5 銀狼

 アープの言葉を聞いた瞬間にはわからなかったが、すぐに、ガサガサと何かが森の中を移動する音が周囲から聞こえることに気がついた。音だけから判断しても、かなりの数だ。考えて見れば、昨日から見慣れぬ黒竜が上空を飛んでいたのだから、狼たちも警戒していたのかもしれない。

 着陸はしたものの、すぐまた飛び立たなければいけない可能性も考慮して、私とフィオリスはアープの背の上に乗ったまま待機する。

 あっという間に、遠巻きにではあるけれど、ぐるりと取り囲まれてしまった。森の中のあちこちに光る目が、じっとこちらを見つめている。唸り声も立てず、気配だけが伝わってくるのが余計に怖い。私の背中にしがみつくフィオリス。

「銀狼のおさ

 アープが呼びかけると、狼たちが一瞬たじろいだのがわかった。……そっか、私は慣れているけれど、狼たちにしてみれば竜は畏怖の対象なんだ。と気づくと、アープの存在に、少し心強くなる。

「俺たちは、手紙を届けに来ただけだ。用が済んだらすぐに帰る」

「手紙?」

 森の中から言葉が返ってきて、私は息を呑むほどびっくりした。

「竜が手紙とは、異なことを」

 そう言いながら歩み出てきたのは、全身が銀色に鈍く光る、一頭の狼だった。〝狼〟とは言っても、身体の大きさは、普通の狼の倍くらいはあるだろう。警戒しているのか、しっぽをピンと立てている。

「それではまるで、人間の使いではないか」

「まるでも何も、その通りだが」

 事もなげに言うアープ。「俺は今、郵便配達業だ」

 銀狼が、無言になってしまった。アープの会話が噛み合わないのは、人間相手だけじゃないのか……。脱力したが、それで私の緊張が解けたので良しとしよう。

「アープ。もしかして、銀狼が人間の言葉を喋れるって、知ってた?」

「本に書いてあった」

 やっぱり。

 何にせよ、話ができる相手なら、説得できるかもしれない。私は意を決して、フィオリスをアープの背中に残し、一人地面に降りた。

 ――大きい。

 最初に思ったことは、それだった。勿論、竜形態のアープのほうがずっと大きいのだが、真正面から向き合った銀狼には、こちらに迫ってくるような威圧感があった。

「〈郵便配達アーリィ&アープ〉の、アーリィ・フェイです。ユールカ・メリエさんに、手紙を届けに来ました。通してもらえませんか」

「竜使いか」

 銀狼が私を見下ろして、言った。

「人間は、誰も通さぬ。それが、ユールカとの約束だ」

「約束?」

 私は訊き返す。

「……でも、ダニールさんも、一度は奥へ入れたんじゃ……」

「ユールカがこの森に逃げ込んできたとき、『危害を加える人間は、誰も通さぬ』と約束した。あのとき、森の中で倒れていた男は、それに該当しなかった。

 だが今ユールカは、人間と接することを望まぬ。あの男だけでなく、他の誰とも。それが、ユールカの精神を傷つける故」

「私たちは、ユールカさんを傷つけに来たんじゃないわ。手紙を渡したいだけよ」

「そなたの意図は関係ない。ユールカが望まぬ以上、我々は約束を守る」

 ……これは手強い。ユールカさん本人が気を変えない限り、狼たちは約束を律儀に守り続けて、ここを通さないだろう。しかし彼女に会わないと、気を変えてくれるよう働きかけることもできない。もしアープが強行突破するなら、狼が阻止することは無理だと思うけれど、あまり手荒な真似もしたくないしなぁ……。

「にんげんじゃなければ、とおってもいいですか?」

 アープの背中の上から、声が聞こえた。フィオリスが地面に降りてこようとしているので、慌てて手を貸す。

「わたしは、にんげんでもあるけれど、それだけじゃないです。にんぎょのちもひいています」

 震える声でそう言って、フィオリスがまっすぐに銀狼を見つめたとき、長が、はっきりと驚いた様子を見せた。

 ――この反応には、覚えがある。

「……娘。名は、何という」

「フィオリス。フィオリス・ニールです」

「そうか。我が名はゼナ」

 狼が、深く息を吐いた。「そなたなら、ユールカは拒まぬだろう」

「アーリィさんとアープさんも、いっしょじゃだめですか」

 フィオリスが食い下がる。「アープさんは〈りゅうじん〉だから、にんげんじゃないし。アーリィさんはにんげんだけど……えっと、わたしのつきそいで」

 しばらく、狼は黙り込んだ。だが、フィオリスが姿を見せて以降、態度が明らかに軟化している。何とかなるかもしれない。

 そして、静かに狼は言った。

「よかろう、ここは全員通す。だが、ユールカが会うかどうかは、わからぬぞ」


 アープが人間形態になって身支度が済むのを待って、私たちは森の奥へと歩いていく。

 去り際に銀狼の長が言った、「約束は約束だ。だが……これで良いのだ、恐らく」という言葉。彼女(多分)にも、ユールカさんが何十年も森に一人で籠もり続けていることに、何か思うところがあったのかもしれない。

 やがて、林檎の良い香りが漂ってきて、たわわに実をつけた木々が見えてきた。その向こうに、石造りの建物。あれが、〈林檎の城〉だ。

 狼たちから知らせを受けていたのか、家の前に一人の女性が立っていた。

 銀狼の長が、昨日フィオリスを初めて見たときのダニールさんと、同じ反応を見せたとき。「そなたなら、ユールカは拒まぬだろう」と言ったとき、直感で、そんな気はしていた。

 〝彼女〟と、フィオリスは、同じなんじゃないかって。

 長い金髪がとても印象的な、数十年経った今でも三十歳前後にしか見えない美しい女性は、複雑な目の色を湛えて、私たちを見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る