第28話 別れ
大将軍が討ち取られ、紫竜鉄鎖騎士団の士気はもはや持ち直す一縷の可能性すら無くなった。
副将エルフィーネ・オブ・クーデリオは後方で必死に抗いながら退却の命令を叫んでいる。
千人隊長ルクス・シルバは最前線ですでに憤死。
そして、レストリア関の外に待機する七千の軍を指揮しなければならなかったホーク・ルイ・オブ・ハインドは……
上瞼の奥へ半分消えた黒瞳で、ホークは空を眺めていた。
瞼も、瞳も、全身の筋肉も、ぴくぴくと小さく痙攣し続けている。眦と鼻と耳と口の全てからダラダラと漏れ続ける血液。四肢はそれぞれに好き勝手な方向へ曲がり、体の内側では破裂した臓物が無秩序に溶け合っているのが自分で理解できた。
――早く……死んでくれ……俺の肉体…………
もう助からないと解かっている以上、一秒でも早くこの地獄の苦しみから逃れたかった。だが、敗戦の責すら負えない身勝手で下劣な男に、まるで戦の神が罰を与えているかのように息が続く。細く、弱く、途切れ途切れに……
雨足が徐々に弱り始めた。見上げている空の雲は一時の濃い灰色を失い、絵の具の中に水を注いでいくように淡く白みを増していく。その向こうに今も居るのであろう太陽を思い、ホークは何となく自分の愚かさを感じた。
レストリア家の血縁、軍閥の名門ハインド家に在って異端児と扱われた過去。
発明に明け暮れた子供の頃、親兄弟すら自分を落ちこぼれと扱うことを躊躇わなかった。それはやがて幼い心を蝕み、周囲への憎悪だけを育んだ。
誰も自分の才能の素晴らしさを理解しない。
誰も自分の将来に期待しない。
“お前に何が出来るんだ”だと? 見せてやろうじゃないか。ハインド家の誰よりも歴史に名を残してやる―――。
募る怒りは揺るぎない野心となり、あらゆる手段を講じて国の中枢へ道を拓いた。そして遂に二年前……このダナス攻略の総指揮官にまで辿りついたのだ。
だがそれすらも野望への途上に過ぎない。この大戦を利用して英雄になり、政治を牛耳って国を支配し、歴史にその名を燦然と輝かせる。ハインド家と言えば……いや、レストリア国と言えばホーク・ルイ、そうなって初めて自分の渇望は満たされるはずだった。
でも……いまこうして命の終わりを迎えながら遠い太陽を感じていると、描いていた何もかもが幻だったかのように思えてゆく。
たとえ“それ”を為したからと言って、一体なんだったと言うのだろう……。
百年後の紙の上に自分の名は在るかもしれない。だが、その未来を生きる人々の心に、唇に、自分の名は存在するのだろうか? 思い出したい人間として、記憶の架け橋の上を渡し続けてもらえるのだろうか?
太陽はあの高みにある。きっと何も望まずに、ただ人に与え続け、だから人は慕い続けて……。
ふと、空の光を遮る影がホークの視界を覆った。破れた鼓膜は何も拾えなかったが、そこに誰かが立ったのだろうとだけ知る。
影が蠢く。
下向けた刃を振り上げていることも
その者の左脇腹が鮮血を滴らせていることも
その者の右頬が頬骨まで剥き出しになっていることも
そしてその双眸から悲しみが止め処なく溢れていることも、ホークには判らない。
――さぁ、影よ……この愚かな男をお前の世界へ連れて行ってくれ……
影が、覆い被さるように蠢いた。
――俺には……あの光の前にいる資格はなかったから……
意識の中心が貫かれる寸前、ホークは頬に温かなひとしずくを感じた気がした。
レストリア軍第二総指揮官、赤鷹翼騎兵団隊長ホーク・ルイ・オブ・ハインド将軍はここに戦死となった。
しかし、彼の首級が雨の中に掲げられることも、陽の下に晒されることもなかった。
……少しずつ弱まる雨がしとしとと包みこむ中で、ジョシュはリリーの亡骸を見つめ続けていた。
傍らにはトッド副官ただ一人、そして愛豹ダークが悲しげに鼻を鳴らしながら座っている。
どれだけ腕に抱えていても、リリーの身体は再び熱を取り戻すことはなかった。
雨に打たれて赤い血は徐々に洗い流されていく。まるでそれが連れていくように、彼女の体温もまた失われてゆくばかりだった。
「リリー……還ってきてよ……あの日のキミはちゃんと還ってきたじゃないか……」
四年前の冬、出会いの日。
ダナトリア渓谷の雪原を渡ってきた白い女性。
凍りつくような肌で気を失った彼女を黒狼隊が保護し、手厚い介抱の果てに彼女は体温も意識も取り戻した。
“オレはジョシュ、この部隊の将軍だ。あんたは……?”
「もう一度答えてよ……リリーですって……他には何も分からないって……。今のオレならキミが何者なのか少し教えてあげられる……。キミに妹が居るかもしれない……生まれた国へ連れて行ってあげられるかもしれないんだよ……」
ジョシュは、彼女の頭を優しく起こす。
覗き込む顔をゆっくり近づける。
そしてその少し開いたままの血染めの唇に……そっとキスをした。
――キミを、幸せにだってしてあげられる……のに―――
そこに命の感触はなかった。
抱いた背中よりも、彼女の喉を貫く矢よりも、光のない瞳よりも、その冷たい唇には何処よりも無情に“死”が満ちていた。もう神のどんな奇跡も間に合わないのだと、少年の唇から心の奥まで伝わってきた。
触れ合ったまま震える柔肉。
彼の瞳から再び涙が溢れ出す。今度は熱いそれではなく、ただ静かに、熱もなく頬を滑り落ちて自分と彼女の唇を濡らしていった。
ボロボロの全身が急に痛み始める。かつて彼女を嬲ったというあの下劣な賊に刻まれた無数の傷が、彼女の過去の痛みを少しでも共有しようとするように全身を
「オレは……キミとの約束を守ったよ。そして、これからも守り続けるよ」
もう一度だけ、とても短い接吻をして、彼はその寝顔に微笑んだ。
「だって……きっと、キミはそう望むから」
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