第29話 ダナトリア渓谷
「―――し、紫竜鉄鎖騎士団、総崩れです! 止まりません!!」
レストリア関の外で、赤鷹翼騎兵団一万五千は眼前の光景に何の支援も出来ないまま騒然となっていた。次々と逃げだしてくる騎士達は、もはや退却というよりも
そして、彼らの後方からは途轍もない何かが押し寄せてきている。弱まった雨の代わりに赤味のある煙が巻き起こっている。その奥から治まらない凶暴な咆哮……。
「ふ、副官……どうしますか? ホーク様の戻りを待っていては……」
部下が蒼褪めた顔で進言してくるが、赤鷹翼騎兵団副官マイン・サンディスはただ視線を泳がせ口を小刻みに開閉させるばかりだ。
これまで独裁的だったホークのせいで彼は指揮経験を積むことが出来なかった。あれほどの大口を叩いて渓谷へ入っていったホークは戻らず、何が起こったのかダナス軍の常軌を逸した猛反撃が目の前まで迫っている。
突然叩きこまれたこの状況に、マインは事態の把握すら叶わない。いや、これが現実であると信じることすら出来ていなかったのだ。そんな思考停止状態で、背に控える一万五千の兵の命を背負い、的確な指示を下すことが出来るだろうか?
それが望むべくもないことに、周囲の兵士達は否応なく気付かされた。
「も……もう駄目だ……」
誰かが声を震わせたその直後、遂にレストリア関からダナスの兵士達が溢れ出してきた。
凄まじい勢い。
凄まじい殺気。
特に、先陣を切っている二頭の騎馬とその上の騎士達の姿が見る者を一瞬で竦みあがらせた。
一人は長剣と盾を携える正統派の騎士姿だが、その刀身はおろか立派な盾までが返り血で赤黒く染まり尽くしている。“騎士の中の騎士”と憧憬を以て称えられていた事など想像も出来ないほどに“闘鬼”と化した金獅子隊副官ウィーゴ・ランバルだった。
そしてもう一騎……こちらはさらに凄絶に過ぎる。
両手に一振りずつ握る曲刀で、突き刺したレストリア兵の身体を持ち上げては地面に叩きつけ、ハラワタを引きずり出しては振り回して紅いものを巻き散らし……周囲の無数の修羅の中でもさらに悪魔のような絶闘。その騎士、黒狼隊副官サンゼル・シュナイグの狂気の瞳が呆然と佇む一万五千の兵達へ向いた。そして、躊躇うことなく馬首を向けて猛然と駆ってくる。その背に続いてダナスの血塗られた兵士達も押し寄せる。
「ぃ……ぃ……ひぃいいいいいッ―――!」
死地を潜り抜けすでに七千かそれ以下となっている傷だらけのダナス軍に対して、倍する無傷の一万五千が奮い立てば勝敗は分からない。だが、元々優勢だと思って安心していた上に指揮官を実質失った彼らが、命すら捨て去って一人でも多く殺そうと向かってくる羅刹の群に立ち向かえるはずもなかった。
誰かの悲鳴はそのまま軍全体の悲鳴と化し、右往左往していたマイン副官がサンゼルの二刀に三分割された瞬間、赤鷹翼騎兵団は泡が外に弾けるように完全崩壊を始めた―――。
「……はぁ、はぁっ……! な、なぁ……とうとう戦だな……はぁっ」
ダナス領内。
ダナトリア渓谷を目指して全速力で進軍する二万五千。
先頭をゆくグレゴリア王とその近衛騎兵隊を追いながら、訓練兵も多く含む二万を超す歩兵達は近づく戦場に緊張を高めていた。
「正直……怖いんだ。初めての参戦で……はぁッ……総力同士の決戦なんて……」
「……そんなん、俺もだ……! あんなに訓練してきたけど……殺されるかもしれないなんて感じるの……初めてだからよ……!」
ざっざっざっざ、と響く足音の塊と、ガシャガシャと鳴る鎧や盾、槍、剣……その騒音を縫って、歩兵達は息も切れ切れに言葉を交わす。
この長い十年戦争はいつしか徴兵によって次々と兵士を育てるようになっていた。前線で戦う四軍の補充要員として鍛えられる新たな戦士達。中には既に四軍のどれかを経験していて、負傷や何かの事情で王軍に戻っていた者もいる。だがほとんどの歩兵は今日まで訓練兵に過ぎなかった若者であり、その未熟者をまとめて全軍出動となるなど、この十年間に一度も無かった事態だ。
当然、死への恐怖心が大きい。
当然、相手を殺すことへの躊躇いもある。
当然、このまま逃げ帰りたい気持ちもあるだろう。
……だが、彼らの胸には一人の女性が居た。
三ヶ月に一度、或いは冬の休戦期間に前線から帰還すると、負傷して帰都していた兵の安否を確かめに回り、そして練兵に顔を出し、そこでの負傷者達の手当てや看病にも献身する。
自分の安らぎや幸せなど何処かに置き忘れたまま戦士を想い、戦を憂い、いつも悲しそうな顔で再び前線へと戻っていく。
彼女はよく口にしていた。
“貴方達が来る前に戦争を終わらせたいです”
“貴方達に人の命を奪わせたり、命を落としたりさせたくないです”
そんな時の声も、微笑みも、その奥に感じる痛みも、彼らは忘れられなかった。
あの人が今この瞬間も前線で必死に戦っている。
醜い現実に心を引き裂かれながら立ち向かっている。
そう思えば、逃げ出しそうなこの脚もひたすら前へ進めることが出来た。
それに、先頭を駆るグレゴリア王の勇姿……。これから命を懸けるのは自分たちだけじゃない。王自ら指揮を執り、この決戦で戦を終わらせるという覚悟を声高に宣言してくれた。この若き王もまた、国を想い、国民の暮らしを想い、前線の戦士達を想い、そしてきっと……あの雪のように美しい女性のことを心から想っているのだ。
「―――渓谷が見えてきたぞ! 気勢を上げろ!!」
彼の声が響いた。
親衛隊も近衛騎兵隊も追従する歩兵達も一斉に鬨を上げる。
己を奮い立たせ、さらに渓谷で奮闘しているであろう四軍に援軍の接近を伝えて勇気をもたらす為に。
ダナトリア山脈の裂け目が、少しずつ鮮明になっていく。
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