第30話 望み

 王軍の到着が近づいているその時、ダナトリア渓谷の深き狭間には不気味な静寂が生まれ始めていた。

 あれほど谷の空気を震わせていた怒号と悲鳴が、気が付けば嘘のように治まりつつあった。もはや途切れ途切れにしか上がらない断末魔の叫び。


 ドシュウッ……!

 側で銀鳳隊の騎士が剣を突き立てている。

 彼の足元には痙攣する肉塊。

 それを見てランスは己の次なる獲物を探して視線を巡らせた。


「…………ッ」


 何も、なかった。

 次なる獲物など一人として居なかった。

 辺りは地面を探せないほど死体で埋め尽くされている。そのほとんどはレストリア兵だろう……が、全てが形容しがたい壮絶な色に染まり見分けられない。

 ただ、呆然と周囲を眺めれば立っているのはダナス兵だけだった。

 そして一人一人の顔は返り血に染まり過ぎていて皆同じに見える。すぐそこの銀鳳騎士もかつての同僚のはずだがまるで判別できない。

 どこか遠くから残りの悲鳴が一つ、二つ響く。


 ――もう……敵は死に絶えたのか……?


 そう、胸の中で呟いた。その次の瞬間、二つの眼が大きく見開かれる。急速にランスの身体の内から凍りつくような冷たさが生まれ、四肢の先を目指して広がり始めた。


 ――なんだよ……これ…………。これほどの人間を……俺達は殺したのか…………?


 何……千。そういう数の死体……。自分の足元から始まるように、見渡す限りの渓谷中を、人の手で生み出した“残酷”が覆い尽くしている。それでもまだ、周りのダナス兵達は荒ぶる呼吸とぎらぎらした獣の瞳でレストリア兵を求めていた。それを見てランスの意識は急速に覚醒していった。


 右手から、剣が零れ落ちる。

 誰かの鎧に当たってガシャンと音を立てた。

 周囲の何人かの眼が彼へ向く。


 ランスは右手で左の脇を押さえた。

 今頃になってあの深手が開いていることに気付く。


 ランスは左手で右腕を押さえた。

 治っていなかったあの傷が酷い疼痛を訴え始めている。大量に腕を伝っている生温い血。


 ――“気にしないでくださいね。服なんて汚れたら洗えばいいんですから”


 そこに、包帯を巻いてくれた彼女の、優しい手の感触が甦った。


 ――“服は着古したら新しいものに替えられるけれど……身体はどんなに疵だらけになっても一つしかないんですよ”


 そこに居た彼女の柔らかな香りが、桃の季節のように瑞々しい唇が、慈しみ深いエメラルドの瞳が、次々と甦った。

 ポタリ……

 頬を伝って顎先から離れていく思い出。

 ポタリ……

 それは死体の上に弾ける。


「もう、やめよう……」


 まるで彼女を失った直後のような静寂の中、ランスが零した呟きは周囲のダナス兵の耳にそっと沁み込んだ。敵を探す彼らの瞳が動きを止める。


「リリー様は言ったんだ……」


 彼らの意識が、その一言で彼へと集まる。


「皆さんが無事に戻ってくれれば、それでいい……って。彼女は、俺達に生きてほしかっただけなんだ」

 ランスは兜のないその赤髪を、両手で鷲掴みにした。

「ダナスも、レストリアも、誰の死も望んでいなかった…… 彼女はこんなこと望んでいなかった……!」

 腕に隠れた彼の双眸から溢れるものが、ボタボタと足元の死骸へ降り注いでいく。

「ただ、俺達に生きてほしかっただけなんだッ…………!」


 彼の震える声が、ダナトリア渓谷の両壁に響きわたった。

 そして、彼を中心にしてダナス兵士達の手から、次々と武器が地面に落ちた。土の見えぬ、おぞましい地面へと。

 銀の雨が、いま、静かにあがっていった…………。

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