第26話 栄誉

 断崖の半ば、小さな足場の上で三人の騎士は呆然と戦場を見下ろしていた。

「ど……どうなってんだよ……これは……。なんで敵の指揮官を殺ったのに……俺達がどんどん押し込まれてんだよ……」

「押し込まれてる……?」

 ホークの言葉に側近のゲイルが鸚鵡オウム返しで呟いた。彼の横顔を信じられない物を見る眼で凝視し、それからもう一度眼下に視線を落とす。

 この指揮官はこれを“押し込まれている”などと表現するのか?

 ここにまだ戦が残っていると感じるのか?

 これはもう違う。これは、ただの大虐殺。ただの―――


「―――“地獄”へ、貴方達も堕ちなさい」


 不意に背後からあり得ない声が聴こえ、ホーク、ゲイル、ゴーシュの三人は一斉に視線を向ける。

 そこにはなんと崖を這い上がってきたスピナーが立っていた。

「ク、クレセント! 馬鹿な……どうやって……!」

 ホークの顔が一気に驚愕と恐怖に満ちる。

「愛槍にずいぶん無理をさせただけです」

 急角度極まる岩壁に杭を打ち込むように使ったのだろう。両刃の一方がボロボロに欠けていた。

「でも……もうどうでもいいんです……」

 長年愛用してきたその槍の変わり果てた姿を見つめながら、スピナーは酷く穏やかな声で呟いた。


「お、お前ら、あいつを止めろ! 絶対に止めろ!」

 側近の尻を蹴りながらホークはトールハンマーに矢を番えようとする。だが元々普通より少し時間がかかる兵器の上、焦りによって手元が覚束ない。


 押し出されたゲイルとゴーシュは大盾を構え、腰の剣を抜き、だが蒼褪めた顔の中でがちがちと歯を鳴らし始めた。

 それもそのはず、彼らはホーク同様、戦場の真っただ中で命の遣り取りを味わったことは一度もないのだ。そんな彼らの前に立つのはダナス軍最強者の候補に数えられている怪物、銀鳳将軍。“クレセント”の勇名を鳴り響かせている男。


 スピナーは槍を見つめたままゆっくりと歩を進める。

「この槍も……あの人を守るために在ったのです……。ああ、そうです……。きっとただその為だけに、私はこの闘いを終わらせたかった。この先にあの人の本当の笑顔が見られると信じていたから……私は、優しいだけの男でいられたのです…………」


「……ひぃッ」

 ゲイルの喉から抑えきれない恐怖が漏れた。

 眼前に佇む雨水滴る美しい男が、美しいまま、余りにも恐ろしい微笑みを浮かべたから。まるで絶世の美を誇る死神に出会ってしまったかのようだった。いや、それは限りなく写実的な比喩かもしれない。銀髪の死神はその手に握るデスサイスを緩やかに振りかぶった。


「途中で道が別れることでしょうけれど、その前に彼女へ追いついて伝えてください」

 細く弧を描く碧眼から、雨に混じって二筋の澄んだ水が頬を伝い降りた。

「スピナー・フォン・オルトラスは貴女を愛していました……と」


 光が閃く。

 ただ盾と剣を持っているだけのゲイルは、微動だに出来ずに首から上を失った。

 それを目の当たりにしたゴーシュが恐怖に声を裏返らせながら、何の策もないままスピナーへ突っ込む。そこへまるで蠅を払うように軽々と二度目の薙ぎが吹き抜ける。狂乱の表情のままゴーシュの首から上が戦場へ転がり落ちていく。


「ぅ……ああああッ! 死ねぇ! クレセントォ!!」

 側近二人を死神への生贄にして最強の兵器を起こしたホークは、外しようもない距離に迷うことなくやじりを向けて引き金を絞った。


 ―――ドシュッッ


 鎧を貫き肉を抉る音が激しく響いた。

 数秒後、佇むスピナーの口の端から鮮血が漏れて流れる。そしてその妖艶な紅染めの唇が、まるでこれ以上ない悦びを得たかのように三日月を浮かべた。

「リリーさん……これで、貴女の苦しみの千分の一でも味わえたでしょうか? 貴女を守れなかった私の罪は、千分の一でも贖えたでしょうか……?」

 左胸の、しかしほぼ肩に近い位置に深々と矢が埋まっている。

 幸福そうな表情で再び歩を進め始めたスピナーを前に、ホークは顎を震わせて自分の背後を何度も確認する。

「お、お、俺は……俺は最強の……“最強の将”になったんだ……! もう俺の名は歴史に輝いている! はは……そうさ、俺は野望を叶えたんだ……!」

 スピナーは脚を止めると、微笑みに細めていた双眸を膨らませた。

「……そんな己だけの功名心の為に、その矢でリリーさんを……ゴホッ……!」

 ざわざわと毛を逆立て、胃の奥を震わせ、そして込み上げた喀血を岩に吐きつけた。

「……下を見てみなさい。今日、ダナスの全ての兵士がレストリアを殺し尽くすでしょう。たった一人の女性の為に……。貴方が最強の将? 残念でしたね…………」

 ゆるり……と手首で槍を回転させた。そして―――


「真に“最強の将”というものが在るのなら、それは決して国から奪ってはいけない人のことだったのです」


 トン……と、砕けている方の切っ先でホークの胸の中心を押した。

 優しくバランスを失わされたホークは、二度、三度、両腕を泳がせ、そして持ち直せないことを悟るとスピナーへ呆然と視線を送り、その表情のままゆっくりと遥か遠い戦場へ身を投げ出していく。

「貴方には、何の栄誉もない」

 ――そして私にも……

 冷たい眼で見送って、スピナーは一度槍を足元に突き立てる。それから静かに踵を返すとその眼差しを眼下へ送り、地獄の中心に立つ一人の戦士を探す。

「ケイオス……貴方も今頃……」

 砕けたクロスボウを崖の縁に置き去りにし、スピナーは銀の雨の中で双眸を閉じた。

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