第27話 悲嘆の鬣

「―――何と言うことだ、我が騎士団が敵に背を向けているとは……」


 紫竜鉄鎖騎士団将軍ゾイ・バレッドは、その巨大なクレイモアを握りしめたまま愕然と戦場を眺めていた。

 もはやこれ以上怒鳴っても兵を押し留めることは出来ないだろう。ダナスの咆哮……いや、慟哭が、軍の士気もバレッドの指揮力も呑み込んでしまった。押し寄せる逃走兵と悪鬼羅刹の津波……

「……この状況を覆せる可能性があるとするなら……ラット、貴様を血祭りに上げその首級を高く掲げることだけだ……そうは思わないか?」

 彼の視線が、正面の獅子兜の騎士へ向く。しかし、彼はただ俯いたまま何も答えない。

「どうした? 我には勝てぬと悟って無抵抗を決めた……というわけではないだろう? なにしろその凄まじい氣……どうやらあの愚か者が仕留めたという白馬将軍は、貴様にとっても特別な存在だったようだな」

 ケイオスは顔を上げない……が、折れた右剣とひびの走る左剣を握る両の拳が激しく震えている。

「一将の死など勝利への添え物に過ぎん。それぐらいのことで我を失うとはな……悪いが貴様が顔を上げるのを待ってやる暇はないようだ。そのまま動かねば我にとって初めて掲げる首級としてやる」

 バレッドの大剣がゆっくりと右肩に、水平に振りかぶられる。

「……名誉に思え」

 その厚い切っ先がケイオスの左の首筋へ目掛けて風を巻いた。


 ゴォッッ―――!


 重い音を生みながら、刃がケイオスの頭部を中空に躍らせた。

 いや、正確に言えば、側頭部に擦って金獅子を模した兜だけを宙に舞わせたのだった。彼は接触の瞬間に素早く身を屈めていた。


「やはり死ぬ気は―――」

 柄を握る両手の筋肉を張りつめさせながらバレッドが言葉を吐き出す。

 ケイオスの跨る黒馬が身を低くしながら地面を蹴った。二頭の顔面が擦り合わされるようにして重なる。

「ッ――馬鹿め!!」

 “やはり死ぬ気はないか”……そう叫ぼうとしていたバレッドが言葉を変えた。いかに攻撃直後といえこうも真っ向から懐を狙って来るなどただの自殺行為だ。この返す刃の速度はそれを十分に捉える……そんなことはこれまで斬り結んで嫌と言うほど理解しているはずだが、失った冷静が捨て鉢の動きをさせたのだろう。

 ――どうやらこの程度の男だったか

 久しく見なかった好敵手に抱いていた血の昂揚は、この最後の一振りを以て雨の中に醒ますことになるだろう。鎧の内で盛り上がった筋肉が左に抜けた鋼鉄の大剣を急停止させ、爆発的な再動で右へと返らせる。ケイオスの動きへの失望はもう一点。馬の踏み込みをバレッドから見て右ではなく左にさせてきたことだ。返す刀への距離は圧倒的に近く、これにより回避の可能性はもう―――


「ッ……!」


 身を屈めて飛びこんでくるケイオスの顔が僅かに上向いた。

 そしてそこにバレッドは見た。紅い涙を伝わせる両の頬と、その源にある瞳に覚悟の光を。捨て鉢などではない。途轍もなく巨大な感情と、それを昇華させる確かな意思が彼の二つの眼に宿っていた。


 ケイオスの右手が、折れて短くなっている剣を逆手に持ち替え、そして腕の外側に刃を立てて構えた。肩口に襲いかかるクレイモアへの盾として―――。

 壮絶な破砕音が鳴る。

 大剣の重厚な刃に触れた右剣が砕け散りゆき、それに当てている右腕のガードも圧力に潰れていく。

 それだけでは止めきれない巨大な力に、右腕の皮も、肉も、血管も、そして肘と腕骨まで食い破られていき、肘先から侵入した厚刃に二の腕も上下に裂き開かれていく。


 この一瞬の永遠の中、爆散していくものに血液も肉も骨も判別できはしなかった。“右腕の全て”……バレッドの眼に把握できたのはその一点の事実だけだ。そして、己の大剣が相手の肩口でついに勢いを殺し切られてしまったことと……


「―――ぅおおああああああああああッッ!!」


 壮絶な咆哮をあげたケイオスの左の剣が、まるで隼の如き速度で突き出されてきたことだ。顔面に迫る銀色の光が、静止している雨粒を一つ二つと突き破り、そして視界にこれ以上なく大きく広がり―――レストリア最強の将軍ゾイ・バレッド、畏称“消し去る者バニッシャー”の記憶と伝説はここで消滅した。引き換えにダナス随一の二刀捌きを永遠に奪い去って。


 主を地に失った巨躯の空馬を背後に送り、ケイオスの黒馬もゆっくりと足を止めた。

 周囲を通り過ぎていくのはダナスの兵。これ以上指揮を執ろうとしても彼らの狂気は制御出来ないだろう……それを思考の片隅で理解しながら、ケイオスは静かに愛馬アケロンのたてがみへと上半身を埋めた。

 激痛や灼熱という言葉では表しきれない右半身の訴え。遠のいてゆく意識は肉体の苦しみから逃げる為なのか、それとも……。

 ただその左手の剣だけは、全てが闇に吸い込まれても決して手放すことはなかった。

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