千代菊花魁の話
千代菊花魁の話 第1話
日本橋を渡ってすぐの目抜き通りに、江戸一番の呉服屋、大黒屋がある。
その大黒屋から1つ、2つ、3つ目の角を右に曲がって小路に出て7件目の店が、包丁研ぎ屋のマツの店である。
露天と言うほどではないが、吹けば飛ぶような粗末な
マツは高名な刀鍛冶の弟子だということだが、その師匠からの依頼があって、年に数回、数十日にもわたって山の中に籠もってしまう。だから、マツの店が開くことは珍しかった。
一年のほとんどを師匠と二人で山の中で暮らしていたから、店と分けて家を持つこともない。江戸にいるとき、マツはこの商売道具であふれた八畳ほどの店で生活していた。
マツは人嫌いで寡黙な男だったが、そんなマツでも年に三度か四度は、女を買いたくなることはある。特に山に籠もっている間は高齢の師匠と数ヶ月間、二人きりで暮らしている。
まだ二十四歳のマツは、山ごもりの後は無性に女を抱きたくなった。それで、吉原に女を買いに行く。
テツジとマツは、そこで出逢った。
まだ江戸の町にも吉原にも正月の名残がちらほらと残っている、雪が舞う日の宵の口だったように記憶している。
美しい遊女達が居並ぶ中に、その大きな大きな身体を横たえ、ただゆったりとキセルを吸う覆面男。遊女達はそれをたしなめることもなく、膝枕をしてやり、タバコをかえてやったりと、甲斐甲斐しく世話をしていた。
格子の向こうの客達は、そんなテツジを羨ましそうに眺めながら、「テツジのダンナ、邪魔だ、どいてくれ!」などと野次を飛ばす。
「そうだ、テツジのダンナ。今日という今日はもう我慢できねえ! 俺はアンタを買うぞ!」
一人の客の野次に、覆面男は「あーれー」と甲高い声を出して、女形のようなシナを作る。そして、「今宵のあちきのお相手はたれでありんす?」とふざけてみせた。
大きな身体に似つかわしくない、なよなよとした仕草に格子の向こうの客達は爆笑したが、テツジはふと、格子の向こうで自分をただ眺めているだけのマツに目を遣った。
「よう」
初めて会ったのに、まるで旧知のような親しみを込めた声で、テツジはマツに話しかける。そして、「まあ、上がれ」と、まるで自分が桃源楼の主であるかのように、マツを格子の中に入れてしまった。
「これ! テツジのダンナ! あんたはともかく、他のお客様を
桃源楼で飼っている一匹の子狸が……もとい、桃源楼の
子狸……もとい、信五郎に追い立てられて、テツジは腰を上げると、ふらり、ふらりと桃源楼の中に入っていってしまう。マツも慌てて、それに続いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます