4 フィオリス
〈泪の湖〉に浮かぶ島の上に築かれたその街は、幻影の都だった。
広さだけなら、恐らくラプラスの街と比べても大差ないだろう。けれども、見事な彫刻の施された建物の数々、通りにあふれる異国の品々、街を歩く人々の華麗な装い、インシュダリア王国の王都と比べても遜色ないほどの繁栄が、その街にはあった。
――しかしその繁栄が、一人の少女の嘆きの上に成り立っている儚い夢であることを、この街の人々は気づいているのだろうか?
「もちろん、〈嘆きの姫君〉には感謝していますよ、いつもね」
私たちをここ、シルドレットまで連れてきてくれた宝石商人たちとともに訪れた館で、その男は神妙に答えた。その男を始めとする街のごく少数の有力者が、合議で街を治め、涙水晶の卸値を決めたりしているのだという。
「〈嘆きの姫君〉が涙を流し続けてくれなければ、我々は今の平穏な生活を失ってしまうのですからな。いくら感謝してもし足りない」
「平穏……ね」
私は男の指を見ながら、つぶやいた。
(それ以上の恩恵も、いっぱい受けてるみたいだけど)
そこには、一国の王侯貴族でもなかなか手に入れられぬような、豪華な宝石がきらめいている。涙水晶を買いに来た宝石商人が、それと引き換えに街にもたらした富だ。
だがそれが、〈嘆きの姫君〉の手に渡ることは、恐らくない。彼女は、一切の楽しみや喜びから遮断されていなければならないのだから。高い高い塔の天辺から、下界の美しい夢を見下ろして、ただただ孤独に涙を流し続ける……。
「いや、いつ来てもこの街の素晴らしさには、目を見張りますな。これほどの街は、世界中探してもそうはないでしょうよ」
「それもこれも全て、この地で涙水晶が採れるおかげですよ」
「そうですな。どこに持っていっても、涙水晶は非常な高値で売れる。最近では、〈嘆きの姫君〉の伝説の効果でさらに人気が上がっとります。まさに〈嘆きの姫君〉さまさまですな」
「いや全く」
談笑する、街の有力者と宝石商人たち。
ラプラスの街で、吟遊詩人の語りを聞いたときは、美しい物語だと思った。
でも現実は……
こんな残酷なものだなんて、思わなかった。
(こんな……こんなのって……!)
わけもわからず、ただ叫びそうになったとき。
私の肩に、アープが軽く手を置いた。
(アープ……?)
思わず、隣りに座るアープを見上げる。
彼は私のほうを見てはおらず、金の瞳でじっと談笑する有力者たちを眺めている。その整った横顔は、相変わらず何を考えているのか、私にはわからない。
「――成程。確かにこの街の富は、〈嘆きの姫君〉のおかげだな。全て」
その言葉に、宝石商人たちが私とアープを振り返る。
だから、商人たちは気づかなかったに違いない。ほんの一瞬、街の人間の顔に狼狽が走ったのを。彼らにも、姫君に対する欠片程度の良心や罪悪感が、あったのだろうか。他人に指摘されると、さすがに痛いのかもしれない。
「いやその通りで……」
だがすぐに笑みで隠して、男はこちらに話しかけてきた。
「アープ・クラウドさんと言われたかな。シルドレットには、何の御用で」
「俺はこいつについてきただけだ。用件ならこいつに訊いてくれ」
自分が
「あ、えーと……〈嘆きの姫君〉には誰も会えないんですか、本当に」
さっきまでいろいろと言ってやりたいことはあったのだが、とりあえずそんなことしか出てこない。だが。
「も、もちろんだよ君!」
街のお歴々が、血相を変えて言った。
「〈嘆きの姫君〉は、この街にとっては生命線なんだぞ。誰も、街の者でも会っちゃいかんことになっておる!」
「もし姫の涙が止まったりしたら、この街はどうなることかわからん。誰も姫の嘆きに触れてはならんのだ!」
そう言いながら、ちらちらと窓の外を見る。その視線の遥か先には、虚空にそびえる一つの塔。多分そうだろうとは思っていたが、あそこに〈嘆きの姫君〉はいるらしい。
私が受けた依頼は、カルル少年からの手紙を〈嘆きの姫君〉に届けること。そのためには、絶対に彼女に会ってみせる。
――この街なんかどうなったって構やしないと、正直思った。
宝石商人たちに、迷惑をかけるわけにはいかない。
翌日、彼らと一緒に一旦街を出たあと、私とアープは隊商と別れた。この辺りは魔物が多いからと彼らはずいぶん心配してくれたが、私にはアープがいる。アープの背に乗って飛べば、怖いものなんかない。
夜になるのを待って、竜形態の〈黒きアープ〉を駆り、私はシルドレット上空へと戻ってきた。富み栄えるこの街は、夜でも無数の灯りできらめいている。だが、高い高い虚空の塔の天辺にまでは、その光は届かないようだった。
月光だけに照らされた塔のシルエットに、私を乗せたアープは音もなく近づいていく。たったひとつ、外に向かって開いた窓。そこから、私は中をのぞき込む。
まるで牢獄みたいにがらんとした部屋の中、一人の少女がうずくまっていた。月明かりを遮る私の影に気づいて、泣きはらしたような顔を上げる。
「――こんばんは、お姫さま」
窓の上から、私は声をかけた。「怖がらないで。私の名前は、アーリィ・フェイっていうの。あなたの名前は?」
少女はしばらく黙っていたが、やがて消え入りそうに小さな声で、おずおずと答えた。
「……フィオリス。フィオリス・ニール」と。
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