第31話 永遠の平和

 グレゴリア王の左手が横へと水平に伸ばされる。

 それを見て隊長が全軍停止を叫ぶ。

 いよいよ眼と鼻の先に在る渓谷へと気勢を振り絞っていた兵士達は、たたらを踏むようにやや陣形を乱しながらなんとか前進を止めた。

 近衛騎士団や親衛隊の騎馬に妨げられ、後ろの歩兵達には前方に待っているものが見えない。しかしざわめく後続に何の指示も説明もしないまま、グレゴリア王は単騎でゆっくりと踏み出していった。

 周囲の騎士は誰もそれに続かない。

 常に隣に侍るべき親衛隊ですら出られなかった。

 それは、王の向かう先に在るものが、思い描いていた“戦場”ではなかったからだ。


 ダナス軍でたった二頭しか用いられていない白馬の、その一頭“プラティナス”の背で王はすぐそこに迫る光景へつぶやいた。


「なんだ……これは……」


 ここに来るまで想像していたのは、これまでで最大の剣戟の響き。

 先に着いているであろうレストリア王軍による波状攻撃に押されて、このダナス関を死に物狂いで守っている白馬隊の厚い壁。

 そして真っ先に見えてくるであろう、最後尾で指揮を執る白馬将軍リリーの、気高く美しい姿―――。


 ところが、いま目の前にあるのは剣戟も戦塵も存在しない静謐なるダナトリア渓谷と、その前で大きな円を描きだしているダナス四軍数千の戦士達だった。

 ダナス関をまもってすらいない。

 にも拘わらずそこに押し寄せて然るべきレストリアの軍勢が見えない。

 そして、勝利の歓声が上がっているわけでもない……。


 王は白いマントを翻しながら愛馬から降りる。足の下では先刻まで降り続けていた雨によって土が泥と化していた。

 円の中心を向いて佇んでいた兵達が、無言で歩み寄る王に気付き、道を開けていく。彼らにも言葉はひとつもなく、鎧の擦れる音だけが僅かなざわめきになった。そして彼らは敬礼もしなかった。今が戦闘中ならば王とてそれを当然と斟酌するが、戦の気配が止んでいるこの状態では信じ難いことだった。

 だが、ここに漂っている、尋常ではない重苦しさ……。


 彼らの中心に在るものが何なのか、王は必死に考えないようにしながら歩を進めていく。

 だが、心の内では確信してしまっていたのかもしれない。


「―――ッ」


 その円の内に足を踏み入れた瞬間、王は絶句し、凍りついた。

 左肩と左手の先から鮮血を滴らせながら佇むスピナー・フォン・オルトラス。

 副官ウィーゴ・ランバルに支えられて立つ、無惨に右腕を失ったケイオス・オブ・スタンフォード。

 壮絶な返り血で染め抜かれている、黒狼隊副官サンゼル・シュナイグ。

 戦傷こそないものの、まるで魂を失った亡霊のように俯いている白馬隊副官トッド・ゾブリ。

 左脇腹、右腕、そして右頬に凄惨な深手を負いながら、ただ呆然と佇む赤髪の青年。


「…………ジョシュ、彼女は…………」


 王は、彼らに囲まれるようにして蹲っている、見る影もなく傷みきった少年の背中に声をかけた。彼の腕が抱えているその白き寝姿に、喉がすぼんでうまく声を出せなかった。

 一歩、二歩、三歩……その光景に近づいて、もう一度言葉を絞り出す。


「リリーは…………し―――」

 躊躇い、後……

「死んでしまったのか…………?」


 ジョシュの黒髪が少しだけ揺れた。

 その傍で主の重みを失ったローザが微かにいななき、項垂れる。

 そして、少年は己の主君に背を向けたまま、低くつぶやいた。


「王様……俺達はもう……戦いたくない」


 また、黒髪が小さく揺れる。

 その声が上擦る。


「彼女を……」


 ゆっくり見せた横顔に透明な一筋が伝う。


「もう一度……殺したくないんだ」


 これほど悲しい戦場の呟きを、王も、将も、兵の誰も、これまでに一度として聴いたことはなく……そして二度と聴くこともなかった。

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