3 シルドレットの湖
〈泪の湖〉シルドレット。どこまでもどこまでも透明な水が冷たく光るところ。
吟遊詩人の語りから想像はしていたけれど、ここまでとは正直思っていなかった。
「すっごぉい、綺麗……」
湖を目の前にして、私はしばし絶句していた。
ラプラスの街の図書館ではちょっと無理だったけれど、その後この辺りで一番大きいクーヴェルタの街まで出かけて行って(もちろん竜形態のアープに乗って)、そこの宝石商で涙水晶の話を聞くことができたのだ。かなり希少な物らしく、クーヴェルタでも持っている者はいないとのことだが、商売柄、さすがにその産地は把握していた。
西方、インシュダリア王国内、ジュネイ山脈。そこに、〈泪の湖〉シルドレットは存在するのだという。
その辺りは、ラプラスやクーヴェルタと違って主に西方語の通用する地域だ。というより、そんな山中では西方語しか通用しない可能性のほうが高い。幸いにして、私もアープも西方語にはほとんど不自由しなかった。祖父の生前に相当各地を転々としていたためである。
早速インシュダリアへと飛んだ私たちは、そこで初めて涙水晶の実物を目にした。
それは、小指の先ほどの小さな丸い石だった。しかしその透明感といったら他に並ぶものがなく、見る角度によってはそこにないのではないかと思わせるほどだった。それでいて、やはり見る角度によっては、内に無限の宇宙を閉じ込めているかのような底知れぬ深みを秘めているのだ。
「成程。これは話に聞く、人魚の涙のようだな」
日頃〝詩的〟なんて言葉からは程遠いアープが、思わずそんな感想をもらしたくらいだった。
インシュダリアでは、〈嘆きの姫君〉の物語は広く知られているようだった。それも相まって、涙水晶の価値をますます高めているのだ。だが物語と同時に、湖の周囲に危険な生物が多く出没するという話も知れ渡っていて、そのためシルドレットと行き来するのは厳重な護衛をつけた、有力な宝石商人の隊商だけとのこと。なので、その隊商に頼み込んで、私とアープもシルドレットまで同行させてもらったのだった。
「はっはっは、驚いたかい嬢ちゃん」
隊商の一人の中年のおじさんが、自慢そうに言った。
「まるで、涙水晶そのものみたいだろ。この景色を見るだけでも、俺は危険の中ここまで来てよかったと思うね」
そう――本当にそうなのだ。
手ですくうとひんやりと冷たいその水は、やはりそこにあるかないかわからないほどに澄みきっている。湖をのぞきこむと、その透明度のために相当深く見えているはずにも拘らず、それでも底に届かなくて、そのあまりの深さには引き込まれそうな感覚さえ覚える。
遠くに目をやると、一転して湖水は日の光を浴びて、銀の鏡のような輝きを放つ。その中心に浮かぶのが、シルドレットの街。天を突くような高い塔が、太陽を背にそびえ立っている。
「夢のような光景って、こういうののことを言うのね……」
ほう、とため息をつきながら、ふと隣りに並んで立っていたはずのアープはと見ると。
アープは岸辺に膝をついて、さっきの私のようにその澄みきった水を両手にすくっていた。かと思うと
飲んだ。いきなり。
そして、
「単なる水だな」
一言であっさりと片付ける。
「あ……あんたって奴は……人がせっかく感動してる時に……」
やっぱりこいつに人間と同じ感性を求めるのは間違いだわ!
「はっはっは、飲んでも別に涙の味はしないよ、残念ながらね」
おじさんが笑いながら言った。「でも、この水が魔物を寄せつけない力を持ってるってんだからねえ、大したもんさ」
それを聞いて、ちょっと私はぎょっとする。
魔物と一つにくくってしまうと怒られるかもしれないが、アープだって本当は竜なのである。いや〈竜人〉だから人でもあるんだけど、それにしたって普通の人間ではないのは確かなのだ。なのに、その水を飲んでしまって大丈夫なの……?
「ね、ねえアープ……」
恐る恐る声をかけたが、しかしアープは私の言葉を聞いてはおらず、おじさんのほうに話しかけた。
「今まで、ここへ来る途中で実際魔物に出会ったことは?」
「ああ、それはほとんどないよ。ま、こっちだってそれなりに警戒はしてるからねえ」
「――だろうな」
一人うなずくと、アープはその金色の瞳で、湖の周囲の森を物言いたげに見回した。
「どうしたの?」
問いかけたのだけれど、ちょうどその時
「おーい、そろそろ船が出るぞー!」
「あ、はーい、今行きますー!」
街へと渡る唯一の交通手段の船が出るというので、それに乗り込むのにバタバタして、結局その場ではその話はお流れになってしまった。
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