ある同心の話 第3話

 若い妓夫が走り去り、その背中をぼんやりと眺めていたまつりが、はっと我に返って妓夫を追いかける。だが、そのマツをテツジが止めた。

「……追いかけなくて良いのかい、ダンナ」

「妓夫のことなんてまつりに任せておけば良い。それより、だ」

 テツジがまだ震えるほの香の小さな身体を、そっと抱きしめる。

「可哀想になあ……」

 そう呟いて頭を軽く撫でてやる。

「ダンナ……」

 テツジの声に、押さえ込んでいた感情があふれ出す。ほの香はまるで父親か兄に甘えるように、テツジの胸にしがみついた。

「怖かった、怖かった……」

「だろうなあ……」

 包丁すら握ったことがないほの香が初めて持った刃物が、今し方人を刺し殺したばかりの西洋ナイフだというのだから、気持ちの整理の付けようがないだろう。西洋ナイフはマツが取り上げたが、まだほの香の息は荒く、両手は小刻みに震えている。

「マツ、抱いてやれ」

 テツジの言葉に、マツが驚いて目を見開く。

莫迦ばか。抱きしめてやれと言っている」

 テツジはマツにほの香の小さな身体を押しつけると、自分は徳永の遺体に目を向ける。そして、遺体に向かって丁寧に両手を合わせると、慣れた手付きで遺体の瞳孔、頬の色や手足の硬直具合などを観察しはじめた。

「……これは……半刻、四半刻前に刺されたんじゃあねえな」

 テツジが、マツと同じ見立てをする。

「ほの香にこっち、見せるんじゃねえぞ」

 テツジはマツにほの香を気遣うように申しつけながら、すっかり固まった徳永の身体に手をかけ、遺体を仰向けに寝転がらせた。

「マツの言うとおり、徳永は外で殺されてこの部屋に運び込まれたようだ」

 遺体の具合をひとつひとつ確認しながら、テツジはマツにそう告げる。

「だが、どうやって」

 マツの問いかけに、テツジは覆面の上から、左手で自分の唇を覆う。

「わからん」

「まさか、死体が自分で歩いてここで寝転がったわけでも、あるまいし」

 マツの言葉に、テツジがはっと顔を上げる。

「転がる?」

「……何だ、ダンナ。まさか死体がコロコロ転がって、ここまで来たとか言うんじゃねえだろうな」

「そんなバカなこと、言うか」

 テツジはマツをたしなめながら、自分たちがいる部屋の次の間を見つめる。ふすまのスキマから、花魁の布団がまだ敷かれたままになっているのが見える。

「……布団? 布団で巻いて、誰かが運んできたってのかい?」

 テツジの考えに、マツがぶっと吹き出して笑う。

「布団なんてでっかいもの、運んでたらみんなが見るだろう」

「……そうなんだよな」

「それに、運び終わった布団は何処にしまうってんだ。せっかく運んだ布団をまた持って帰ったら、妓夫たちが覚えているだろうよ」

 念のため、花魁の部屋に敷かれた布団を調べてみたが、血の跡など何処にも付いてはいない。

「……なあ、ほの香」

 テツジがふと、花魁の部屋にないものとあるものに気づいて、ほの香に問いかける。

「花魁の着物は?」

「着物……でありんすか? 今日はどこの御店からもお届けはありんせん」

「じゃあ、この行李こうりは何処の誰が置いたんだ?」

 花魁の部屋のすみっこに置かれた粗末な行李に目を向けて、テツジは呟く。

「行李? こんなもの、いつもここにあるんじゃあねえのかい」

 マツも行李に目を遣るが、何の変哲も無い、いたって普通の行李である。

「……いえ? あちきが花魁の昼餉をお持ちしたときには、ここにはこのような行李はありんせんした」

 ほの香の言葉に、テツジとマツが顔を見合わせる。

「じゃあ、ここに誰が行李を置いたって言うんだ」

 テツジが眉をしかめながら、行李に手を伸ばす。蓋を開けた行李の中を覗き込んだほの香が、思わず大きな声を上げた。

「おい、ダンナ! ほの香に見せるな!」

 マツが慌てて行李の蓋を閉め、テツジが「すまん」とほの香に謝る。

 行李の中は、すでにどす黒くなりかけた血糊がべとりとこびりついていた。

「これに入れて運んだって言うのか」

 ほの香の叫び声を聞いて、子狸が……ではなく、忘八ぼうはちの信五郎が花魁の部屋に飛び込んできた。

「なんです。なんです、あの声は!」

 一番来て欲しくなかった人物が飛び込んできて、テツジとマツは思わず、顔をしかめる。忘八は花魁の部屋を見渡すと、状況を間違いなく察知し、そのまま白目を剥いて後ろにっくり返った。

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