第0話 お奉行所の話

 翌朝、赤いネズミが描かれた懐紙に包まれた小判を見つけたのは、七つの女の子。

「おっかあ、これ、なに?」

 女の子が見たこともない綺麗な金色の板を母親にみせると、母親の顔色が変わった。

「赤鼠だ! おまいさん、おまいさん、ウチの長屋にも赤鼠が来ましたよ!」

 女の子の母親は興奮して、前日の昼から寝ている亭主を揺り起こす。

「何だと!?」

 赤鼠という名前に亭主は驚いて身を起こし、家内が差しだした赤鼠の小判をまじまじと見つめた。

「……おまいさん、奉行所に……」

「言う前に、使わなきゃ!」

 赤鼠が家の前に置いた金子はその日のうちに使い切らぬと、その家のこどもが盗って食われる……という噂が、江戸の町をまことしやかに席巻していた。

 それで、家の前に金子を置かれた長屋の住人達は小判を米や魚や野菜に換え、近所の連中にせっせと配り歩いた。


 そんな中で、そのを受け取ったのが……北町奉行名代、澤山忠直の直参御用聞き、ハチである。

「お前さんところは兄弟が多いから、助かるだろう」

 ハチは十人兄弟の長男坊。両親はすでに亡く、すぐ下の妹は嫁に行き、次男坊と三男坊は奉公に出ているのだが、それより下の弟妹をハチ一人で育てている。そんなハチの事情を知っている近所のおかみさんが、赤鼠の「お裾分け」を届けてくれたわけだが、岡っ引きとはいえ奉行所に勤める人間が、盗賊の「お裾分け」をいただくわけにもいかない。

 それで、とりあえず「ありがとう」と受け取って、奉行所に持ち込んだ。

「赤鼠のお裾分け……ねえ」

 ハチが奉行所に持ち込んだ大根、ニンジン、葉物野菜にニシンの煮付けをまじまじと見つめ、北町奉行名代、澤山忠直はただ、深い溜息を吐く。

「ハチ、お前これ、弟妹に分けてやれ」

 忠直は御祐筆の櫻井紋次郎に命じてハチが持ち込んだ「お裾分け」の内容や分量は記帳させたが、「お裾分け」はそのまま、ハチの方に押しやった。

「いえそんな……盗賊のお裾分けを、アッシがいただくわけにはまいりやせん」

「別に、赤鼠がこれを盗んだわけじゃあねえんだろう。近所の奥方がお前の家を思いやって贈ってくれたものだ。お前んちの弟妹が喰っちまわねえと、腐っちまう」

 だが、忠直はが届いたすべての家を訪ね、何処の家に金子が届いたのかは調べよとハチに命じた。

「へい、承知いたしやした」


 金子が置かれた家の調べはすぐについた。

 ついでに、黄金の龍の置物が盗まれたという知らせも、盗まれた御店から奉行所に届いた。

「赤鼠……ねえ……」

 赤鼠の噂は、忠直の耳にも届いている。


 去年の暮れだったか……それは突然、現れた。

 最初の被害は布団の田村屋で、その時に盗まれたのが紅玉ルビーのネズミの置物。それにちなんで、盗賊は「」と呼ばれるようになった。


 随分とずさんな御店だったようで、蔵の管理を任されている奉公人が蔵に盗賊が入ったと気づいたのが、盗難に遭ってから数日後。

 三日に一度は蔵の整理をするように主人から申しつけられていたにもかかわらず、それを六日に一度、十日に一度と回数を減らしていたから起きた悲劇で、そのせいで「いつ」盗難に遭ったのか、詳しいことは未だにわかっていない。

 ただ、そのことはどうやら赤鼠の耳にも届いたらしい。次の窃盗からは、盗った品物の代わりに、赤いネズミの絵が描かれた懐紙を置くようになった。これなら盗られた品物も分かり易いし、盗った盗賊もちゃんとわかる。何とも律儀な盗賊であった。

 そうであるにもかかわらず、赤鼠の正体がわからない。おそらくは男であろうが、単独犯なのか複数犯なのかと問われれば、それはわからない。


 北町奉行……忠直の父親である澤山助右衛門さわやますけえもんは、赤鼠を複数犯だと言い、逆に南町奉行浅野一学あさのいちがくは、赤鼠を単独犯だと断ずる。


 澤山は、単独犯だとすれば、赤鼠はその手口が鮮やかすぎるという。

 赤鼠は間違いなく裏口などから侵入し、家人、奉公人の目に付きづらい経路を選んで移動している。そして、蔵や御店、果ては御店の主人の部屋に堂々と入り込み、目的の宝や少々の金子を奪って逃走している。こんな盗みを行うにはまず、事前に詳細な間取り図を入手し、出入り口、進入経路などの打ち合わせを綿密に行った上での犯行であると説明する。


 対して浅野は、押し込み強盗であれば力強い男達が幾人も押し寄せ、力尽くで品物を奪う必要があるために人数が必要だが、赤鼠は窃盗犯。

 深夜、家主が寝静まった後でそっと蔵に入り込み、目的の宝と少々の金子のみを奪って、そっと退散している。

 複数の人間が同時に家の中に入るとなると、合図や足音など、一人の時とは比べものにならないうるささ。家人に気づかれずにいることなど、不可能に思えると、説く。


 さて、忠直はと言うと……実は赤鼠には、ほとんど興味がなかった。


 それよりも、父である澤山から毎日毎日引き渡される白州の資料に目を通すのに必死。御祐筆の櫻井と二人で、やれ長屋の亭主が夫婦喧嘩の末に嫁の尻を五回もぶっただの、居酒屋で酔客が無銭飲食しただの、魚屋の店先で干していたするめが盗まれただの……今日などは女の子だと思って許嫁を捨ててまで散々貢いできたのに、いざ布団に誘えば実は男だった、美人局つつもたせとして処罰して欲しいなどと訴え出た男がいたから、「まずは許嫁いいなづけに謝ってこい!」と、怒鳴りつけたところだった。

 毎日の白州や取り調べで精一杯だったから、赤鼠のことは資料が上がってくるまで忘れっぱなし。南北二人の老奉行に任せきりになっていた。


「赤鼠ってなあ、何件になるんだ」

 忠直の問いに、傍で控えていた櫻井が資料をめくる。

「はい。去年の暮れから数えまして……四件。先日の城島屋で、五件目と相成ります」

「世間であまり評判の良くない大店ばかりを狙って……その宝を売った金子を、長屋に分けて……気前の良い、気が優しい連中に見えるがなぁ……」

 櫻井に渡された赤鼠の資料に目を通しながら、忠直がポツリと呟く。そんな忠直に、櫻井は大きく咳払いし、「若君!」とたしなめた。

「まあ……下手人が捕まった後からが、俺たちの仕事だ。捕まえるのは爺さん二人に任せようぜ」

 それっきり、忠直は赤鼠のことは忘れた。


 次に忠直が赤鼠のことを思い出したのは、それから二ヶ月ほど経ってから。

 空に浮かぶ満月がそれはそれは美しい、初秋のことだった。

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