ある同心の話

ある同心の話 第1話

 翌日、哲治郎が奉行所に着くと、今度は赤鼠が紅玉ルビー西洋簪カチューシャを盗んだという話題で持ちきりだった。

「はあ!?」

 哲治郎は、元々深い眉間の皺を更に深くして、噂を面白おかしげに話す同僚を見つめただけのつもりだったが、自分より頭一つ大きな男に睨み付けられた恰好で、同僚が軽く腰を引く。

「おや、これは失礼」

 哲治郎は同僚に軽く謝ると、赤鼠担当の同心、徳永のところに足を運んだ。


「昨日、赤鼠が出たと聞いたが」

 徳永は事件の資料を眺めながら唸っていたが、哲治郎を見かけると手を挙げてそれに応える。

「おう。今度は浦賀の廻船問屋かいせんどんやの家らしい」

「赤鼠は江戸にしか出ぬのではなかったか?」

「気が変わったのだろう。今度はちゃんと赤いネズミの懐紙を置いて、浦賀の長屋にも一両小判を置いていったそうだぞ」


 江戸の長屋では赤鼠からもらった小判は奉行所に届け出る前に使い切るという、奉行所にとってはありがた迷惑な"作法"があるが、初めて赤鼠から金子をもらった浦賀の長屋では、生まれて初めて見る一両小判に長屋の者たちが驚き、戸惑い、浦賀の奉行所に素直に届け出てきた。

 浦賀の奉行所が調べたところ、浦賀にある廻船問屋の自宅が江戸で騒がれている赤鼠に襲われ、紅玉の西洋簪が盗まれたとわかった。

 それで浦賀の奉行所が「江戸でも赤鼠の情報が必要だろう」と事件を押しつけ……もとい、共同捜査を申し出てきたのだ。


 哲治郎は、浦賀の奉行所の同心が置いていった赤鼠の懐紙を眺める。

「これはニセモノだ」

 哲治郎が口を開くより早く、徳永が呟く。

「いいか岡部。まずは、朱の色が違う。それに、赤鼠のネズミはもっと繊細だ。こんな雑な絵じゃねえよ」

 五件目の城島屋に置かれていたネズミの絵と、今回の浦賀の御店に置かれていたネズミの絵を比べ、徳永がしたり顔でテツジに微笑む。

「ほら、並べると一目瞭然」

「……ほお……?」

 並べておかれたネズミの絵を比べてみると、確かに違う。

 徳永が「いつもの赤鼠」だと差しだした方の絵は、朱色の墨でネズミの全身が描かれているのに対し、「この度、赤鼠が置いていった」といって差しだした方の絵は、ネズミの顔のみ。それもネズミだと言われたからネズミに見えるが、さてそれをネコだと言われて差し出されればネコだと思うような、曖昧なシロモノ。

「たしかに一目瞭然」

 哲治郎が納得したように頷いた。

「ときに、その浦賀の御店で盗まれたという紅玉の西洋簪。時価総額でいくらになる」

 哲治郎が徳永に尋ねる。

「店主は南蛮人より五十両で買ったと言うが」

「南蛮人? そういえば、大分屋の主人は、南蛮人の友人からもらったと言っていたな」

 そこで哲治郎が、左手で唇を覆う。何かを深く考え込むときの、哲治郎の癖である。

「……どうした?」

「長崎の出島ならいざ知らず、浦賀にいる南蛮人など、数が知れている。此度こたびの廻船問屋と大分屋……実は同じ南蛮人から宝物ほうもつを受け取ったのではあるまいか」

 哲治郎の言葉に、徳永はとたんに眉をしかめた。

「イヤなことを思いついたものだ」

「……そうか?」

「お前の思いつきのおかげで、俺はその南蛮人に会いに行かねばいけなくなった」

 葡萄牙ポルトガル語も阿蘭陀オランダ語も話せない。通詞つうじを雇うのに一体いくらかかるんだと呟きながら、徳永は哲治郎の肩を叩き、上司のところへフラフラと歩いて行く。


 そんな徳永の背中を眺めながら、哲治郎は徳永が置いていった浦賀の事件の資料を眺めた。

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