大江戸いろは~swallowtail butterfly~

TACO

第0話 赤鼠の話

 誰が吹いたか、江戸の闇夜にけたたましい笛の音が鳴る。


「やべえ、ズラからねえと」

 外で鳴る笛の音を聞き、土蔵の中のマツはそう呟いたが、テツジは「あれは大丈夫、喧嘩を知らせる笛だ」と、慌てる様子も見せずに盗む品物を丁寧に確認し、それを自分の懐に入れた。

 マツが合図をすると、土蔵の中に大きなカゴが差し入れられる。マツが先にカゴに乗ると、カゴがゆっくりと上に上がっていった。

 テツジはそれを見届けながら、盗んだ品物以外を丁寧に、盗む前の状態に戻し始める。そして、金の龍の置物があった場所に、朱色の筆で描かれたネズミの絵を置いた。

 義賊、赤鼠が品物を盗む際、必ず行うことにしている儀式である。

 しばらくすると、カゴが再び土蔵の中に差し入れられる。

 テツジがそれに乗り込むと、土蔵の上では、ゴウとマツ、そしてバクが三人で一生懸命、身体の大きなテツジを乗せたカゴを引き揚げた。


 ゴウ、マツ、バクもそれなりに体格は良い方だが、テツジは身長六尺(182センチ)、体重二十貫(75㎏)を超える大男。引き揚げたあとには三人揃って、ひいひい、ゼイゼイと肩で息をする。

「ダンナ、これは計画違いだぜ」

「痩せてくれ、頼むから」

 弱音を吐くゴウとバクに「すまねえなあ」と頭を掻きながらも、テツジは外で鳴る笛の音がどんどん近寄ってくるのを感じ、三人にかわやの影に隠れているように命じて、自分は勝手口から外に出た。


 それから、頭に巻いていた紺色の布を外す。

 辺りを見回すと、一人の同心が笛を吹きながら歩いてきた。

 テツジは慌てて顔に巻いていた布を首に巻き付けると、寒そうに震え始めた。

「岡部! 丁度良かった!」

 笛を吹いて歩いていた男が、そんなテツジを見て、親しげに声をかける。

「これは……藤枝様ではございませぬか。どうなさいました」

 テツジはその男に初めて気付いたように、驚いた表情を作った。

「喧嘩じゃ、喧嘩。酔っぱらい同士の大げんかじゃ。怪我人が出るやもしれぬ、岡部、お前ちょっと行って止めてこい」

 藤枝とか言う男が命じることに、テツジは眉をしかめて困った顔を見せた。

 この辺りはテツジが今し方出てきたばかりの損料屋、城島屋の他は長屋ばかりで居酒屋などはない。つまり、この藤枝という男、どこかの居酒屋で起こったという大げんかから逃げだし、自分の代わりに酔客の喧嘩の仲裁をしてくれる他の同心を探して回っているのだ。

「拙者、今宵は非番にござる」

 ほれ、着物もこのように私服の作務衣……とばかりにテツジは両手を大きく広げてみせた。だが、藤枝はそんなことは気にしないからと首を振る。

「ここで会うたも何かの縁じゃ、手伝え」

「……致し方ござらぬ……」

 テツジは小さく溜息を吐くと、先ほど出てきた家の塀を二回、軽く叩いた。

「何をしておる?」

 藤枝がそんなテツジの行動を見咎める。だが、テツジは「さ、早く」と、藤枝の肩をつかんで、その喧嘩事件があるという方に藤枝を促した。


 塀の向こうのテツジの気配が消えた後、しばらくして……塀に耳を寄せていたマツは、ゴウとバクを促し、塀の外に出た。

 そして、テツジが二度、打った塀を調べ始める。塀の側に植わっていた柳の木の根元に、盗んだ黄金の龍の置物が無造作に捨ててあった。

 マツはそれを拾うと、ゴウやバクですら気づかぬ速さで、それを自分の懐に入れた。

「どうした、マツ」

 塀と柳の間にうずくまるマツをゴウが見咎めたが、マツは「何でもない」と首を振って立ち上がる。

「ダンナはどこにいっちまったんだ」

 バクがテツジを探すが、闇夜でも目立ちそうなテツジの大きな身体が見えない。それに、さっきまであんなにけたたましく鳴っていた笛の音も、もう聞こえない。

「まさかダンナ、奉行所にしょっ引かれたんじゃあ……」

「……そんときはそんとき。ダンナがドジだっただけさあ」

 テツジの行方を心配するゴウに、マツが冷たくそう言い放つ。

「それに、あいつはテメエが捕まっても、俺たちを売るようなバカじゃあねえよ」

 マツはそう呟き、「今日分の支払いは三日後だ」とだけ伝えて、ゴウとマツを帰らせた。


 ゴウとバクの背中が闇夜に消えたのを見計らうと、マツは「ふう」と小さく溜息を吐いて、先ほど自分たちが盗みに入った損料屋、城島屋の御店を見上げた。

「盗賊、赤鼠……。今宵、確かに金の龍、いただきに参上いたしやした」

 マツは城島屋の御店に向かってしっかりと頭を下げると、懐にしまい込んだ置物を確認し、城島屋をあとにした。

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