返事は、黄金色に輝く一房の髪と、瓶詰めの林檎ジャム。

 ……ユールカさんは、なぜ私たちに会い、話してくれたのだろう? ずっと一人で抱えてきた思いを、吐き出したかったのだろうか?

 〈林檎の城〉の女王と旅人の物語の結末がどうなったのかは、誰も知らない。



第四話 終

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