ある同心の話 第2話
だが、事件はその夜のうちに起こった。
浦賀にいるはずの徳永が、桃源楼の千代菊花魁の部屋で遺体となって発見された。
「あちきじゃありんせん、あちきじゃあ、ありんせん!」
徳永の遺体の側では血みどろの西洋の
「落ち着け、落ち着けほの香!」
まつりがほの香を落ち着けようと頑張るが、ほの香の手の筋肉が硬直し、西洋ナイフを握りしめたままで泣き叫ぶので、近寄ることすら出来ない。
「おい、テツジのダンナを呼んでこい!」
まつりが新米の
血みどろの西洋ナイフを握りしめたまま、半狂乱で喚き散らすほの香を睨み付けながら、まつりは「あの役立たずが」と舌を打つ。
だが、そのまつりの肩をつかみ、後ろに追いやった後、ほの香の身体を優しく抱きしめる男がいた。
「……ほの香。良い子だから、この手、開こうか」
男はほの香の背中に手を回し、西洋ナイフを握った手を緩く握りながら、優しく、優しく語りかける。
「おマツさま……」
「うん、良い子、良い子だなあ。な、ほの香。俺にこの刀、
マツがほの香に問うと、ほの香は震える手を懸命に開こうとする。
「ゆっくり、ゆっくりで良いからな」
マツは西洋ナイフで自分の腕が傷ついていることも構わず、正面からほの香の手を握りしめると、冷たく、固く握りしめられたその手を温めてやる。
やがてほの香の手から西洋ナイフが畳に落ちると、マツは「よくやった」と、ほの香を抱きしめた。泣きじゃくり、頬を涙で濡らしたほの香が、甘えるようにマツの胸に頬を埋める。
「おマツ様。あちきじゃあ、あちきじゃあ、ありんせん!」
「わかってるよ」
マツはほの香を抱きしめつつもまつりに目を遣り、「こいつは誰だ」と訊ねる。
だが、まつりが大きく首を振った。
「こちらのお武家様は、うちのお客様ではございません」
桃源楼は遊女に優しく、客に厳しい
大部屋で遊ぶ客ならいざ知らず、郭の大事な部屋持ち遊女と遊ぶ客たちは、忘八である信五郎や妓夫頭のまつりが厳しく目を光らせている。
そのまつりが、この客は部屋持ち遊女の客ではないという。
「奉行所に知らせ……」
そう言って立ち上がるマツを、まつりが止めた。
「お気遣いは無用にて」
「は? お気遣い? 冗談じゃねえや、客が刺されて死んだんだぞ」
「このお方は、心の臓の病でお亡くなりでございます」
まつりの強い目の光りに、マツは眉間に深く皺を寄せ、にらみ返す。
「人が一人、死んでんだぞ」
「心の臓の病にて」
郭で、しかも花魁の部屋で見たこともない客が死んでいる……そんなトラブルなどまっぴらゴメンだとばかりに、まつりがマツを睨み付ける。
この男は身元不明の客として吉原できちんと荼毘に付し、埋葬するという。
有無を言わせぬまつりの目に、マツは一瞬怯んだが、自分の胸の中で泣きじゃくるほの香を見て、まつりをにらみ返した。
「俺は刀鍛冶だ。刀でやられた傷ならば、傷を診れば死因がわかる。連れて行くのは構わねえが、まずはそいつの傷を診せろ」
まったくの出任せだったが、まつりもこの男の素性、死因は気になっていたらしい。妓夫たちに遺体を降ろさせると、マツに向かって「では、このお客様のこと、他言無用にて」と念を押す。
マツは男の遺体に手を触れた。刺された傷の具合から失血死には間違いなかったが、さて……と、マツは首をひねった。
「……ほの香。お前、
マツの突然の問いかけに、ほの香が目を見開いて顔を赤らめる。
「振袖新造は、客の床には入れません」
ほの香の代わりにまつりが低い声でそう答えた。
「だよなあ……この傷な。こう……」
マツは若い妓夫を畳の上に寝かせると、自分が妓夫の腹部の上に
マツのような大男が、両手で強く胸を打ったのだからたまらない。若い妓夫は大きく咳き込むと、「痛い、痛い」と泣きわめきながら畳の上を転がる。
「……コロシ方はこんな感じだろうな」
だがマツはそんな妓夫にお構いなしに、若い妓夫に跨がったまま、ほの香とまつりを見上げて言った。
「遊女が客でもねえ男の上に跨がることなんざ、まずねえだろうし……このコロシ方だと、返り血を浴びないわけがない」
マツの言葉を受けて、まつりはほの香を振り返る。ほの香は西洋ナイフを握った手と、振袖こそ血で赤く染まっていたが、着物の胸元も顔も美しいまま。およそ返り血などはみあたらない。
「あちきは、
興奮さめやらず、肩で息をしながらほの香はそれでもしっかりと話し始める。
「……お倒れになっておられて……そばに、この小刀が……」
またも泣き崩れるほの香に手を伸ばし、その小さな身体を抱きしめてやりながら、マツはまつりを見上げた。
「なあ、まつり。俺な。このホトケ、外から運び込まれたと思ってるんだ」
「外からですって?」
「いま、ほの香が刺したにしては、ホトケの血がえらく乾いていてなあ……。身体の一部も固まっちまってる。それになあ……このお武家様、右の顔はえらく白いんだが、左の顔は色黒で……なんだか、ぽつぽつと、黒い斑点みたいなのがいっぱいついてらあ……」
マツは遺体を眺めながら唸っては言葉を絞り出し、また眺めては長く唸って言葉を絞り出す。自分の考えに、自信を持って話しているわけではなかった。
マツは年に数ヶ月、山の中で暮らす。
山にいる間は鳥やシカ、イノシシなどをとって自分で捌いて食べているから、なんとなく、ヒトも動物も似たようなモノもしれないと思って話しているだけだ。
考えに詰まったマツが唸り、そのマツの答えをまつりやほの香、若い妓夫達が待つその
「おや、テツジのダンナ、良いところに来たな」
マツとまつりがそう呼びかけたが、テツジはそれを制して「親父様が呼んでいる」と、ほの香の方に目を向ける。
だが、部屋の匂いに気づいて覆面を歪めた。
「なんだ……? この匂い……」
覆面の下の鼻が良く利くものだと感心しながら、マツがテツジにことのあらましを説明する。
「ほお?
ほの香をちらりと見遣ってから、テツジは遺体の顔を見つめた。
「……徳永!」
ほんの小さな呟きだったが、マツはそれを聞き逃さない。
「知り合いか?」
「南町奉行所の同心だ。赤鼠の痕跡を追って、浦賀に行ったはずだが」
テツジの言葉に、若い妓夫が「じゃあ、下手人は赤鼠だ!」と叫んだ。そこにいた全員が、驚いてその妓夫の顔を見つめる。
「だってそうじゃないか。赤鼠を追ってる同心が死んだんだ。そのホトケはきっと、赤鼠についてなにか尻尾を掴んでいたに違いない。だから、だから殺された……下手人はきっと、赤鼠だ!」
「んなわけねえだろうが!」
マツが両手を広げて首を振るが、若い
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